敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

【自動運転】50年前より240倍安全な車が普及する未来の「死」

 

 

先日、独アウディは、新型の上級セダン「A8」にレベル3の自動運転技術を搭載して、2018年に実用化すると発表しました。

 

「中央分離帯のある混雑時の高速道路を 60km/h以下で走行する場合のみ」という条件付きとはいえ、市販車では世界初の高度な自動運転機能が登場することになります。

 

その他、欧米や日本の自動車メーカはこぞって、2020~2025年ごろを目途に、「レベル4」の自動運転技術を搭載した車の市場投入を計画しています。

 

ちなみに、自動運転のレベルは以下のように定められており、レベル4以上がいわゆる「完全自動運転」ということになります。現状は、レベル2まで実用化され、市販車に搭載されています。

レベル0  人がすべて操作
レベル1  自動ブレーキなどの運転支援
レベル2  車線変更や追い越しなどの運転支援
レベル3  システムが運転操作(求められれば人間が対応)
レベル4  一定条件下でシステムがすべて運転操作(人間は対応せず)
レベル5  システムがすべて運転操作

 

このように、自動車単体の技術としては、「完全」自動運転がもう手の届く所まで来ています。ただし、それが普及に直結するかどうかは、また別の問題です。

 

マクロの視点では、自動運転の導入により交通事故の件数は確実に減ります。しかし、ミクロの視点では、「機械に人間が殺される」可能性が決してゼロにはなりませんので、「死」が日常から遠ざけられた現代(未来)社会では、この問題が必ず立ちはだかることになるからです。

 

日本と外国の意識の違い

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ある調査によれば、「完全自動運転車に乗ってみたい」と答えた人は、インドで85%、中国では75%にも上ったのに対して、日本では36%に留まり、調査対象 10カ国の中で最も少なかったそうです。

 

なぜ、このような違いがあるのでしょうか?

 

理由はいろいろあると思いますが、「交通事故死亡率」を1つの手掛かりとして考えてみたいと思います。

 

現在の日本は、自動車保有台数が約8,000万台(自動車検査登録情報協会より)であるのに対して、年間交通事故死者数が約4,000人(全日本交通安全協会より)ですので、死亡事故発生率は、およそ「2万台当たり1人」ということになります。

 

一方、インドと中国は、自動車保有台数がそれぞれ約3,000万台、約1億 3,500万台(2015年末:日本自動車工業会より)であるのに対して、年間交通事故死亡件数は、それぞれ約13万件、約7万件(世界保健機関より)となっており、死亡事故発生率はそれぞれ、およそ「200台当たり1件」「2,000台当たり1件」ということになります。

 

つまり、単純計算で、インドは日本の100倍、中国は日本の10倍、「車は危険」という認識が人々の中にあると考えられます

 

上にも書いたように、自動運転を導入すれば交通事故の件数は確実に減りますので、「車は危険」という認識の強いインドや中国では、「機械に人間が殺される」というミクロの視点よりも、「交通事故が減ってより安全になる」というマクロの視点が重視されることによって、自動運転車に対する期待が高く現れているのではないか、という1つの仮説が成り立ちます。

 

日本の昔と今の違い

国内の交通事故による死者数の推移を見てみると、戦後すぐが 4,000人前後であり、「第1次交通戦争」と呼ばれた1970年前後に1万人を超え、いったんは1万人弱へと減ったものの、「第2次交通戦争」と呼ばれる1990年前後に再び1万人を超えています。それ以降は徐々に減っていき、現在は戦後すぐと同じ 4,000人前後に落ち着いています。

 

この間、自動車の保有台数は爆発的に増加しています。

 

たとえば、現在と50年前とを比較してみると・・・

現在  : 保有台数 = 約8,000万台(交通事故死者数 = 約4,000人)
50年前 : 保有台数 = 約800万台(交通事故死者数 = 約1万3,000人)

 

50年前は、保有台数が現在の1/10なのに、死者数は3倍強です。つまり、印象として、50年前の自動車は、現在より30倍以上も危険な乗り物だったわけです。現在のインドと中国の間ぐらいの印象ですね。

 

戦後、自動車という新しいテクノロジ(それがもたらす新しいタイプの「死」)が、なぜ社会で受け入れられ、保有台数が爆発的に増加していったのでしょうか?

 

その理由はいくつかあるでしょうが、たとえば以下のような点が考えられます。

  1. 戦争を経験し、「死」が日常の割りと近くにあった
  2. 社会全体の安全意識があまり高くなかった
  3. 「高度成長」という高揚感があった
  4. 自動車の便益が、リスクよりも大きく見えた

 

さらに、50年前は、刑法犯の被害による死者数が現在の5倍程度と、殺人事件も多く発生しており、治安が悪かったこと(「死」が日常の近くにあったこと)も背景の1つと考えられそうです。

 

自動車とエレベータ/エスカレータとの比較

次に、100%機械化されているエレベータやエスカレータとの比較で、自動運転車の未来を考えてみたいと思います。

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■ 安全の定義

ある技術が「安全かどうか」は、それが「人間にとって安全かどうか」という問題になるわけですから、その技術だけを見ていても安全かどうかは分からず、その技術との人間の関わり方、その技術の経済上の必要性、その技術の社会における歴史、その技術の導入を決定する政治などが影響すると考えられます。

 

ここではものすごく単純化して、人がある技術に抱く「安全期待(安全であるはずという期待)」は、その技術がどれだけ機械化されているか(人の介入がどの程度か)と、その技術による死亡事故発生率によって決まるものと仮定します。

 

■ 自動車の場合

現在、車は人間が運転しています。

 

この車の機械化率を明確にするのは難しいですが、簡単に、機械と人間の役割が半々と考えると、機械化率は「1/2」です。

 

一方、上にも書いた通り、国内の年間死亡事故発生率は、「2万台当たり1人」です。

 

つまり、現状として、「機械化率が1/2」である車は、「事故率が2万台当たり1人」という安全水準にある、と言えます。

 

■ エレベータやエスカレータの場合

次に、エレベータやエスカレータの場合を考えます。

 

エレベータやエスカレータは、稼働時に人手が掛かりませんから、完全に機械化していると考えられ、機械化率は「1」です。

 

一方、普及台数が約80万台(日本エレベーター協会等より)であるのに対して、年間事故死者数が約5人(国土交通省の資料等から概算)ですので、死亡事故発生率(国内)は、「16万台当たり1人」ということになります。

 

つまり、現状として、「機械化率が1」であるエレベータやエスカレータは、「事故率が16万台当たり1人」という安全水準にある、と言えます。

 

車が「2万台当たり1人」でしたので、車よりも8倍厳しい安全水準が求められているとも言えます。

 

■ 完全自動運転が実現した場合

将来、車が完全に自動運転となった場合は、運転時に人手が掛からなくなるわけですから、機械化率は「1」となります。つまり、「機械化」という観点において、将来の自動運転車は、現在のエレベータやエスカレータと同等の認識がなされることになります。

 

機械化率が同じ場合、求められる安全水準も同じになると仮定すると、死亡事故発生率は、少なくとも現在の1/8である必要があります。

 

つまり、将来の自動運転車は、現在の車と比較して、8倍以上安全であることが求められます。

 

50 年前より 240 倍安全になった車に人は乗るか?

ここまでをまとめると、現在の自動車は、印象として、50 年前より 30 倍安全になったと言えます。そして、将来的に自動運転車が普及する際の安全水準が、少なくとも現在のエレベータ/エスカレータと同等になるものと仮定すると、将来の自動運転車は、現在の車と比較して8倍安全ということになります。

 

つまり、普及レベルの自動運転車は、50 年前の自動車と比較して、少なくとも 30 × 8 = 240 倍は安全になった印象を与えることになると考えられます。

 

果たして、この 240 倍安全になった車に、人は乗るのでしょうか? 少なくとも 240 倍安全になった車は、社会に受け入れられるのでしょうか?

 

 

自動運転車の普及に立ちはだかる壁

■ 倫理面の壁

車が道路を走行中、目の前に障害物が現れた。ブレーキをかけても間に合わない。右側にハンドルを切ると、Aさん(たとえば、社会に大きく貢献する企業家)が犠牲になる。左側にハンドルを切ると、Bさん(たとえば、将来の大いなる可能性を秘めた赤ん坊)が犠牲になる。車は、そのまま直進すべきか、どちらかにハンドルを切るべきか。

 

このような倫理上の問題は、かなり以前から指摘されています。

 

人間が運転している場合は、その人の「倫理」に基づいて、「一瞬」でこれを判断することになります。その行為が正しいかどうかではなく、その人の「一瞬の倫理観」が決め手になります。その結果、たとえばAさんが車にひかれた場合、Aさんはドライバの「倫理」と向き合うことになり、ドライバの倫理が受け入れやすいものであればあるほど、Aさんは結果を受け入れやすくなります。ある意味、ドライバの倫理に気持ちが「救われる」可能性があります。

 

自動運転車が難しいのは、正しいのかどうかが分からず、「一瞬の倫理観」に委ねられているものを、事前に開発者が結論付けておかなければならない点です。あるいは、人工知能が学習のどこかの段階で得た「倫理」を頼りにするしかない点です。おそらく、どう対処するのが正しいのかは、人間がいくら考えても明確な答えは出ず、「決める」しかないんでしょうね。

 

■ 法律面の壁

現在の道路交通法は、人間が運転することを前提としていますが、レベル4以上になると、人間が運転に関与しなくなるため、この前提が合わなくなります。

 

システムによる運転操作中は、ドライバに注意義務を課すのが難しく、もし事故が起きた場合でも、ドライバは処罰されないものと想定されます。

 

一方、自動車メーカについても、事故を予見して結果を回避する義務を認めるのは難しく、悪質なケースを除いて処罰は困難、という見方が大勢を占めています。

 

ドライバも自動車メーカも処罰の対象外となるなら、自動運転の核となる人工知能(AI)に「電子的人格」を認めて、人工知能を刑法の対象(主体)にすることも検討しなければならなくなります。

 

最後は命の取引か?

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住宅街の広くない道を減速もせずに走行する車をたまに見かけます。交差点で、自転車や子どもが不意に飛び出してきたら、と思うと怖くなります。

 

将来、自動運転車が普及して、「慎重な運転」を学習した人工知能が搭載されているならば、このようにヒヤリとする場面は少なくなるのでしょう(このような自動運転車は、極低速で走行すると予想されますので、それに伴う渋滞などは、また別の課題です)。

 

一方、自動運転の究極の目標として、自動車メーカが「死傷者ゼロ」を掲げるように、ボクら庶民の間でも「自動運転は事故ゼロ」という認識が広がっているように思います。

 

ただし、いくら慎重な運転であっても、いくら低速で走行しても、事故がゼロになることはありません。車というのは、それがもたらすリスクよりも便益が大きいために、社会で許容されているだけのことです。

 

現在の自動車が事故の発生を前提としているのに対して、自動運転車には、最初から「事故ゼロ」という期待がかけられています。

 

可能な限り「事故ゼロ」に近づけるには、交差点などの死角での事故を防止するため、たとえば交差点の路側機と車に搭載した車載器との間の情報のやり取り、車載器同士の情報のやり取り、歩行者が持つ携帯端末との情報のやり取りなどが必要になります。このようなインフラの整備には、さらに10年単位の時間が必要になるのでしょう。

 

しかし、このようなインフラを整備しても、「事故ゼロ」にはなりません。

 

最後は、自動運転車という「機械」が事故を起こし得ることを社会が許容するかどうかです。つまり、人間の全く関わっていない機械が事故を起こし、場合によっては死亡事故を起こす可能性があることを、社会が受け入れるかどうかです(もちろん、事故が今よりも減る、という利点はありますが・・・)。

 

これを受け入れた後には、自動運転の分野に限らず、「機械が人を殺す」という今は考えようもないハードルが少し下がることになるのかもしれません。

 

 

もっと現実的な未来像

ここまで考えると、完全自動運転車の普及というのは、そう簡単に実現するとも思えません。完全自動運転車がいきなり社会全体に浸透するのではなく、もっと現実的な未来がやってくると考えるのが妥当です。

 

■ 自動車と歩行者(自転車)の分離

現在開発中の自動運転車は、高速道路や幹線道路だけを走るものとし、市街地は、いわゆる「超小型モビリティ」を自動運転化して導入すれば、歩行者や自転車の安全を概ね確保できそうです。

 

このような分離を図るには、幹線道路と市街道路の区分け、幹線道路に人が近寄れない仕組み、超小型モビリティへの乗り換え場所の確保など、インフラの大きな組み換えが必要になりますが、結果的に、市街地の交通環境が今よりも安全で快適になりますので、望ましい姿と言えます。

 

■ 空飛ぶ車

欧米を中心に、「空飛ぶ車」の開発が熱を帯びてきています。

 

たとえば、米国のライドシェア(相乗り)サービス大手 Uber Technologies(ウーバー)とブラジルの航空機メーカ Embraer(エンブラエル)との提携、シリコンバレーのベンチャー企業 Kitty Hawk(キティホーク)による個人用飛行機の開発(↓)、フランスに本社を置く航空機メーカ AIRBUS(エアバス)によるエアモビリティ「Vahana(ヴァーハナ) 」プロジェクト(動画はこちら)などが挙げられます。

 

 

いずれも、簡単に表現するなら、「人が乗れる大型のドローン」ですね。

 

安全性や騒音などを考えると、都市部でいきなり実用化するのは難しそうですが、離島や僻地での交通手段として、まずは実績を積んでいくことになるのではないでしょうか。

 

■ 人工知能(AI)と人間の協働

自動ブレーキ、車間制御、車線維持など、部分的な自動運転の技術が進歩すると、車の安全性はさらに高くなり、当然、交通事故も少なくなっていくはずです。

 

これに加えて、自動車搭載の人工知能の「経験」を人間にフィードバックしていくことが考えられます。

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上に書いたように、自動運転の導入によって、交通事故の件数は確実に減ります。ということは、その人工知能は、人間とは異なる視点で学習している可能性が高いわけです。つまり、人間には見えていない「安全」が見えています。

 

たとえば、自動車の走行中、カメラなどのセンサ類はどこに注目しているか、異変があった時にどのような判断をしているか、などが分かれば、それを人間の運転にフィードバックすることで、さらに安全な運転が可能となりそうです。

 

あるフレームの中では、人工知能が人間の能力を向上させる「先生」となる可能性が大いにあるわけです(ただし、現状では、人工知能の思考過程が全く見えず、中身はブラックボックスですから、「理屈は説明できないけど経験値だけが異様に高い先生」ということになります)。

 

完全自動運転ではなく、「理屈はちゃんと説明できないけど経験値だけが異様に高い先生」と協働で事故ゼロを目指すのが、最も現実的なのかもしれませんね。

 

まとめ

現在は、「死」が日常から遠ざけられており、また、社会全体としてかなり高い安全が求められています。ですので、自動運転車の普及のためには、それがもたらす便利な未来と、事故というリスクが如何に小さくなるかを喧伝するしかありません。

 

自動運転車の導入は、日常から遠くなってしまった「死」を見つめ直す良いきっかけになるのかもしれませんね。

 

www.overthesensitivity.com

 

 

 

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