エンジニアとして、半導体技術、自然言語処理、情報化施工、医療機器などなど、新しいテクノロジやイノベーションに日々携わる一方で、スマートフォンやカーナビ、GPS などのテクノロジ製品にはほとんど興味がない。ほとんど使わない。
逆に言えば、テクノロジ製品に興味がないのに、それらを生み出す側の仕事に関わっている。
探検家に共感するエンジニア
興味がないのにその手の仕事に関わっている理由は簡単で、理系教科が得意で理系に進み、数学や物理・化学の知識でもって最新技術の奥深くを探求するのが面白いから。あとは単純に、メシを食うため。
一方、その手の仕事に携わっているのに、テクノロジ製品・サービスにはあまり興味がない。スマホなんて、仕事で必要だから持っているけれど、基本的には一番安くて一番低スペックのモノしか買わない。お金使いたくない。
その理由は、こちら(↓)の記事に書いたようなことが関係していると思うのだけど、これまでずっと曖昧で、スッキリはしていなかった。
でも、最近になって、探検家・角幡唯介さんの『新・冒険論』を読み、モヤモヤがハレバレするような感銘を受けた。探検家とエンジニアとでは視点が全然ちがうし、角幡さんの生きるレベルには到底及びもしないけれど、「システムの内側で生きる」点と「それが人間の自由を奪い得る」点について、恐ろしいほど共感できた。
探検家・角幡唯介氏の『新・冒険論』
本書は、コロンブスやナンセン、ヘイエルダール、ピアリーといった歴史上の名立たる冒険家の活動と併せて、著者自身の過去の冒険行も引用しつつ、冒険・探検の本源的な意味、現代における冒険の難しさ、冒険と自由との関係などを解き明かしてくれる。
この本に出てくる冒険の条件をまとめると、おおよそこの4つに絞られる。
- 自主的であること
- 単独行為であること
- 死の危険があること
- 非常識であること
それぞれの詳細については、本の中で詳しく書かれているので、ここでは取り上げないが、著者が最も力を入れているのは4つ目の「非常識」であり、それを「脱システム」という言葉で表している。
ただし近年、その「脱システム」という冒険の一条件が成り立たなくなってきており、その一例として、「マニュアル化(つまり、常識化・システム化)」されつつあるエベレスト登山を挙げ、もはや地球上の隅々まで(あるいは、宇宙まで!)マニュアル(常識・システム)が張り巡らされた結果、真の意味での「冒険」がますます困難になっており、その冒険がもたらす「自由」から人間はますます遠ざけられている、と嘆く。
一方で、「オオカミの群れと暮らした男」や「ある登山家のサバイバル登山」など、いくつかの「脱システム」の事例を挙げて、現代でも脱システムの可能性が方々に残されていることを示唆してくれる。
ここで言う「システム」というのは、具体的には、現代の冒険に欠かせない位置付けとなっている GPS や各種通信機器などのテクノロジのことであり、これらが逆に、冒険行為を本来あるべき「冒険」から遠ざけ、阻害する要因となっている。
そんな冒険には、死と隣り合わせになることでしか分からない「生」を意識することと、もう1つ、その「生」を自力で築き上げる「自由」を獲得するという目的があり、「常識」というシステムの外側で「自由」を獲得することによって、システムの内側を客観的に見ることができる利点がある。
というような主旨の本書を読んで、自分の中にあるモヤモヤがかなり晴れ渡った。
システムの内側で自由を奪われる恐怖
ボク自身は冒険家でも何でもないけれど、技術の進歩や社会の成長によって、マニュアル(常識・システム)が身の周りに次々と染み渡っていくことに、若いころから一種の恐怖を覚え続けている。具体的には、携帯やスマホ、カーナビなどに感じる恐怖である。
そのような恐怖が心の片隅に常に居座っているから、本能的に、そのようなマニュアル化の原因となるテクノロジ製品・サービスなどを遠ざけようしていることが、この本を読んで自分の中にはっきりと認識できた。その手の仕事に携わっているのは、それを「仕事」と割り切って妥協している面もあるかもしれない。
では、それがどんな恐怖かと言えば、上掲の過去記事『安全・安心・安定の中心で「リスク」を叫ぶ|今日と同じ明日はくるか?』にも書いたように、自分でリスクを判断する「自由」を奪われてしまう、という恐怖である。
著者は探検家で、ボクはエンジニアで、立場はまったく異なるけれど、 マニュアル化・システム化が進んだ世界で如何に人間の根源的な自由が奪われてしまうか、という普段の生活の中ではなかなか他人の共感を得られないテーマについて、書籍を通じて似たような考え方に触れられたことは、今後の人生の大きな財産になりそうな気もする。
最新技術の奥深くを探求することも、今ある常識を打ち破って「非常識」を目指していく点では、実に冒険的な側面もあるんだけど、そのようなイノベーションの方向性というのは、ほぼ 100%「便利」「娯楽」の追求でしかないから、結局は人間社会のマニュアル化・システム化に寄与しているに過ぎず、ということは、人間の根源的な自由を奪う方向でしかない。
戦後、高度成長期の中で「不便」がほぼ解消され、その後は現在に至るまで「娯楽」の追求に焦点が当たっており、便利で安心で心地良い社会が構築されてきたわけだけど、その裏では、「自分でリスクを判断する」自由が着々と奪われてきた。
そんな考えが常に頭の中にあるから、いくら面白くて仕事と割り切っていても、テクノロジやイノベーションに携わる仕事と、それが人間の自由を奪いかねない可能性との間に挟まれて、時々、呼吸困難になる。
そのような矛盾に耐えられなくなり、少し働き方を変えてからは、心が比較的落ち着いている。その変化は、「自主的で」「単独で」「死の危険(食いっぱぐれ)があり」「非常識(当時のほぼ常識外)」だったため、結局のところ、上に書いた冒険の4条件を満たしていることになり、自分は、エンジニアという枠組みの中で冒険家になろうとしていただけなのかな、と今になって思う。
システムの外側で感じる「面倒」
もちろん、普段の生活でテクノロジに一切頼らずに生きていくことなどできないし、それはあまりにも非現実的だから、車や携帯電話、最近であれば人工知能(AI)のお世話になることもあるけれど、最小限にしか利用しないでおこう、という意識は常に働いている。
そのように思うのは、上に書いたような「自由に対する危機感」が一番の理由だけれど、これ以外に、「面倒」に対する危機感もあったりする。もう少し付け足すと、面倒とともに過去の記憶が失われていくことの恐怖、とも言える。
テクノロジやイノベーションによって、システムの内側の生活(= 日常生活)は止め処なく便利で快適になっていくけど、わずか1~2世代前までは、今となっては想像もできないほどの困難や不便や面倒が日常を覆っていたわけで、ボクらのちっぽけな命は、そのような無数の面倒な日常の積み重ねの上に成り立っているに過ぎない。
なのに、ボクらのメモリは、いとも簡単に上書きされていくので、面倒とともに積み重ねられてきた過去の記憶も容易に色褪せてしまう。そのような上書きは、テクノロジやイノベーションによって加速していく可能性が高い。
面倒と感じるのは、面倒を解消した先にある自由を希求する気持ちがあるからだと思うので、面倒とともに過去の記憶が失われていては、自由を希求する気持ちを世代間で受け継ぐことができず、「自由に対する危機感」さえもが薄れていく危険性がある。
その原因がテクノロジやイノベーションにあるとするなら、人間が進んでいく方向に疑念が生じるのは自然な成り行きで、仕事もなかなか手に付かなくなる。
システムの外側にある自然
角幡さんの書籍で語られている「システム」というのは、人工的に構築された常識としてのシステムだから、その反対は「自然」ということになる。
脱システムを標榜する冒険家がテクノロジ・オフの「自然」へと惹きつけられるのは当たり前だけど、冒険家ではないボクも、やはりシステム外の自然へと惹きつけられる。人工的なモノに囲まれるより、自然に囲まれている方が、百倍も千倍も落ち着く。
システム内の人工物としては、無数の製品やサービスが溢れているけども、近ごろ賛否含めて話題になることが多い「ゲーム」がやはり気になる。
ムスコNはたまにお世話になっているし、ボクもお付き合いでごくたまにお世話になるし、仕事でゲーム関連のことを調べたこともあるし、もはや現代人の生活と切り離せない大きな存在となっている。
その中毒性で語られることが多いゲームだけど、ボク自身は、その非冒険性により、ずっと近付けないでいる。上掲の冒険4条件に照らしてみて、「自主性」や「単独性」はさておき、「死の危険」や「非常識性」は皆無だ。
でもまぁ、ゲームを冒険性と関連付けて考えるアホな人間なんてほとんどいないだろうね。
スポーツや囲碁・将棋なども広い意味ではゲームみたいなものだから、中毒性の有無はあれど、「それでメシが食えるかどうか」という点に、冒険性と非冒険性との分かれ目があるような気もする。
あとがき
以上のように、冒険家でもないのに冒険性を求めてしまう性質から、テクノロジやイノベーションに関わるエンジニアとしての仕事と、それが人間の自由を奪いかねない可能性との間に挟まれて、時に呼吸困難に陥るボクなので、ツマMは大変困っている。
ボクが何故カーナビを使わないのか、ボクが何故スマホをほとんど使わないのか、ボクが何故ゲームをほとんどやらないのか、ボクがなぜ面倒なことばかりをすき好んでやるのか、ボクがなぜ消費期限切れの食べ物を捨てないのか、ボクが何故なかなか病院に行かないのか、まったく理解できないと思う。
でも、最近ちょっと似てきたから、分かってくれるかな。「人間の判断」という自由が失われつつある日常生活の中に、少しでも冒険の可能性を残しておきたい、という気持ちを。
子どもたちも大きくなってきたことだし、そろそろ、もう少し冒険側に軸足を移し替えてみるのも良いかな、と思う今日この頃。
おまけ
「冒険」という視点では、知の巨人・佐藤優さんの『十五の夏』も超面白かった。
作家で元外務省主任分析官の著者が、難関高校合格のご褒美として親の資金援助を受け、高1の夏に単独で解放前の東欧・ソ連を旅した記録だ。
著者の記憶力・記録力に驚嘆しつつ、今から 40 年以上も前の(「わずか 40 年前」とも言える)未知の世界を旅した気分になれる。淡々と描写されている当時の風景や優少年の心持ちが、逆に旅情をヒシヒシと感じさせてくれる。
南米などを放浪していた若いころの自分に、ちょっと重ねてみたりして。
この夏、米国にホームステイしたムスメAにも、出発前に読ませてやりたかった。
そして、こんなリスクもあります。