敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

安全・安心・安定の社会で「リスク」を叫ぶ|今日と同じ明日はくるか?

 

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エンジニアでありながら、定量的なデータやエビデンスよりも、定性的な「野生の勘」を信奉してしまい、自分でも戸惑うことが多々ある。

 

とりわけ、生活や人生に安らぎを与えてくれる「安全・安心・安定」については、それが過剰であればあるほど、自分の中の「野生」が前に出てこようとする。

 

科学技術の歴史は、安全・安心・安定を追及する歴史とも言えるわけで、過去記事『【自動運転】50年前より240倍安全な車が普及する未来の「死」』にも書いたように、現在の自動車は 50 年前と比べて、感覚的に 30 倍ほど安全・安心・安定な乗り物となっている。それでも、歩行者を巻き込む悲惨な自動車事故は後を絶たず、さらなる安全・安心・安定の追求へと技術や社会は向かっていく。

 

もちろん、あらゆるものに安全・安心・安定が確保され、人々の苦しみや悲しみが少なくなっていくことには何の異論もないが、一方で自分を客観視してみると、過剰な安全・安心・安定を窮屈に感じている部分があり、日々の生活の中であえて自らリスクを取りに行くことで、家族や周囲の人間を巻き込んでしまっている。

 

うまく表現できないが、自然と「リスク」に引き寄せられていく感覚がある。

 

消費期限・賞味期限のリスク

卑近すぎる例でアレなんだけど、消費期限や賞味期限がもたらす安心感は、ボクには過剰に感じられる。

 

「消費期限」は、これを過ぎると腐敗・変敗といった品質劣化で安全性が損なわれる可能性が高いため、まだ理解できるが、「賞味期限」は「おいしく食べられる期限」に過ぎず、これを守ることにどれほどの意味があるのか分からない。

 

「直射日光を避ける」「高温・多湿を避ける」などの定められた保存条件さえ守っておけば、あとは見た目(色、カビの有無など)、におい(すっぱい臭い、鼻にツンとくる異臭など)、味(酸味、苦みなど)を確認して、異常がなければ余裕で食べられる。特に、においさえ確認できれば、だいたい判別可能だ。「期限を過ぎたら即廃棄」なんて考えられない。

 

ツマMも最初は「期限」を信奉していたが、いつの頃からか五感を頼りにするようになり、今ではボクよりも大胆に、期限切れの品を食卓に並べてくる。何とも挑戦的で、うれしくなる。

 

病気・けがのリスク

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スキーで無茶をして肋骨や腰骨を折った時は、すごく病院のお世話になったが、それ以外はなるべく病院に近づかない。でも、幼い子どもたちは、さまざまな病気に罹ったり、怪我をして帰ってきたりするため、病院のお世話になることがある。

 

ただ、いつも躊躇・逡巡してしまう。ツマMが「病院行こうかな」と言い出したら、つい、行かなくても良い理由を考えて口に出してしまい、ケンカになる時がある。自分でも不思議なくらい、反射的に「否」と反応してしまう。

 

昨冬、ムスメがインフルエンザになった際、躊躇して欠席が長引いてしまったこともある。それでも、病院にはなるべくお世話になりたくないのだ。

 

医療の公的支出増や医師の過労に関する報道、「インフルエンザぐらいで病院に来なくてもよい」という意見、などが躊躇の原因とも考えられるが、それ以上に、「病気・けが → 即 → 病院」という短絡的な流れにどうしても乗りたくない気持ちがある。科学技術の恩恵を避けて、「野生の勘」に頼ろうとしてしまう。ちょっと異常だと、自分でも思う。

 

素人判断はかなり危険だが、それでも、自分の身体のことは自分が一番分かっていたいといつも思う。子どもの病気にしても、松田道雄さんの名著『育児の百科』に頼れば、ある程度のことは自分で考えられる。

 

自分のことはどうにでもなるが、家族の命を預かるのは、ものすごく責任を感じるし、やはり怖い。でも、怖いから懸命に勉強し、勘にも頼りながら、自分の判断力を磨いていける部分もあると思う。

 

リスクを丸投げすることは、自分の判断力も丸投げしてしまうような感覚に陥るため、反射的にそれを避ける方向に考えがいってしまう。

 

山登りのリスク

学生時代は海上のスポーツにのめり込んでいたが、今は、山登りやハイキングを気に入っている。家族や仲間とともに、汗をカキカキ山頂にたどり着いた時の達成感や爽快感、自然との触れ合いは、かけがえのない思い出になる。

 

ただ、近ごろ気になるのは、やはりこれ。 

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最近特に、目撃や遭遇の報告が多くなっており、登山口で「熊に注意!」の看板を見掛けると、やはり不安は募る。そういう時に限って、「その山を登ろうとしているのは自分たちだけ」みたいな状況だったりする。

 

大人だけなら、まだ何とかなるかもしれないが、子どもは大人が守らなければならない。

 

幸い今までに遭遇したことはないものの、いつでも出会う可能性はある。だから、心と知識と荷物の準備だけは怠らない。その上で、「山」というリスクに吸い寄せられていく。

 

仕事のリスク

マイナビの調査によれば、就活生の企業選択のポイントとして、「安定」が過去最高を更新している。ここ 20 年ほどで、最も増えている選択理由である。

 

「失われた 30 年」で経済成長はなくなり、格差も徐々に拡がる中、少しでも安定を求める動きは当然の帰結と言える。親からの助言も影響しているのかもしれない。

 

もはや、企業・会社という「箱」自体には意味がなくなってきており、今後もその流れは加速していくと考えられる。そうなると、1人ひとりが「何をしたいか」「何ができるか」を問われることになる。

 

人が仕事を選択する理由は、仕事の内容(やりたいこと)を重視する場合と生き様(安定 or チャレンジ)を重視する場合とに大別できそうだ。「安定」と縁のないボクは明らかに後者であって、「自分を追い込むこと」に何とか働き甲斐を見出そうとする。

 

護送船団的な安定よりも、なぜかリスクに引き寄せられてしまう。

 

人生のリスク

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保険は、安心感をもたらしてくれる。ボクも、家族に迷惑をかけるわけにはいかないから、最低限の保険には入っている。ただ、あらゆることを保険でカバーできるとは思わないし、したいとも思わない。

 

安全・安心・安定を追及することは、「今日と同じ明日がくる」確率を高めようとする作業だ。その確率が高くなるのは、間違いなく嬉しいこと。ただ、物事にも人生にも必ず終わりがあるのに、「今日と同じ明日がくる」という幻想ばかりが過剰になってしまっては、その「終わり」を受け入れ難くなってしまう。

 

人生にはリスクが付き物だ。リスクだらけだ。だから、「今日と同じ明日がくる」という幻想が過剰になる状況の中で、あえてリスクに近づこうとするのは、案外普通のことであり、その方が現実的なんじゃないかとも思えてくる。

 

 

 

あとがき

自分の「リスク志向」のせいで、家族や周囲の人間には、多大なる迷惑を掛けてしまっていると思う。でも、安全・安心・安定が過剰になると、息苦しいのだ。「安全・安心・安定」という呪いによって野性的な判断力が奪われてしまうんじゃないかという恐怖感がある。

 

「今日と同じ明日がくる」確率を高める作業の負荷を少しでも多く自分に残しておきたい。その作業とは、やはり「自分で考えて判断する」こと。そうやって、ただ生きてることを実感したいだけなのかもしれない。

 

「死ぬことを意識しなければ、生きてる意味など分からない」 と誰かが言ったように、リスクを常に意識しておかなければ、安全・安心・安定を求める声だけが止めどなく暴走していく。その安全・安心・安定の追求が極限に達したとき、人類はたぶん滅びると思う。

 

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