敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

【自動運転】50年前より 240 倍安全な車が普及する未来の「事故と死」

 

 

「完全自動運転」の一歩手前となるレベル3の自動運転車が 2020年に公道(高速道路)を走り始め、2022~2025年ごろには、「レベル4」の自動運転技術を搭載した車両の市場投入が計画されています。

 

ちなみに、自動運転のレベルは以下のように定められており、レベル4以上がいわゆる「完全自動運転」ということになります。本記事の執筆時点において、日本ではレベル2までが実用化され、市販車に搭載されています。

レベル0  人がすべて操作
レベル1  自動ブレーキなどの運転支援
レベル2  車線変更や追い越しなどの運転支援
レベル3  システムが運転操作(求められれば人間が対応)
レベル4  一定条件下でシステムがすべて運転操作(人間は対応せず)
レベル5  システムがすべて運転操作

 

このように、自動車単体の技術としては、「完全」自動運転がもう手の届く所まで来ています。ただし、それが普及に直結するかどうかは、また別の問題です。

 

マクロの視点では、自動運転の導入により交通事故の件数は確実に減ります。しかし、ミクロの視点では、「機械に人間が殺される」可能性が決してゼロにはなりませんので、「死」が日常から遠ざけられた安全・安定志向の現代(未来)社会では、この問題が必ず立ちはだかることになるからです。

 

日本と外国の意識の違い

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ある調査によれば、「完全自動運転車に乗ってみたい」と答えた人は、インドで85%、中国では75%にも上ったのに対して、日本では36%に留まり、調査対象 10カ国の中で最も少なかったそうです。

 

なぜ、このような違いがあるのでしょうか?

 

理由はいろいろあると思いますが、「交通事故死亡率」を1つの手掛かりとして考えてみたいと思います。

 

現在の日本は、自動車保有台数が約8,000万台(自動車検査登録情報協会より)であるのに対して、年間交通事故死者数が約4,000人(全日本交通安全協会より)ですので、死亡事故発生率は、およそ「2万台当たり1人」ということになります。

 

一方、インドと中国は、自動車保有台数がそれぞれ約3,000万台、約1億 3,500万台(2015年末:日本自動車工業会より)であるのに対して、年間交通事故死亡件数は、それぞれ約13万件、約7万件(世界保健機関より)となっており、死亡事故発生率はそれぞれ、およそ「200台当たり1件」「2,000台当たり1件」ということになります。

 

つまり、単純計算で、インドは日本の100倍、中国は日本の10倍、「車は危険」という認識が人々の中にあると考えられます

 

上にも書いたように、自動運転を導入すれば交通事故の件数は確実に減りますので、「車は危険」という認識の強いインドや中国では、「機械に人間が殺される」というミクロの視点よりも、「交通事故が減ってより安全になる」というマクロの視点が重視されることによって、自動運転車に対する期待が高く現れているのではないか、という1つの仮説が成り立ちます。

 

日本の昔と今の違い

国内の交通事故による死者数の推移を見てみると、戦後すぐが 4,000人前後であり、「第1次交通戦争」と呼ばれた1970年前後に1万人を超え、いったんは1万人弱へと減ったものの、「第2次交通戦争」と呼ばれる1990年前後に再び1万人を超えています。それ以降は徐々に減っていき、現在は戦後すぐと同じ 4,000人前後に落ち着いています。

 

この間、自動車の保有台数は爆発的に増加しています。

 

たとえば、現在と50年前とを比較してみると・・・

現在  : 保有台数 = 約8,000万台(交通事故死者数 = 約4,000人)
50年前 : 保有台数 = 約800万台(交通事故死者数 = 約1万3,000人)

 

50年前は、保有台数が現在の1/10なのに、死者数は3倍強です。つまり、印象として、50年前の自動車は、現在より30倍以上も危険な乗り物だったわけです。現在のインドと中国の間ぐらいの印象ですね。

 

戦後、自動車という新しいテクノロジ(それがもたらす新しいタイプの「死」)が、なぜ社会で受け入れられ、保有台数が爆発的に増加していったのでしょうか?

 

その理由はいくつかあるでしょうが、たとえば以下のような点が考えられます。

  1. 戦争を経験し、「死」が日常の割りと近くにあった
  2. 社会全体の安全意識があまり高くなかった
  3. 「高度成長」という高揚感があった
  4. 自動車の便益が、リスクよりも大きく見えた

 

さらに、50年前は、刑法犯の被害による死者数が現在の5倍程度と、殺人事件も多く発生しており、治安が悪かったこと(「死」が日常の近くにあったこと)も背景の1つと考えられそうです。

 

自動車とエレベータ/エスカレータとの比較

次に、100%機械化されているエレベータやエスカレータとの比較で、自動運転車の未来を考えてみたいと思います。

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■ 安全の定義

ある技術が「安全かどうか」は、それが「人間にとって安全かどうか」という問題になるわけですから、その技術だけを見ていても安全かどうかは分からず、その技術との人間の関わり方、その技術の経済上の必要性、その技術の社会における歴史、その技術の導入を決定する政治などが影響すると考えられます。

 

ここではものすごく単純化して、人がある技術に抱く「安全期待(安全であるはずという期待)」は、その技術がどれだけ機械化されているか(人の介入がどの程度か)と、その技術による死亡事故発生率によって決まるものと仮定します。

 

■ 自動車の場合

現在、車は人間が運転しています。

 

この車の機械化率を明確にするのは難しいですが、簡単に、機械と人間の役割が半々と考えると、機械化率は「1/2」です。

 

一方、上にも書いた通り、国内の年間死亡事故発生率は、「2万台当たり1人」です。

 

つまり、現状として、「機械化率が1/2」である車は、「事故率が2万台当たり1人」という安全水準にある、と言えます。

 

■ エレベータやエスカレータの場合

次に、エレベータやエスカレータの場合を考えます。

 

エレベータやエスカレータは、稼働時に人手が掛かりませんから、完全に機械化していると考えられ、機械化率は「1」です。

 

一方、普及台数が約80万台(日本エレベーター協会等より)であるのに対して、年間事故死者数が約5人(国土交通省の資料等から概算)ですので、死亡事故発生率(国内)は、「16万台当たり1人」ということになります。

 

つまり、現状として、「機械化率が1」であるエレベータやエスカレータは、「事故率が16万台当たり1人」という安全水準にある、と言えます。

 

車が「2万台当たり1人」でしたので、車よりも8倍厳しい安全水準が求められているとも言えます。

 

■ 完全自動運転が実現した場合

将来、車が完全に自動運転となった場合は、運転時に人手が掛からなくなるわけですから、機械化率は「1」となります。つまり、「機械化」という観点において、将来の自動運転車は、現在のエレベータやエスカレータと同等の認識がなされることになります。

 

機械化率が同じ場合、求められる安全水準も同じになると仮定すると、死亡事故発生率は、少なくとも現在の1/8である必要があります。

 

つまり、将来の自動運転車は、現在の車と比較して、8倍以上の安全が求められます。

 

50 年前より 240 倍安全になった車に人は乗るか?

ここまでをまとめると、現在の自動車は、印象として、50 年前より 30 倍安全になったと言えます。そして、将来的に自動運転車が普及する際の安全水準が、少なくとも現在のエレベータ/エスカレータと同等になるものと仮定すると、将来の自動運転車は、現在の車と比較して8倍安全ということになります。

 

つまり、普及レベルの自動運転車は、50 年前の自動車と比較して、少なくとも 30 × 8 = 240 倍は安全になった印象を与えることになると考えられます。

 

果たして、この 240 倍安全になった車に、人は乗るのでしょうか? 少なくとも 240 倍安全になった車は、社会に受け入れられるのでしょうか?

 

 

 

自動運転車の普及に立ちはだかる壁

■ 倫理面の壁

車が道路を走行中、目の前に障害物が現れた。ブレーキをかけても間に合わない。右側にハンドルを切ると、Aさん(たとえば、社会に大きく貢献する企業家)が犠牲になる。左側にハンドルを切ると、Bさん(たとえば、将来の大いなる可能性を秘めた赤ん坊)が犠牲になる。車は、そのまま直進すべきか、どちらかにハンドルを切るべきか。

 

このような倫理上の問題は、かなり以前から指摘されています。

 

人間が運転している場合は、その人の「倫理」に基づいて、「一瞬」でこれを判断することになります。その行為が正しいかどうかではなく、その人の「一瞬の倫理観」が決め手になります。その結果、たとえばAさんが車にひかれた場合、Aさんはドライバの「倫理」と向き合うことになり、ドライバの倫理が受け入れやすいものであればあるほど、Aさんは結果を受け入れやすくなります。ある意味、ドライバの倫理に気持ちが「救われる」可能性があります。

 

自動運転車が難しいのは、正しいのかどうかが分からず、「一瞬の倫理観」に委ねられているものを、事前に開発者が結論付けておかなければならない点です。あるいは、人工知能が学習のどこかの段階で得た「倫理」を頼りにするしかない点です。おそらく、どう対処するのが正しいのかは、人間がいくら考えても明確な答えは出ず、「決める」しかないんでしょうね。

 

■ 法律面の壁

現在の道路交通法は、人間が運転することを前提としていますが、レベル4以上になると、人間が運転に関与しなくなるため、この前提が合わなくなります。

 

システムによる運転操作中は、ドライバに注意義務を課すのが難しく、もし事故が起きた場合でも、ドライバは処罰されないものと想定されます。

 

一方、自動車メーカについても、事故を予見して結果を回避する義務を認めるのは難しく、悪質なケースを除いて処罰は困難、という見方が大勢を占めています。

 

ドライバも自動車メーカも処罰の対象外となるなら、自動運転の核となる人工知能(AI)に「電子的人格」を認めて、人工知能を刑法の対象(主体)にすることも検討しなければならなくなります。

 

最後は命の取引か?

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住宅街の広くない道を減速もせずに走行する車をたまに見かけます。交差点で、自転車や子どもが不意に飛び出してきたら、と思うと怖くなります。

 

将来、自動運転車が普及して、「慎重な運転」を学習した人工知能が搭載されているならば、このようにヒヤリとする場面は少なくなるのでしょう(このような自動運転車は、極低速で走行すると予想されますので、それに伴う渋滞などは、また別の課題です)。

 

一方、自動運転の究極の目標として、自動車メーカが「死傷者ゼロ」を掲げるように、ボクら庶民の間でも「自動運転は事故ゼロ」という認識が広がっているように思います。

 

ただし、いくら慎重な運転であっても、いくら低速で走行しても、事故がゼロになることはありません。車というのは、それがもたらすリスクよりも便益が大きいために、社会で許容されているだけのことです。

 

現在の自動車が事故の発生を前提としているのに対して、自動運転車には、最初から「事故ゼロ」という期待がかけられています。

 

可能な限り「事故ゼロ」に近づけるには、交差点などの死角での事故を防止するため、たとえば交差点の路側機と車に搭載した車載器との間の情報のやり取り、車載器同士の情報のやり取り、歩行者が持つ携帯端末との情報のやり取りなどが必要になります。このようなインフラの整備には、さらに10年単位の時間が必要になるのでしょう。

 

しかし、このようなインフラを整備しても、「事故ゼロ」にはなりません。

 

最後は、自動運転車という「機械」が事故を起こし得ることを社会が許容するかどうかです。つまり、人間の全く関わっていない機械が事故を起こし、場合によっては死亡事故を起こす可能性があることを、社会が受け入れるかどうかです(もちろん、事故が今よりも減る、という利点はありますが・・・)。

 

これを受け入れた後には、自動運転の分野に限らず、「機械が人を殺す」という今は考えようもないハードルが少し下がることになるのかもしれません。

 

 

 

もっと現実的な未来像

ここまで考えると、完全自動運転車の普及というのは、そう簡単に実現するとも思えません。完全自動運転車がいきなり社会全体に浸透するのではなく、もっと現実的な未来がやってくると考えるのが妥当です。

 

■ 自動車と歩行者(自転車)の分離

現在開発中の自動運転車は、高速道路や幹線道路だけを走るものとし、市街地は、いわゆる「超小型モビリティ」を自動運転化して導入すれば、歩行者や自転車の安全を概ね確保できそうです。

 

このような分離を図るには、幹線道路と市街道路の区分け、幹線道路に人が近寄れない仕組み、超小型モビリティへの乗り換え場所の確保など、インフラの大きな組み換えが必要になりますが、結果的に、市街地の交通環境が今よりも安全で快適になりますので、望ましい姿と言えます。

 

■ 空飛ぶ車

欧米を中心に、「空飛ぶ車」の開発が熱を帯びてきています。

 

たとえば、米国のライドシェア(相乗り)サービス大手 Uber Technologies(ウーバー)とブラジルの航空機メーカ Embraer(エンブラエル)との提携、シリコンバレーのベンチャー企業 Kitty Hawk(キティホーク)による個人用飛行機の開発、フランスに本社を置く航空機メーカ AIRBUS(エアバス)によるエアモビリティ「Vahana(ヴァーハナ) 」プロジェクト(動画はこちら)などが挙げられます。

 

いずれも、簡単に表現するなら、「人が乗れる大型のドローン」ですね。

 

安全性や騒音などを考えると、都市部でいきなり実用化するのは難しそうですが、離島や僻地での交通手段として、まずは実績を積んでいくことになるのではないでしょうか。

 

■ 人工知能(AI)と人間の協働

自動ブレーキ、車間制御、車線維持など、部分的な自動運転の技術が進歩すると、車の安全性はさらに高くなり、当然、交通事故も少なくなっていくはずです。

 

これに加えて、自動車搭載の人工知能の「経験」を人間にフィードバックしていくことが考えられます。

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上に書いたように、自動運転の導入によって、交通事故の件数は確実に減ります。ということは、その人工知能は、人間とは異なる視点で学習している可能性が高いわけです。つまり、人間には見えていない「安全」が見えています。

 

たとえば、自動車の走行中、カメラなどのセンサ類はどこに注目しているか、異変があった時にどのような判断をしているか、などが分かれば、それを人間の運転にフィードバックすることで、さらに安全な運転が可能となりそうです。

 

あるフレームの中では、人工知能が人間の能力を向上させる「先生」となる可能性が大いにあるわけです(ただし、現状では、人工知能の思考過程が全く見えず、中身はブラックボックスですから、「理屈は説明できないけど経験値だけが異様に高い先生」ということになります)。

 

完全自動運転ではなく、「理屈はちゃんと説明できないけど経験値だけが異様に高い先生」と協働で事故ゼロを目指すのが、最も現実的なのかもしれませんね。

 

まとめ

現在は、「死」が日常から遠ざけられており、また、社会全体としてかなり高い安全が求められています。ですので、自動運転車の普及のためには、それがもたらす便利な未来と、事故というリスクが如何に小さくなるかを喧伝するしかありません。

 

自動運転車の導入は、日常から遠くなってしまった「死」を見つめ直す良いきっかけになるのかもしれませんね。

 

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ネットSNSで個人を特定されない方法【フリーランスの匿名仕事術】

 

ネット 本人 個人情報 特定 分身 ばらまき

 

 

組織に属したり属さなかったりしながら、航空機関連の開発、ハード/ソフト含めた技術的コンサルティングや技術動向の調査、プランニング、翻訳などの仕事に 10年以上携わってきましたが、特にフリーランスとして働く際に、心掛けていることが1つあります。

 

それは、自分のキャリアを敢えて分かり難くする、ということです。

 

普通のフリーランサーであれば、実名顔出しで、自分の学歴なり職歴なりを披露しつつ、SNS などを駆使することによって、クライアントに自分の一貫したキャリアを見てもらおうと努めるものです。それが信用にもつながりますし、「顔の見える」関係を築けば、仕事を融通してもらいやすい、という思惑もあるでしょう。

 

でも、ボクは、あえてその逆を行きます。それには、自分なりの理由があります。

  • エンジニアとしての実力で勝負したい(技術力で選ばれないのなら、フリーとして長続きしないと思うし、無理してフリーを続ける必要もない)
  • 「フリーランス」というのは刹那的な働き方だと思うので、そこに一貫したキャリアなど無くてもよい(一瞬一瞬で社会に役立てるなら、それで十分)
  • 付き合いの深くない他人に、自分のことを必要以上に特定して欲しくない
  • なんとなく、こっぱずかしいっ!

 

フリーなので、お客さんと一期一会の出会いになることもあれば、10年以上のお付き合いになることもあります。ただ、いずれにしろ、フリーランスというのは、組織に属さないニヒルな生き方であり、社会の影武者的な存在だと思っているので、日なたに出る必要などありません。日陰で、実力だけでメシが食えるなら、それを幸せに感じます。

 

ですので、SNS の類はほとんど使いませんし、ブログもこの通り匿名です。でも、1つだけ、「正体不明」を貫くのが難しい要素を抱えています。

 

ネット上に転がる「実名」と匿名の関係

先祖から分け与えられた苗字(ファミリーネーム)も、両親に付けてもらった名前(ファーストネーム)も、その「読み」は特別珍しいわけでもありません。とは言え、ありふれた苗字&名前でもないので、苗字と名前を一組にすると、それだけで本人特定が少し進みます。

 

さらに厄介な点として、名前の漢字がいずれも、かなり珍しくて画数の多い漢字を採用しているため、「苗字+名前」をすべて漢字でネット検索すると、ボクしかヒットしません。これでは、学歴や職歴が完全に身バレしてしまい、当初の目的を果たせません。仕事柄、名刺交換を行う機会も多いわけですが、こちらがフリーであれば特に、経歴の特定を目的として(悪気なく)相手に氏名をネット検索される可能性は高いでしょうね。

 

別にやましい過去があるわけではないので、身バレしても何ら問題は無いのですが、学歴や職歴によってお客さんに認知バイアスが生じることを避け、打ち合わせやミーティング時の様子(会話の内容やオーラ的なもの)で発注の可否を検討してもらい、アウトプットでもって仕事を評価してもらいたいと常々思っています。それでダメなら、縁がなかったということで。

※ もちろん、フリーランス仲間や懇意にしてもらっている一部の取引先の方々とは、ざっくばらんに経歴込みで、深いお付き合いをさせてもらっています。

 

タレントのように名前を変えて、芸名(?)で活動する選択肢も無いわけではないのですが、それで違う人物が検索ヒットしてしまっても、それはそれでややこしいわけです。匿名で生きていきたい人間にとっては、なんとも面倒な世の中になったもんです。

 

ネットに分身をばらまいて本人特定させない術

ネット 本人 個人情報 特定 分身 ばらまき

ある程度の年数を生きてくれば、いやでもネットに自分の名前が漂流することになります。そして、珍しい名前であればあるほど、本人特定の度合いが増してしまいます。

 

このことは、何もフリーランサーになってから考え始めたわけではなく、世紀が変わる前後からずっと、「なんか気持ち悪いなぁ」と思っていたことです。そして、ネットに名前が出てしまうのは仕方のないこととして、ならば、ネットに分身をばらまいて、本人特定を難しくしてしまえば良いじゃないか!と考え、これまでやってきました。

 

その基本コンセプトは、「分野的にも地理的にも、なるべく関係の薄いところに自分の名前をヒモ付ける」です。これまでの成果を書き連ねてみます。

 

学歴

こればっかりは、嘘を付けば学歴詐称になってしまうため、ネット上に出てくる自分を認めざるを得ません。特に、大学の卒業論文や修士論文の著者名として、論文のタイトルや内容とともに、ネット上で容易に見つかってしまいます。

 

これは仕方のないことですが、それ以外の分身を増やすことで、この学歴もボク本人であるのかないのか、あやふやにしてしまいます。

 

職歴

ネット 本人 個人情報 特定 分身 ばらまき

大学時代を過ごした街から遠く離れた場所で働き始めることになりましたが、その就職した会社で書いた論文や、発明者として出願に関わった特許がネット上に公開されています。その分野も卒論や修論とはかけ離れているため、他人から見て、同一人物かどうか悩むレベルだと思います。

 

その後、フリーランサーになってから、いくつかの取引先のウェブサイトに、ニュースやトピックとして氏名が掲載されましたので、それらが検索でヒットしますが、それぞれの企業の職種や所在地がバラバラですので、それぞれが違う人物のように見えます。

 

また、個人でも特許を出願していますが、これは実家の住所で出願しているため、上に出てくるどの「自分」ともまた異なる自分として、ネット上に存在していることになります。

 

その他の活動

環境 NPO や子育て NPO でボランティア的にお手伝いをしていたこともあるのですが、官公庁への提案書などを作成した際に記した氏名が、その官公庁(あるいは、その出先機関)のウェブサイトで公開されています。現在の仕事の内容とはかけ離れていますし、NPO の所在地も住所地とは異なりますので、「他人感」が出ていることでしょう。

 

また、少しだけ寄付活動もしています。寄付に際しては、必ずと言ってよいほど、名誉欲を刺激する目的で「本名を公開しますか?」という質問がなされるのですが、ボクはこれを「分身の術」のために利用しています。出身の高校や大学、各種クラウドファンディングなども含めて、さまざまなところに少しずつ寄付しており、これらも「他人感」を醸すのに役立っています。寄付もできて、一石二鳥ですね。

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分身の術に成功!

今のところ、10人以上の「少しずつ異なる自分」がネット上で活躍しています。この「少しずつ」というのが結構重要であり、ネット上で自分自身をグラデーション的に表せていると思います。あまりに異なり過ぎると、分身の意味がありませんからね。

 

実名顔出しで身を削るように活躍しているフリーランサーもよく見かけますが、技術力さえあれば、自分自身を切り売りする必要などない、ということを証明したいと思っています。こんなに分かり難い相手なのに、仕事を依頼したいと思われるなら、フリーランサーとして大成功です。アウトプットさえしっかりしていれば、秘密のベールに包まれた相手ほど、逆に気になって心引き寄せられる、という心理が多少なりとも働くと思います(怖いもの見たさ!)。

 

以上、ボクのフリーとしての経験に基づいて「ネット分身の術」を書いてきましたが、フリーじゃなくても、匿名で生きていきたい人の役に立てれば幸いです。今後、キラキラネームの方々が社会に出て活躍するケースが増えるのは間違いないため、個人特定の問題も大きくなっていくんじゃないかと考えています。

 

信用スコアによる人間の格付けが進む中国などでは、身バレすることは、もはや避けて通れない選択肢になろうとしているようですが、そんな息苦しい社会はゴメンです。自分は HSP(Highly Sensitive Person)なので、基本的に「放っておいて欲しい」という気持ちが根底にあることも影響しているんだと思います。HSP なりの自己防衛です。

 

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ストレス弱者(HSP)の方が人工知能(AI)社会で進化できるという仮説

 

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過去3回目の人工知能(AI:Artificial Intelligence)ブームである。今回は、長い。

 

過去2回と今回が違うのは、チップの処理能力やアルゴリズムが飛躍的に進歩し、ビッグデータの集積もあって、さまざまなウェブサービスのみならず、自動運転や自動翻訳なども含めて、ボクら一般庶民の目にも見える形でいろんな成果が上がっていること。

 

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このように、人工知能をベースとした様々なテクノロジによって、ボクらの生活がますます便利になるのは良いことなんだけど、数多くの無料の「便利」の裏側では、膨大な量の個人情報(使用履歴や購買履歴 etc.)が処理され、人工知能の機械学習によって、広告や商品、サービスなど、次の「おススメ」が目の前に提示される機会がますます増えており、食傷気味の人も多いと思う。

 

今後は、人工知能の「おススメ」を人間が学習し、その学習を上回るように人工知能がさらに学習し、その「おススメ」を人間がさらに学習し、それを上回るように・・・というように、人間と人工知能の「だまし合い」のような状況が延々と続くのだろう。

 

そんな未来に少々うんざりの今日この頃、「ストレスに弱い人間の方が、人工知能と上手く付き合っていけるんじゃないか?」と、何となく考えるに至った。ちょっと深掘り。

人工知能 深掘り 芋

 

ストレスに弱い人 vs. 人工知能(AI)

単純に考えると、ストレスに弱い人(ストレス弱者)は、いとも簡単に AI の手玉に取られてしまいそうにも思える。

 

「ストレスに弱い」ということは、何となく世間知らずで、か弱く、すぐに騙されてしまうような印象があるからだろう。あるいは、ちょっとした圧力にスグ屈してしまうようなイメージがあるからかもしれない。

 

でも、ストレスと「心の状態」との関係から考えてみると、必ずしもそうとは言えなさそうである。

 

ストレスと「心の状態」の関係

ストレスの強弱と心の状態(心身の活性度)との関係を表すのに、このような正規分布状のグラフがよく用いられる。

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かかるストレスが小さい時(グラフの左の方)は、心身がほとんど反応していなかったり、反応していても「退屈」に感じていたりする。

 

それが、ストレスの増大とともに、「やる気」となって現れ、あるストレスに至った時、心身の活性度が最も高くなって、「快適」な状態が訪れる。

 

そして、「快適」な状態を超えてストレスが大きくなると、次第に「イライラ」が募り、やがて「燃え尽き」の状態に陥り、行き過ぎると「うつ」状態になる。

 

つまり、一般的な人間は、ストレスが小さすぎても大きすぎても居心地が悪く、ある程度の負荷(ストレス)が与えられている状態を「快適」と感じ、そのような状態にあってこそ成長も可能となる。

 

ストレス弱者(HSP)の「心の状態」

一方、たとえば HSP のように、外界からのストレスに比較的弱い人は、ストレスの大小に応じて、どのような心の状態をたどるのだろう。

HSP(Highly Sensitive Person)とは、病名のことではなく、感受性が生まれつき強く、ちょっとした環境の変化や他人の気持ちにとても敏感なため、五感の強い刺激や他人とのコミュニケーションに圧倒され、すぐに疲れてしまうタイプの人を表す心理学用語(参考記事:[HSP の新学期]繊細で感じやすいムスメの心は嵐が吹き荒れる)。

 

人によって様子は多少なりとも異なるんだろうけど、以下のような「心の状態」になっていることが多いように思う(自分自身の経験からも)。正規分布(グレー)を外れて、F分布(ブラック)に近づくようなイメージだ。

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つまり、一般的な人(非 HSP = 正規分布)と比べて、弱いストレスでも心身の活性度が一気に高まり、すぐに「快適」に達する一方、「快適」を超えた後の落ち方も急峻であり、非 HSP が「快適」と感じるレベルのストレスも、HSP には「イライラ~燃え尽き」に相当する大きなストレスに感じられる。

 

このように、小さなストレスにでも過剰に反応してしまう性質が、「ストレスに弱い」と言われる所以だろう。

 

でも、少し視点を変えると、HSP のようなストレス弱者は、ちょっとのストレス(環境の変化)でも「退屈」を脱して「やる気」を出せるため、非 HSP よりもわずかなきっかけで自分を成長させられる可能性がある。自分を成長させるのに、それほど大きな負荷は要らない、とも言えそうだ。

 

 こ 

ストレスに弱い人は、人工知能(AI)から離れて進化する

ストレスに弱い人(HSP など)が上のような心の状態をたどるとするなら、「快適」を超えるストレスで心身の活性度は一気に降下することになるため、極力そのようなストレスを遠ざけようとするのが普通である。

 

一方、ストレスを「環境の変化」と捉えるなら、こちらから頼みもしないのに人工知能(AI)が広告や商品、サービスなどをおススメしてくる環境は、HSP などにとっては無視できないほどの大きなストレスに感じられる。

 

HSP は基本的に放っておいて欲しいと思っているので、これから将来にわたって AI が跋扈するようになればなるほど、心は AI から離れていき、適度な距離感でテクノロジと付き合えるようになるのかもしれない。

 

HSP は、その過敏すぎる気質を利用して、群れや集団を外敵や将来の危険から守る「見張り番」の役割を遺伝子レベルで担っている、という一説もあるので、そういう点でも「人間 vs. AI」の行く末を遠巻きに見ているのがピッタリの性質なんだろう。

 

いろんなものをおススメしてくる AI というのは、自分の好みを把握している「生き写し」のような存在だから、AI と向き合えば向き合うほど、それは自分自身をひたすら内面化する作業になってしまう。AI は人間の知性を機械化したものなのに、その AI に人間自身が取り込まれてしまう状況だ。

 

生物学的に考えて、そのように自己内面化しかできず、有形無形のあらゆる「外部(システム)」を受け入れられなくなった生き物は、進化から取り残されてしまうんじゃないかと思われる。

 

その点でも、生き写し的な AI とは適度な距離感を保つのが得策だと考える。ボク自身、仕事で AI に関わることは多々あれど、プライベートではなるべく距離を置いている。

 

 こ 

 

 

 

おまけ:ストレスの解消法

HSP が人工知能(AI)と上手く付き合っていけるのは良いことだけど、ストレスに弱いことは事実なので、AI との付き合いの前にストレスで自滅してしまいかねない。

 

そこで、(自分のためにも)ごく一般的な「ストレス対処法」をまとめておく。

 

ABC 理論

ストレスは、ある出来事(ctivating event)を経験した人が、その人の価値観や認知(Belief)でその出来事をとらえた結果(Consequence)として、心身の状態となって現れるため、価値観・認知「」次第で結果は大きく変わることになる。

 

たとえば、上司に厳しく叱られた場合、「自分はやっぱりダメだ」と思うのではなく、「自分の将来を考えて叱ってくれている」「同じ失敗で恥をかかないように叱ってくれている」など、超前向きに変換してしまえば、少しは気が楽になるはず。

ブラックな場合は別なので、しっかりと見極める必要がある。

 

簡単な日記をつけて後で読み返す癖をつければ、自分の「マイナス思考回路」に気付いて、少しずつ前向きになっていける場合もある(詳しくは、その手の専門書を)。

 

4つのR

ストレスを感じた場合は、非日常的な場に身を置いてリフレッシュすることが大切だ。

  1. 休息(Rest):睡眠やマッサージ など
  2. 気晴らし(Recreation):遊びや運動 など
  3. リラックス(Relaxation):温泉やアロマセラピー など
  4. 転地療法(Retreatment):旅行や森林浴 など

 

GNN

義理(Giri)人情(Ninjo)浪花節(Naniwabushi)

 

成果主義で殺伐とした職場よりも、無駄話が多く、人間的な温かみの残っている職場の方が、メンタルの健全性が高いとも言われている。

 

そういう点でも、多少スマートではなくても、人工知能などがもたらす「効率主義」から距離を置く方が、人間として健全に過ごせるのかもしれない。

 

では、ストレスよ、サヨウナラ!

 

現代の黒船『グーグル』が日本に初上陸した時の様子を調べて面白かった

 

黒船 平成 グーグル 日本 初上陸

 

 

仕事で過去の新聞や雑誌・論文を調べていて、「そういえば、FAANG(Facebook、Amazon、Apple、Netflix、Google)と呼ばれる『現代の黒船』が日本に初上陸した時の様子はどんなものだったんだろう?」と気になりました。

 

現代の黒船 FAANG

ご存知の通り、「黒船」というのは、マシュー・ペリー率いる米海軍東インド艦隊の艦船のことであり、徳川・江戸幕府末期の日本に来航して、鎖国 300年の歴史に終止符を打つきっかけとなった、あの4隻の黒船のことです。

 

あれからわずか 150年。

 

GAFA と呼ばれる4隻に Netflix を加えた5隻の黒船は、プラットフォーム事業者として、日本では既に必要不可欠なインフラとなっています。そして、ユーザのみならず、優秀なエンジニアも次々に取り込まれて、もはや「開国」どころか、国境の意味すら無くなりつつあります。

 

そんな黒船たちの日本上陸当初の姿を簡単に追いかけてみたいと思います。まず最初は、Google(グーグル)からです。

 

調べ方

  • 仕事ではありませんので、割りと適当です。
  • 「上陸」の定義は、「一般に広く知られること」とします。
  • そのため、ネット情報や学術論文ではなく、全国紙、業界紙、ビジネス雑誌など、幅広い年齢層の目に止まる媒体の記事を対象としました。
  • その中で、「グーグル」に関する記述が中心となっているものを、最も古い記事から順に、適当な数だけ拾い出しました。
  • 調査結果には誤りがあるかもしれません。あしからず。

 

以上のように調査して、いくつか面白い記事が出てきました。

 

グーグルの日本初上陸

今回調べた限りにおいて、グーグルを中心的に扱った記事としては、以下の時事通信の記事が日本最古のものです。したがって、これを勝手に「グーグルの日本初上陸」と認定します(ただし、この記事が実際に新聞・ニュースなどで報じられたかどうかは不明)。

【サイトに10言語バージョンを追加-ネット情報検索の米グーグル】
急成長を続けているウェブ・サーチエンジンの一つ、米グーグルは、受賞製品である同社のサーチエンジンの新しい言語バージョン10種を発表した。この拡大サービスでユーザーは、フランス語、ドイツ語、イタリア語など欧州言語10種のどれででも情報検索ができる。同社は今年末までに、日本語、中国語、韓国語などさらに多くの言語バージョンを追加する計画。そのホームページでリンクすれば、好みの言語を選択でき、次回からの検索のため言語選択はセーブできる。ある調査によれば、現在インターネット上のウェブサイトの80%は英語を使用しているが、2003年までにはサイトの55%は英語以外の言語による表示になると予測されている。

引用:時事通信(2000.5.10)

 

今から 20年近く前、20世紀最後の5月の記事ですが、初上陸にしては、割りと地味な内容ですね (*'▽')。

 

プラットフォーマーとして確固たる地位を築きつつある今は、日本のみならず欧州各国でも、個人情報の取り扱いや市場の独占などが問題となっているため、どちらかといえば「脅威」として紙面に登場する機会が増えてしまいましたが、20年前の当時は、日本語サービスの開始を待ちわびているような、ちょっとした歓迎ムードも漂います。

 

グーグルが全国紙に登場

次に登場したのは、読売新聞の紙面です。

【“超便利”ネット検索エンジン続々 「お気に入り」やリンクを利用】

◆飛躍的に精度アップ
(中略)
 昨年から正確な検索結果が話題となっているのは「グーグル」(グーグル社・米カリフォルニア州、http://www.google.com/)だ。ホームページ閲覧ソフト「ネットスケープ・コミュニケーター」の英語版とも連携、ページのアドレス(URL)を打ち込む欄にキーワードを入力するだけで検索結果が表示される。
 今のところ日本語には対応していないが、例えばローマ字で「hiromi go」(歌手の郷ひろみさん)と入力すると、約四千の結果が探し出され、リストの一番目にはちゃんと公式ページが掲載されるといった具合だ。
 この検索はコンピューターが世界中のページを自動で次々に調査する「ロボット型検索」に分類される。この方式では通常、キーワードがあるページの情報を大量に集めるため、欲しい結果が埋もれるのが常だった。これに対しグーグルは、ページの重要度を、他ページからリンクされている回数を元に順位付けしたのが特徴。順位付けに際しては、リンクしている他ページの重要度も考慮に入れており、「精度」が飛躍的に向上したという。
(中略)
 今や数十億に上るページの検索は、ロボット型検索のほかに、最もポピュラーな「Yahoo!」のように人手でページを分野別に分類して索引を作り、キーワードに合った分類名や紹介文を持つページを探し出す索引型検索がある。
 通常このような索引は専門の担当者によって編集されているのに対し、希望者が索引の編集者となり、ボランティアとしてページを登録していくのが六月下旬にも日本でサービスを開始する「ブリンク」(ブリンクドットコム社、http://www.blink.co.jp/)だ。
 このサービスの特徴は、ある分野に詳しい人は、その分野の貴重なページを数多く蓄積しているはずという前提に基づき、利用者が自分で収集し、分類した「お気に入り(ブックマーク)」を情報交換すること。

(後略)

引用:読売新聞(東京朝刊:2000.5.31)

 

ブログなどで SEO 対策を頑張っている人ならご存知の通り、他ページからのリンク数なども加味してそのページの重要度を判断するロボット型検索アルゴリズムは、20年前の検索エンジン業界に革命をもたらすものであったことが分かります。

 

また、索引型検索として、Yahoo! のほかに、「ブリンク」という懐かしい名前も登場していますね。 

 

当時は、「hiromi go」で検索した結果が 4,000件ほど、とのことですが、先ほど「hiromi go」で検索してみましたら、約 1,500万件でした。単純計算で、およそ 20 年の間に情報量(検索結果)が4千倍になっています。当然、郷ひろみさんのオフィシャルサイトが検索順位のトップです(ちなみに、「郷ひろみ」で検索したら、約 580万件でした)。

 

グーグルの日本語サービスが開始

3番目に古い記事は、日本語サービスの開始を報じる「日経パソコン」の記事でした。

【ニュース~検索エンジンのGoogle 日本語サービスを開始】

米国で新しい検索エンジンとして人気のあるグーグルが日本語サービスを開始する(http://www.google.com/)。既にベータサービスを開始しており、8月には本サービスを始める予定だ。

 グーグルは米スタンフォード大学の学生だったラリー・ページ氏(現CEO)とサージェイ・ブリン氏(現社長)が開発し、98年9月にサービスを始めた検索エンジン。検索速度が速いこと、数多くのWebサイトをインデックス化していること、簡潔なユーザーインタフェースなどが評判となり、短期間で検索エンジンの大手のひとつに成長した。

(後略)

引用:日経パソコン 第366号(2000.7.24)

 

日本上陸が最も早かった時事通信の記事では、日本語サービスの開始は「年内」と報じられていましたが、その後急速に開発が進んだのか、8月に日本語サービスが始まることになった模様です。つまり、20世紀最後の夏に、グーグルを日本語で利用できるようになったわけです。あの夏、ボクは何をしていたかなぁ・・・ ('Д')。

 

グーグルの戦略

これまでに紹介した3件は、ニュース的な側面が強かったり、グーグルの技術を簡単に説明したものであったり、この頃の日本では「検索といえば Yahoo!」という常識が依然として根強く残っていたことが何となく分かりますが、以下の「日経ビジネス」の記事で、いよいよグーグルの実力が日本でも認められつつあるような雰囲気が感じられます。

【時流超流・トレンド e革命の波~グーグル、キーン・ドット・コム…検索エンジンで新世代が台頭  ヤフーやシスコがぞっこん、群抜く速さと的確さ】

ウェブサイトの検索というと、大抵の人はヤフーを思い出すに違いない。
 しかし、そのヤフーが今、サイト検索に使っている技術は自前のものではない。グーグルというスタンフォード大学の学生が始めた新しい会社の技術を今年の8月から使い始めた。

(中略)
 1998年の9月に創業した当時は、1日に1万件ほどの検索依頼しかなかったが、今年の6月には1000万件を超え、8月からヤフーが同社を採用したことで「検索依頼がそれまでに比べて1ケタ増えた」(ラリーCEO)という。
(中略)
どんなページへも0.5秒以内で
 グーグルの検索ページでサイトを検索すると、大抵0.5秒以内で検索が完了する。もう1人の創業者であるセルゲイ・ブリン社長は「1つの単語で検索するだけなら、ほかの検索エンジンとの差はそれほど感じないが、2つ3つと検索する条件を加えると、検索時間の差が実感できる」と言う。
 グーグルの検索エンジンは、データマイニングと呼ばれる技術と、サイトの評価方法に特徴がある。

(中略)
 こうした技術力だけではなく、同社はサイトの作り方やビジネスモデルにも特徴がある。グーグルのサイトには派手な画像を使った広告はなく、使う色の数も限定されている。単純さが売り物の1つだ。その理由をブリン会長はこう説明する。
 「広告に目を向かせようとして、できるだけ派手な広告を載せれば載せるほどサイトは醜くなる。その結果、そのサイトの滞在での時間は短くなり、かえって広告の効果は少なくなる」。同社のサイトでは、テキスト広告という、単純な文字情報だけの広告がある。しかも、サイトのデザインを壊さないように色使いも限定されている。
 だが、こうした制限を加えられるのを好ましく思わない広告主もいるはず。それに対し、ブリン会長は「我々のビジネスモデルが広告だけに頼らないことも、そうした制限を加えられる大きな条件になっている」と話す。同社の収入の半分以上は、ヤフーへ供与したような検索システムを他の企業へ供与した際の使用料が占める。
(後略)

引用:日経ビジネス 第1061号(2000.10.9)

 

どのようなルートをたどれば最も速く目的のデータ(サイト)にたどり着けるかは、ソフトウェア技術者のデータマイニングの力量が試されますし、重要なサイトに対するリンク構造の分析によってその重要性を判断する方法は、数学的な素養が必要になります。

 

このように、他社と異なる視点でウェブの世界を捉えるとともに、高性能コンピュータを何千台もつなげて強力なデータセンターを構築することにより、特に検索条件が複雑な場合に、他の検索エンジンを寄せ付けない圧倒的な強みを発揮するテクノロジが確立されてきたことが分かります。

 

また、一般人としてアドセンスのお世話になっていることもあり、「グーグル = 広告」というイメージが当然強いのですが、サービス提供当初から広告に頼り過ぎることなく、逆に、広告をベタベタ貼り付けた他の検索サイトとは一線を画していることも分かります。

 

このような逆転の発想により、広告(マネー)がギラつかないクリーンな印象を構築して、他の検索サイトの広告に嫌気が差し始めていたユーザを見事に取り込み、そのユーザのサイト滞在時間を長くすることで広告収益を上げていく戦略には、やはり先見の明を感じますね。その思想は、今も脈々と受け継がれていることでしょう。

 

 

 

まとめ

グーグルの日本初上陸と思われる時事通信の 2000年5月の記事に始まり、その後に続く3つの記事を紹介しました。

 

スタンフォード大学の博士課程に在籍するラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが研究プロジェクトの一環として検索エンジンに取り組み始めたのが 1996年1月、「google.com」というドメインが取得されたのが 1997年9月、法人格となったのが 1998年9月、そして日本語サービスの提供が始まったのが 2000年8月ですから、産声を上げてから日本語で利用できるようになるまでに、4年以上もの長い時間を要していることになります。今の時間感覚で考えると、ものすごく時間が掛かっている印象を受けますね。

 

でも、その後は現在に至るまで、変化の激しい業界で 20年にわたって検索サービスの第1のプラットフォーマーとしての地位を保ち続けているわけですから、グーグルという会社が如何に普遍的で替えの利かないテクノロジとビジネスモデルを編み出し、それを世界全体に張り巡らせているかが分かります。

 

とは言え、「世界中の情報を整理し尽くす」という使命とは裏腹に、最近では、SEO に押され気味で、「望みの検索結果になかなか到達できない」という意見がもっぱらですね。1ユーザとしてもそれを強く感じています。今後に期待したいところです。

 

* * *

 

わずか 20年ほど前の出来事なのに、上陸当初の記事を読んでいると、隔世の感が半端ないです。それぐらい、この 20年のテクノロジの進歩も半端ないってことですね。

 

テクノロジの進歩が速すぎて、そのテクノロジに法律や一般人のリテラシが追い付かず、その隙をついて「バイトテロ」のような事件が起こってしまうことも、仕方のないことのように思えてきます。

 

さいごに

「FAANG」という現代の黒船が日本に初上陸した時の様子を探るべく、まずは Google(グーグル)のことを簡単に調べてみましたが、このシリーズを今後も続けるかどうかは、今のところ決まっておりません。あしからず。

 

フリーランスが AI 時代に向く理由|本当の「フリー」は顧客からの解放

 

 

過去、航空機関連の開発、ハード/ソフト含めた技術的コンサルティングや技術動向の調査、プランニング、翻訳などの仕事にフリーランサーとして携わってきました。

 

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そのポートフォリオ的な経験から、「人工知能(AI)が普及する現在~未来にかけて、フリーランスというのは、なかなか良い働き方なんじゃないか?」と思うようになりました。

 

人工知能が普及する社会とフリーランスの働き方とでは、「今日と同じ明日は来ない」という共通点があり、人工知能が普及する未来に持つべきマインドは、現時点でフリーランサーとして働くマインドの延長線上にありそうだからです。

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人工知能が跋扈する未来に「今日と同じ明日」は来ない

第3次人工知能ブームの火がついて 10 年近く経ち、もはやブームではなく人工知能が社会のインフラとなりつつありますが、さらに普及が進めば、ルーチン的な仕事は人間の手を離れるものが増えていくのでしょう。

 

意味を理解していないと出来ない仕事や、身体的な感覚の比重が高い仕事、現存しないニーズを掘り起こすような仕事は、現在の機械学習アルゴリズムで容易に置き換えられるものではありませんが、過去のパターン(マニュアル)に従って事務的に頭の中だけで完結するような仕事は、人間がどんなに頑張っても人工知能の速度には勝てません。

 

世の中にはルーチン的な仕事がまだまだたくさん残っていますが、それは、人工知能の導入コストが見合わなかったり(AI 人材が不足していたり)、業界全体が導入に消極的・否定的だったり、人間の保守的な面が強く出ていたり、といったことが理由でしょうから、法律で保護でもしない限りは、市場原理でゆくゆくは人工知能に置き換得られていくと考えるのが妥当でしょうね。

 

短期的に見ると、今日も明日も同じ日常が連続しているのですが、長い目で見てみると、昨日まであった「人間の仕事」が今日は無い、という事態が出てきてもおかしくありません。「今日と同じ明日」が来る保証なんてないのです。

 

そういう未来には、ある分野で「人間の仕事」がなくなったら、別の分野に移って仕事を探さなければなりませんが、そういうマインドを常日頃から持っていなければ、いろんな仕事をハシゴするハードルはなかなか下がりません。

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フリーランサーに「今日と同じ明日」は来ない

フリーランサーは、すこぶる不安定です。今日までは殺人的に忙しいのに、明日からはヒマ・・・みたいなことも普通にあります。「ヒマ」だけなら時間ができて嬉しいのですが、「ヒマ=不安」という等式がほぼ確実に成り立ちます。

 

どこかの会社に雇用されているわけではなく、あくまでも「(個人)事業者」ですから、当たり前といえば当たり前のことです。仕事がなくなったら、どこかから取ってこなければなりませんし、普段から仕事が途切れることのないように、取引先との関係を良好に維持しておく必要もあります。

 

もちろん、今の時代は企業に属していても同じような事態に見舞われる可能性が低くありませんが、どんなに小規模でも企業にはマンパワーがありますし、そのマンパワーでもって複数の事業にリスクを分散しておけば、いずれかの事業が不振に陥っても、その他の事業で補い合える環境が割りと普通にあります。「1+1=3」のような強みです。

 

フリーランサーも、いわゆる「ポートフォリオワーカー」として、さまざまな仕事・活動に同時並行で取り組むことが一般的になりつつありますが、それでも「1×1=1」程度のイメージです。複数の仕事を掛け算して、ようやく1人前です。

 

そんなフリーランサーにも、「今日と同じ明日」が来る保証なんてないのです。

 

フリーランサーの生き残り戦略

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そんなわけで、「ヒマ=不安」という等式に抗うかのように、フリーランサーとしては、ヒマさえあれば色んな「生き残り戦略」を自然と考えるようになります。

 

過去記事に書いた『[高齢フリーランス問題]40 歳超えのじじ・ばば自由業者の生き残り戦略』 などがそれです。

 

企業に属するサラリーマンでも同じようなことを考えると思いますが、自分の経験から感じるのは、やはりサラリーマンだと基本的に「今日と同じ明日」がやってきてしまうため、「生きていくため(食べていくため)に、どうする?」という究極の追い込みに達するのは難しいだろう、ということです。これは、良くも悪くもです。

※ 昔のサラリーマンは、食い扶持の心配なく目の前の研究・開発に没頭できたでしょうから、これは羨ましい限りです。今は、目先の人生だけを考えているわけにもいきません。

 

サラリーマンは「会社=生きる糧」ですが、フリーランサーは「仕事=生きる糧」ですので、生きていくためには仕事を生み出し続けなければなりません。

 

ですので、目先の仕事の品質を高く保つことは当然のこととして、今持っている技術と何を組み合わせれば新たなシナジー効果が生まれるか、次々に登場する新しい技術を自分の仕事にどうやって取り込めるか、世の中のニーズがどのように移り変わっているか、などの考えがいつも頭の中でグルグル回り続けます。

 

そうすることで、ある仕事がつぶれて無くなった場合でも、頭の中で温めておいた別の種類の仕事にいち早く取り掛かれるようになります。そのため、仕事がつぶれて無くなる前に、別の仕事の「芽」を生やすところまでは準備しておきます。

 

フリーランサーの強みは、こういうことを「癖」として自然にこなせるようになることです。

 

「今日と同じ明日」が来なくてもやっていける

フリーランサーに「今日と同じ明日」はやって来ませんが、上に書いたような「癖(=習慣)」を持ち、実際にある仕事がつぶれても、温めておいた別の種類の仕事でそれを補えるような経験を何度かすると、そのうち「今日と同じ明日が来なくても、何とかやっていけるなぁ」という気持ちになってきます。

 

このサイクルを経験することが重要で、人工知能に限らず、加齢による能力の低下や取引先との関係、自分自身の理想や立場の変化など、「今日と同じ明日」にならない要因って意外とたくさんあるものです。

 

そんな時、「何とかやっていける」という経験の積み重ねがあると、動じることが少なくなっていきます。そして、動じることが少なくなれば、ヘンに気負ったり身構えたりすることなく、新しい仕事にスムーズに入っていけます。

 

 

 

まとめ

フリーランサーといっても、百人いれば百通りの生き方があるとは思いますが、それでも大抵のフリーランサーの頭の中には、「明日、仕事がなくなったらどうする?」という不安が少なからずあり、その不安を解消するため、別の仕事のシミュレーションをしたり、その「芽」を生やしておいたり、ということを割りと普通にやっているんじゃないかと思います。

 

このような準備をしておけば、たとえ人工知能にある仕事を奪われようとも、それは想定していた数々の「来なくなる明日」の1つに過ぎない、と考えることができますので、人工知能を恐れたり意識し過ぎたり、ということもありません。

 

そんなわけで、「フリーランスは人工知能時代に向いている」と思う次第です。

 

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おまけ : 本当の「自由」は顧客からの解放

とは言え、現時点のフリーランサーというのは、需給バランスが整っていなかったり、日本的サラリーマン社会の中で諸外国ほど重宝されていなかったり、さまざまな理由で軽んじられている面が多々あります。

 

労働法で保護される「被雇用者」ではなく独立した「事業者」であることから、パワハラやセクハラの対象にされても、背に腹は代えられず、仕事と割り切って泣き寝入りするケースも少なからずあるようです(最近は、中小企業庁がイジメの聞き取り調査をして、イジメるブラック発注者に指導が入るようになっています)。

 

パワハラやセクハラとまで言わずとも、「今日と同じ明日が来ない」という不安が強すぎるため、知らず知らずのうちにクライアントの意図を忖度して、適正な料金を提示できなかったり、顧客対応で休日もつぶれてしまったり、となってしまいます。

 

でも、これでは「フリー」と言えませんね。

 

何にも依存せず完全に独立した自由な働き方を標榜するなら、顧客に媚びへつらってなどいられません。仕事を取りたいがために顧客からの連絡を逃さないように、常にスマホやネットに縛り付けられていては、とても「自由」などと言えません。

 

フリーランサーが本当の「自由」を獲得するには、顧客から解放されなければなりません。そのためには結局、誰にも負けない技術や技能を1つ身に付けたり、掛け算すれば誰にも負けなさそうな技術や技能を複数身に付けたりするしかありません。

 

そうすれば、地球上のどこにいても、仕事の方から追いかけてきてくれますよ。

 

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システムの内側で楽に生きるか、外側で自由や面倒を謳歌するかという話

 

 

エンジニアとして、半導体技術、自然言語処理、情報化施工、医療機器などなど、新しいテクノロジやイノベーションに日々携わる一方で、スマートフォンやカーナビ、GPS などのテクノロジ製品にはほとんど興味がない。ほとんど使わない。

 

逆に言えば、テクノロジ製品に興味がないのに、それらを生み出す側の仕事に関わっている。

 

探検家に共感するエンジニア

興味がないのにその手の仕事に関わっている理由は簡単で、理系教科が得意で理系に進み、数学や物理・化学の知識でもって最新技術の奥深くを探求するのが面白いから。あとは単純に、メシを食うため。

 

一方、その手の仕事に携わっているのに、テクノロジ製品・サービスにはあまり興味がない。スマホなんて、仕事で必要だから持っているけれど、基本的には一番安くて一番低スペックのモノしか買わない。お金使いたくない。

 

その理由は、こちら(↓)の記事に書いたようなことが関係していると思うのだけど、これまでずっと曖昧で、スッキリはしていなかった。

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でも、最近になって、探検家・角幡唯介さんの『新・冒険論』を読み、モヤモヤがハレバレするような感銘を受けた。探検家とエンジニアとでは視点が全然ちがうし、角幡さんの生きるレベルには到底及びもしないけれど、「システムの内側で生きる」点と「それが人間の自由を奪い得る」点について、恐ろしいほど共感できた。

 

探検家・角幡唯介氏の『新・冒険論』

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本書は、コロンブスやナンセン、ヘイエルダール、ピアリーといった歴史上の名立たる冒険家の活動と併せて、著者自身の過去の冒険行も引用しつつ、冒険・探検の本源的な意味、現代における冒険の難しさ、冒険と自由との関係などを解き明かしてくれる。

 

この本に出てくる冒険の条件をまとめると、おおよそこの4つに絞られる。

  • 自主的であること
  • 単独行為であること
  • 死の危険があること
  • 非常識であること

 

それぞれの詳細については、本の中で詳しく書かれているので、ここでは取り上げないが、著者が最も力を入れているのは4つ目の「非常識」であり、それを「脱システム」という言葉で表している。

 

ただし近年、その「脱システム」という冒険の一条件が成り立たなくなってきており、その一例として、「マニュアル化(つまり、常識化・システム化)」されつつあるエベレスト登山を挙げ、もはや地球上の隅々まで(あるいは、宇宙まで!)マニュアル(常識・システム)が張り巡らされた結果、真の意味での「冒険」がますます困難になっており、その冒険がもたらす「自由」から人間はますます遠ざけられている、と嘆く。

 

一方で、「オオカミの群れと暮らした男」や「ある登山家のサバイバル登山」など、いくつかの「脱システム」の事例を挙げて、現代でも脱システムの可能性が方々に残されていることを示唆してくれる。

 

ここで言う「システム」というのは、具体的には、現代の冒険に欠かせない位置付けとなっている GPS や各種通信機器などのテクノロジのことであり、これらが逆に、冒険行為を本来あるべき「冒険」から遠ざけ、阻害する要因となっている。

 

そんな冒険には、死と隣り合わせになることでしか分からない「生」を意識することと、もう1つ、その「生」を自力で築き上げる「自由」を獲得するという目的があり、「常識」というシステムの外側で「自由」を獲得することによって、システムの内側を客観的に見ることができる利点がある。

 

というような主旨の本書を読んで、自分の中にあるモヤモヤがかなり晴れ渡った。

 

システムの内側で自由を奪われる恐怖 

ボク自身は冒険家でも何でもないけれど、技術の進歩や社会の成長によって、マニュアル(常識・システム)が身の周りに次々と染み渡っていくことに、若いころから一種の恐怖を覚え続けている。具体的には、携帯やスマホ、カーナビなどに感じる恐怖である。

 

そのような恐怖が心の片隅に常に居座っているから、本能的に、そのようなマニュアル化の原因となるテクノロジ製品・サービスなどを遠ざけようしていることが、この本を読んで自分の中にはっきりと認識できた。その手の仕事に携わっているのは、それを「仕事」と割り切って妥協している面もあるかもしれない。

 

では、それがどんな恐怖かと言えば、上掲の過去記事『安全・安心・安定の中心で「リスク」を叫ぶ|今日と同じ明日はくるか?』にも書いたように、自分でリスクを判断する「自由」を奪われてしまう、という恐怖である。

 

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著者は探検家で、ボクはエンジニアで、立場はまったく異なるけれど、 マニュアル化・システム化が進んだ世界で如何に人間の根源的な自由が奪われてしまうか、という普段の生活の中ではなかなか他人の共感を得られないテーマについて、書籍を通じて似たような考え方に触れられたことは、今後の人生の大きな財産になりそうな気もする。

 

最新技術の奥深くを探求することも、今ある常識を打ち破って「非常識」を目指していく点では、実に冒険的な側面もあるんだけど、そのようなイノベーションの方向性というのは、ほぼ 100%「便利」「娯楽」の追求でしかないから、結局は人間社会のマニュアル化・システム化に寄与しているに過ぎず、ということは、人間の根源的な自由を奪う方向でしかない。

 

戦後、高度成長期の中で「不便」がほぼ解消され、その後は現在に至るまで「娯楽」の追求に焦点が当たっており、便利で安心で心地良い社会が構築されてきたわけだけど、その裏では、「自分でリスクを判断する」自由が着々と奪われてきた。

 

そんな考えが常に頭の中にあるから、いくら面白くて仕事と割り切っていても、テクノロジやイノベーションに携わる仕事と、それが人間の自由を奪いかねない可能性との間に挟まれて、時々、呼吸困難になる。

 

そのような矛盾に耐えられなくなり、少し働き方を変えてからは、心が比較的落ち着いている。その変化は、「自主的で」「単独で」「死の危険(食いっぱぐれ)があり」「非常識(当時のほぼ常識外)」だったため、結局のところ、上に書いた冒険の4条件を満たしていることになり、自分は、エンジニアという枠組みの中で冒険家になろうとしていただけなのかな、と今になって思う。

 

システムの外側で感じる「面倒」

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もちろん、普段の生活でテクノロジに一切頼らずに生きていくことなどできないし、それはあまりにも非現実的だから、車や携帯電話、最近であれば人工知能(AI)のお世話になることもあるけれど、最小限にしか利用しないでおこう、という意識は常に働いている。

 

そのように思うのは、上に書いたような「自由に対する危機感」が一番の理由だけれど、これ以外に、「面倒」に対する危機感もあったりする。もう少し付け足すと、面倒とともに過去の記憶が失われていくことの恐怖、とも言える。

 

テクノロジやイノベーションによって、システムの内側の生活(= 日常生活)は止め処なく便利で快適になっていくけど、わずか1~2世代前までは、今となっては想像もできないほどの困難や不便や面倒が日常を覆っていたわけで、ボクらのちっぽけな命は、そのような無数の面倒な日常の積み重ねの上に成り立っているに過ぎない。

 

なのに、ボクらのメモリは、いとも簡単に上書きされていくので、面倒とともに積み重ねられてきた過去の記憶も容易に色褪せてしまう。そのような上書きは、テクノロジやイノベーションによって加速していく可能性が高い。

 

面倒と感じるのは、面倒を解消した先にある自由を希求する気持ちがあるからだと思うので、面倒とともに過去の記憶が失われていては、自由を希求する気持ちを世代間で受け継ぐことができず、「自由に対する危機感」さえもが薄れていく危険性がある。

 

その原因がテクノロジやイノベーションにあるとするなら、人間が進んでいく方向に疑念が生じるのは自然な成り行きで、仕事もなかなか手に付かなくなる。

 

システムの外側にある自然

角幡さんの書籍で語られている「システム」というのは、人工的に構築された常識としてのシステムだから、その反対は「自然」ということになる。

 

脱システムを標榜する冒険家がテクノロジ・オフの「自然」へと惹きつけられるのは当たり前だけど、冒険家ではないボクも、やはりシステム外の自然へと惹きつけられる。人工的なモノに囲まれるより、自然に囲まれている方が、百倍も千倍も落ち着く。

 

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システム内の人工物としては、無数の製品やサービスが溢れているけども、近ごろ賛否含めて話題になることが多い「ゲーム」がやはり気になる。

 

ムスコNはたまにお世話になっているし、ボクもお付き合いでごくたまにお世話になるし、仕事でゲーム関連のことを調べたこともあるし、もはや現代人の生活と切り離せない大きな存在となっている。

 

その中毒性で語られることが多いゲームだけど、ボク自身は、その非冒険性により、ずっと近付けないでいる。上掲の冒険4条件に照らしてみて、「自主性」や「単独性」はさておき、「死の危険」や「非常識性」は皆無だ。

 

でもまぁ、ゲームを冒険性と関連付けて考えるアホな人間なんてほとんどいないだろうね。

 

スポーツや囲碁・将棋なども広い意味ではゲームみたいなものだから、中毒性の有無はあれど、「それでメシが食えるかどうか」という点に、冒険性と非冒険性との分かれ目があるような気もする。

 

 

 

あとがき

以上のように、冒険家でもないのに冒険性を求めてしまう性質から、テクノロジやイノベーションに関わるエンジニアとしての仕事と、それが人間の自由を奪いかねない可能性との間に挟まれて、時に呼吸困難に陥るボクなので、ツマMは大変困っている。

 

ボクが何故カーナビを使わないのか、ボクが何故スマホをほとんど使わないのか、ボクが何故ゲームをほとんどやらないのか、ボクがなぜ面倒なことばかりをすき好んでやるのか、ボクがなぜ消費期限切れの食べ物を捨てないのか、ボクが何故なかなか病院に行かないのか、まったく理解できないと思う。

 

でも、最近ちょっと似てきたから、分かってくれるかな。「人間の判断」という自由が失われつつある日常生活の中に、少しでも冒険の可能性を残しておきたい、という気持ちを。

 

子どもたちも大きくなってきたことだし、そろそろ、もう少し冒険側に軸足を移し替えてみるのも良いかな、と思う今日この頃。

 

おまけ

「冒険」という視点では、知の巨人・佐藤優さんの『十五の夏』も超面白かった。

 

作家で元外務省主任分析官の著者が、難関高校合格のご褒美として親の資金援助を受け、高1の夏に単独で解放前の東欧・ソ連を旅した記録だ。

 

著者の記憶力・記録力に驚嘆しつつ、今から 40 年以上も前の(「わずか 40 年前」とも言える)未知の世界を旅した気分になれる。淡々と描写されている当時の風景や優少年の心持ちが、逆に旅情をヒシヒシと感じさせてくれる。

 

南米などを放浪していた若いころの自分に、ちょっと重ねてみたりして。

 

この夏、米国にホームステイしたムスメAにも、出発前に読ませてやりたかった。

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そして、こんなリスクもあります。

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「勉強する意味」は、こんな本を読んで「コンテクスト」を理解すること

 

 

半年ほど前に登場して大きな話題になった本「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」を再度読み返してみることにしました。今も売れ続けているようなので、衆目を集めるテーマなんでしょう。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

内容については、今さらおさらいすることでもありませんが、こちらの書評に上手くまとめられていると思います。

人間がAIに勝つためには「読解力」を磨くしかない

先日惜しまれつつ世を去ったホーキング博士は、数年前に「完全な人工知能(AI)が実現すれば、人類は終焉を迎える」という意の発言をしていた。・・(中略)・・ しかし、東大合格を目指した「東ロボくん」の開発者である著者は言う。「AI が人類を滅ぼす?・・・滅ぼしません!」「シンギュラリティが到来する?・・・到来しません!」。それどころか、東大合格すら AI には無理だろうと言うのだ。・・(中略)・・ 「東ロボくん」は既に私の勤める大学の入試は十分に突破する偏差値を模試で叩き出している。では、MARCH レベルと東大との入試の間に、AI が決して越すことのできないどのような溝があるというのか。それは国語、読解力だ。AI が自然言語を読みこなすことは金輪際できないというのだ。・・(中略)・・ 実は中高生の多くが、「東ロボくん」以下の読解力しか持っていないということが調査から浮かび上がってきた。二つの文章の意味が同じかどうかを判定する問題で、中学生の正答率はなんと57%。・・(中略)・・ 他のタイプの問題でも、サイコロを転がすのと同じ程度の正答率しかなかったというこの若者の読解力の現状で、小学校からプログラミングや英語が導入されようとしているが、著者は言う。「一に読解、二に読解」と。・・(後略)

評者:伊藤氏貴(週刊文春 2018年04月12日号掲載)

 

構成としては、人工知能(AI:Artificial Intelligence)の歴史や「東ロボくん」プロジェクトの意義・概要、AI の限界などに触れた後、AI と人間との大きな境界となるであろう中高生の「読解力」の欠如ぶりについて、以下のような例題を豊富に掲載しながら説明して、

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最後に、AI 駆動社会の最悪のシナリオと、それに対する一筋の光を示唆してくれています。

 

また、AI(「真の意味での AI」)開発の中で進歩する要素技術(画像・音声認識、自然言語処理など)によって、人間の仕事が徐々に減っていく未来や、それに対抗できる人材として、フレーム(条件)に囚われず、物事の意味を理解して、柔軟に新たな価値を生み出せる「人間らしさ」の重要性が改めて強調されています。

 

この本が読めない大人や子どもたち

子どもたちが、上のような数々の例題を見ながら「できた!」「間違えた!」と楽しそうに騒いでいました。そのような姿を眺めながら、「勉強する意味や理由」があるとするなら、このような1つひとつの例題を解くことよりも、いつか本書全体を読みこなせるようになることが、その1つなんだろう、と感じました。

 

「教科書が読めない子どもたち」という若干扇動的なタイトルの一方、そもそもこの本を手に取って読んでみようという大人やその子どもの「読解力」に心配は要らないけれど、「この本が読めない大人や子どもたち」こそ、AI が跋扈する未来に「普通」の仕事がなくなって困窮することになるのかもしれません。

 

ただフムフムと読んで終わるのではなく、AI には代替できない仕事として挙げられている育児や介護の仕事と「読解力」との間に何の関係があるのか、「読解力」自体は得手不得手の範疇ではないのか、動画全盛の時代に「読解力」が決定的な差を生み出すのか、といったことに想像を巡らせることも、読解力の一要素なんでしょうね。

 

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「読解力」とは背景や文脈を理解する力

「東ロボくん」プロジェクトの結果、AI が決して越すことのできない壁として「読解力」が見えてきたわけですが、その読解力を、高校入試や大学入試という「スクリーニング」に耐えられる能力と捉えるなら、それらに関係のない道を進む場合は、「読解力」なんて不要と考えることもできます。確かに、動画で一生メシを食べていけるなら、読解力に頼らなくても何とかなりそうです。

 

でも、AI の原理と同じく「確率・統計」で考えるなら、ボクら普通の人間が普通に生きていく未来には、インターネットや AI 技術などの普及によって、同じ仕事を一生続けられる可能性は低くなり、そのような場合に、新しい仕事に入っていくきっかけの1つが「読解力」にあることは、本書にも書いてある通りです。

 

その未来は、(1)AI を利用して価値を生み出す人間、(2)それを補佐する人間(プログラマなど)、(3)そのようにして提供されるサービスを享受する人間に大きく分かれていくのでしょう。実際、すでにそのような分断が明確に起こり始めている現状です。

 

読解力とは、単に字面を追う作業ではなく、コンテクスト(背景・文脈・状況)を理解して、その後ろに見え隠れする意味を捉える作業ですから、数学や言語学、教育学、経済学などの多様なコンテクストを踏まえて論を展開する本書のスタンスは、まさに「(1)AI を利用して価値を生み出す人間」を対象にしたものと考えられます。

 

コンテクストを創る側・破壊する側

残念ながら、資本主義の世界に生きる以上、1つひとつのフロンティアとなる新しい価値を常に創造していくしか道はなく、そのような価値に結び付く新しい仕事を生み出す人間が重宝されることは、何も今に始まったことではありませんが、今後はその傾向が強まっていくのでしょう。

 

ボクら普通の人間は、そんな価値を創造するのはなかなか難しいことだけど、 新しい価値や仕事が産み出されていく中で、その波に遅れることなく乗っていけるだけの「読解力(コンテクスト理解力)」だけは、何とか維持しておきたいところです。

 

インターネットや AI 技術が恐ろしく感じられるのは、ありとあらゆるコンテクストを破壊して意味を無くし、ただ目の前にぶら下がっているニンジンにしか焦点が合わない方向へと人間を強制する力を持っているからなんだと思います。だから、コンテクストやストーリー性を大事にしたい人にとっては、そのような無味乾燥な世界が虚しく見えて、だからこそストーリー性のある商品が一部でウケるのでしょう。そう考えると、読解力ひいてはコンテクストを大事にしていれば、それらを求める人々のブルーオーシャンで優雅に泳ぐことも可能になるかもしれません。

 

ニンジンをぶら下げてコンテクストを破壊する、という点では、ふるさと納税も似てますね。

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コンテクストを創る側になるのか、コンテクストを破壊する側になるのか、はたまたコンテクストを破壊される側になるのか、ボクら普通の人間は、どんな未来を歩むことになるんでしょうね。どんな未来を歩んでいけば良いのでしょうね。

 

たとえ仕事が無くなっても、「生きること」の文脈だけは奪われたくないものです。

 

ごくごく個人的には、これまで、累計 5,000 冊以上の絵本を子どもたちに読んできました(現在も継続中です)が、それが読解力に寄与するのかどうかってところです。今のところは、寄与しているような、特にしていないような・・・。多読 vs. 深読。

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 関連記事 

 

自動運転 EV が普及する未来に価値のある場所は幹線道路・高速道路沿い

 

 

「自動運転」が世間を賑わしていますが、技術が進歩したからといって、その技術がすんなりと社会に受け入れられるかどうかは分かりません。自動運転のように人の命がかかっているテクノロジの場合は、普及までに幾重ものハードルがあります。

 

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自動運転の普及

上の過去記事にも書きましたが、自動運転車が普及する現実的なシナリオは、「自動車と歩行者(自転車)の分離」、「自動車と人間の協働」あたりにあると思われます。

 

自動車と歩行者(自転車)の分離

自動運転の普及に向けた最大の課題は、「機械が人を殺す」人身事故を如何に減らすか、という点にありますが、歩行者や自転車は、時に予想もつかない動きをしますし、夜間や死角のある場所では、自動車側のセンシングで歩行者や自転車を捉えられないケースも当然あります。

 

そのような状況での事故を防止するには、自動車と歩行者(自転車)とを分離するのが最も現実的と考えられます。

 

自動車と人間の協働

自動運転の導入によって、交通事故の件数は確実に減ります。ということは、その人工知能は、人間とは異なる視点で機械学習している可能性が高いわけです。つまり、人間には見えていない「安全」が見えています。

 

そのような「安全性」を人間の運転にフィードバックすることで、さらに安全な運転が可能となりそうです。

 

一方、自動車と歩行者(自転車)が共存する市街地などでは、自動運転に頼らず人間が運転する方が、人身事故が起こった場合の「責任の所在」も含めて、より現実的な答えとなる可能性が高いわけです。

 

スマートシティプロジェクト

Google と同じ企業グループに属する Sidewalk Labs という会社がカナダのトロントで進めている「Smart City」プロジェクトでも、同じような発想が浮上しています。

 

wired.jp

 

特に、都会の住民が快適な生活を送れるように、自動運転車が普及する未来に向けて、道路を含む交通環境をリデザインしよう、という考え方です。

 

実現性の可否はともかく、現在の道路状況では、自動運転車がすんなりと受け入れられない、という危機感があるのではないかと思います。

 

このような実証研究が進んだ場合も、最終的には「自動車と歩行者(自転車)の分離」が現実的なシナリオになるのではないかと予想しています。

 

電気自動車(EV)の普及

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自動車には、「自動運転」とは別の切り口も存在しています。

 

それは、駆動力をエンジン(化石燃料)に頼るのか、モータ(電気)に頼るのか、あるいは燃料電池(水素)に頼るのか、という観点です。

 

この点については、モータリゼーションが急激に進んで世界一の自動車マーケットとなっている中国が、電気自動車(EV)やプラグインハイブリッド(PHV)を優遇する政府方針を示したことで、「モータ(電気)」が当面の主軸となり得ることがはっきりしてきました。

 

中国政府の方針に世界中の自動車メーカが追従していますので、欧州各国での EV 化路線も相まって、世界中で EV 化が加速していくのは間違いないでしょう。

 

自動運転 EV が普及する未来

自動運転には安全性の問題が残っていますし、電気自動車(EV)にはバッテリ容量(航続距離)やインフラ(充電設備)の問題が残っており、ここ2~3年で両者が急速に普及するとは考えられません。

 

ただし、10~20 年のスパンで見れば、「モータ(電気)を駆動力とする自動運転車」がモビリティの中心になっていくことは、ほぼ間違いのない未来と考えられます。

 

その未来に価値が上がる場所

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現在、幹線道路や高速道路の近くは、居住地として人気がありません。実際、幹線道路や高速道路沿いの物件は、道路から離れた物件より2~3割安いと言われています。

 

その理由は、騒音と排気ガスです。

 

しかし、やがて電気自動車(EV)が主力になると、「騒音」「排ガス」という2つの問題が一挙に解決してしまいます。騒音の原因の1つである「エンジン音」が無くなりますし、排ガスもゼロになります。

 

さらに、上に書いたようなシナリオで自動運転車が普及するとすれば、人手を介さない完全な自動運転の恩恵にあずかれるのは、自動車と歩行者(自転車)とが分離された幹線道路や高速道路のみとなります。

 

つまり、EV の普及によって「騒音」「排ガス」という問題がなくなる上に、自動運転の普及によって移動が便利になるのは、現在は敬遠されがちな幹線道路や高速道路沿いの土地や物件、ということになります。

 

 

 

まとめ

以上のような未来予想を前提とするなら、将来的には、周囲に住居が密集する鉄道の駅よりも、幹線道路や高速道路に近い居住地の人気が高まり、それに応じて地価も高くなっていくかもしれませんね。

 

また、「高齢化社会」を見据えつつも日本では失敗に終わろうとしている「コンパクトシティ」構想の対極として、都市域から離れていようとも、幹線道路や高速道路に近ければ十分に生活が成り立つ未来が待っているような気がします。

 

コンパクトシティ(英: Compact City)とは、都市的土地利用の郊外への拡大を抑制すると同時に中心市街地の活性化が図られた、生活に必要な諸機能が近接した効率的で持続可能な都市、もしくはそれを目指した都市政策のことである。 ― Wikipedia より

 

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「自動運転車は中国で最初に普及し、日本ではなかなか普及しない」仮説

 

 

今から10日ほど前の 2018年3月18日、ライドシェア大手の Uber社(ウーバー)が米アリゾナ州で行っていた完全自動運転車の走行テストで、歩行者の女性がはねられ、搬送先の病院で死亡が確認される、というニュースが大きく取り上げられました。

 

2年近く前にも、米フロリダ州にて、Tesla社(テスラ)「モデルS」の簡易自動運転中の死亡事故が発生していますが、今回の Uber社の事故はこれと異なり、アリゾナ州のガイドラインに則った実証試験中の出来事であるため、Uber社に 100%の責任があるとともに、「完全自動運転車が史上初めて死亡事故を起こした事例」(つまり、機械が人をひき殺した最初の事例)と受け止められています。

 

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このようなニュースに衝撃を受けていたら、そのわずか5日後に、今度は中国から、自動運転車用の臨時ナンバープレートが当局から発給され、自動運転車の正式な路上テストが開始となった、というニュースが入ってきました。

 

米国で史上初となる事故が起こった一方で、中国では自動運転の実用化が着々と進んでおり、そのコントラストが際立つ一週間となりました。

 

そして、この2つのニュースから、「自動運転は欧米でも日本でもなく、中国の独壇場になるのではないか」という思いを改めて強くしました。

 

自動運転が普及する条件

現在、欧米や日本、中国を中心として、さまざまな企業による自動運転車の走行試験が行われており、自動運転のキモである人工知能(AI)専用のチップも高性能化して、自動運転技術は確実に発展してきています。おそらく、技術面では、2020年前後にも自動運転はほぼ確立するのではないかと考えます。

 

ただし、その技術が世の中に普及するかどうかは、また別の話です。筆者の考えですが、自動運転の普及には、以下3つの満たすべき条件があります。

1.技術の高さ

当たり前のことですが、技術が確立しなければ普及しようがありません。

2.ニーズの高さ

どんなに優れた技術でも、多くの人が「欲しい」と思わなければ、その技術が日の目を見ることはありません。特に「機械が人を殺し得る」自動運転技術は、誰もが躊躇なく「欲しい」と思える技術ではないため、どれだけニーズがあるかが普及の鍵となります。

3.安全意識の低さ

上の「ニーズ」とも関係しますが、小さくないリスクを伴う技術は、現代の日本のように安全意識が「高まり過ぎている」社会には、なかなか受け入れられません。戦後、今よりも事故率がはるかに高かった自動車が社会に受け入れられたのは、その便益がリスクを上回っていたこともありますが、それ以上に、現在よりも「死」が身近にあったことが、結果的に受け入れの障壁をグッと低くしていたのではないかと想像します(以下の記事でも触れていることです)。つまり、「安全意識が低いほど、受け入れの余地が大きい」ということです(怖いことですが・・・)。

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欧米・日本・中国・インドの状況

そこで、上記3つの条件が現時点でどの程度満たされているかを、米国、ドイツ(最も自動運転に近いと考えられる欧州代表)、日本、中国、インドの5カ国について、一部定性的ではありますが、考えてみることにしました。その結果が以下の表です。

 

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「〇」は条件が満たされていること、「×」は条件が満たされていないこと、「△」はその中間を意味します。つまり、「〇」が多いほど、自動運転の普及条件がそろっていることになります。

 

「技術の高さ」について

Google や Uber などによる自動運転テスト走行のニュースや、各国の自動車メーカの市場投入計画などを参考にして、定性的に判定しました。やはり欧米がリードしていると考えられます。

 

「ニーズの高さ」について

過去記事『【自動運転】50年前より240倍安全な車が普及する未来の「死」』の内容を参考に、「乗ってみたい」という人が中国やインドは圧倒的に多く、日本は圧倒的に少なく、欧米はその中間、という位置付けで定性的に判定しました。

 

「安全意識の低さ」について

過去記事『【自動運転】50年前より240倍安全な車が普及する未来の「死」』を参考に概算した結果、死亡事故発生率は、インドが「200台当たり1件」、中国が「2,000台当たり1件」、米国が「4,000台当たり1件」、ドイツが「1万3,000台当たり1件」、日本が「2万台当たり1件」となりましたので、それに基づく判定です(「事故発生率が高いほど、安全意識は低い」という考えです)。

 

 

 

自動運転は中国で一番最初に実用化・普及する

自動運転は中国で一番最初に実用化・普及する

 

上の表をベースに考えるなら、「〇」2つで「△」1つの中国が、自動運転の実用化・普及に最も近い、ということになります。その次が米国またはインドで、日本は「最も普及し難い」状況にある、と言えます。

 

「ニーズ」と「安全意識」は相関するため、自動運転の技術が進んで安全性が高まっていけば、便益がリスクを大幅に上回って、日本でもニーズが高まってくると予想されますが、昨今の Tesla社や Uber社のニュースが示すように、「自動運転車は安全なのが当たり前」という認識が強く、ひとたび死亡事故が起きればメディアで大々的に取り上げられますので、まだしばらくは日本に不利な状況が続くんでしょうね。

 

まとめ

かなりアバウトですが、自動運転が中国で一番最初に実用化・普及しそうな理由を書いてみました。

 

中国が有利なのは、急成長している技術力もさることながら、主要先進国と比較して交通事故率が高く、それが皮肉にも「自動運転車のテスト走行を行いやすい環境」をもたらしている側面がある点です。

 

また、「世界一の超大国(テクノロジも含む)」を目指す社会の高揚感や、一党独裁という特殊な政治体制なんかも、「自動運転」という相応のリスクを伴う技術の導入にはプラスに働くのかもしれません。

 

このように、ある意味「恵まれた環境」を他国の企業のテスト走行などに開放するとも考えられませんので、中国では、大小の事故を起こしながらも着々と走行データを蓄積して、人工知能(AI)の学習面でも大きくリードしていくことでしょう。

 

安全意識が「高まり過ぎている」社会には、リスク大の技術はなかなか浸透しません。

 

やがて人工知能(AI)が「自然知能(NI)」と呼ばれる遠い未来の日

 

 

人類の脳が大きくなったのは 200万年前から 40万年前の間と言われていますが、その理由として、「社会脳仮説」というのがあります。

 

社会脳仮説というのは、集団の人数が多いほど脳に占める新皮質の割合が高く、脳の容量も大きい、という傾向から、200万年前から 40万年前の間に集団の人数が増え、それに伴って必然的に脳も大きくなった、とする説です。

 

現代人の脳容量は約1,500cc(牛乳1.5パック分)であり、150人程度の集団で暮らすのに適しているそうです。

 

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一方、言語が登場したのは、およそ7万年前と考えられています。

 

順番を整理すると、集団が大きくなる → 脳が大きくなる → 言語が発達する、という流れで人類は進化してきたことになります。

 

ところで、現代社会はネットや SNS が急速に発達したため、パソコンやスマホを通じて文字情報や画像・映像情報が洪水のように押し寄せてくる時代です。

 

その結果、五感のうちの視覚と聴覚ばかりが異様に研ぎ澄まされ、その他の嗅覚、味覚、触覚という動物として大切な身体感覚は、後回しにされている状況です。

 

つまり、頭ばかり大きくなって、人間(動物)同士が信頼関係を築くのに重要な役割を果たす身体感覚は、どんどん鈍くなっている可能性があります。

 

頭ばかり大きくなった人間は、もはや人工知能(AI:Artificial Intelligence)と何ら変わらなくなります。

 

そして、身体感覚が鈍って信頼関係を築けなくなった人間の集団は、必然的にその規模が小さくなっていくことでしょう。

 

ということは、上に書いた人類の進化と逆の流れが生まれる可能性があります。

 

つまり、集団が大きくなる → 脳が大きくなる → 言語が発達する 身体感覚が鈍る → 信頼関係が希薄になる → 集団が小さくなる → 脳が小さくなる → 言語が退化する という流れです。

 

さて、ここまで行き着くと、200万年前の「ふりだし」に戻るわけですが、200万年前と異なるのは、人類が生み出した「人工知能」が何らかの形で独自の進化を遂げている可能性がある、ということです。

 

現在の人工知能(特に、ディープラーニングなどの機械学習)は一般的に、入出力間の中間層を多層化して自ら特徴を抽出できるようにしたものであり、人間の脳(神経回路網)をモデルにしたニューラルネットワークを利用しています。

 

そして、今から数年後あるいは数十年後には、強力な人工知能がテクノロジの進歩をリードし始める技術的特異点(シンギュラリティ)に達し、人工知能が別の人工知能を作り始める、という話が現実になっているかもしれません(その可能性は、かなり低いと思いますが・・・)。

 

一方、そのような人工知能が独自に進化した何万年後か何十万年後かに、すっかり言葉が退化してしまった人類は、何かのきっかけで 200万年前と異なる進化を始めるかもしれません。

 

その進化の過程が、今の人類と異なる「自然知能(Natural Intelligence)」(たとえば、光合成のようなもの)を獲得しながら進むとするなら、進化し終えた次の人類は、自らが持つ自然知能をヒントにして、今の人工知能のアルゴリズムとはまったく異なる原理を編み出すような気もします。

 

その新しい人類が編み出した原理が新たに「人工知能」と呼ばれるようになったとき、旧来の人工知能は、元から自然に組み込まれていたものとして「自然知能」と呼ばれているかもしれません。

 

 

 

 

 

という おかしな夢 を見ました。

 

- 敏感の彼方に -