いやもう、無謀な挑戦だ。高校受験と中学受験を同時に迎えた2人のムスメのチャレンジにお付き合いしている自分のこと。
田舎者の矜持
ボク自身は田舎で生まれて大きくなったので、「中学受験」という言葉の存在すら知らなかったし、高校受験も当然、地元の高校を受けただけだ。それ以外の選択肢はなかった。いや、両親に一度だけ、隣接県の私立を受けてみる?みたいなことを半分冗談で言われたことはあるが、スルーしたら一瞬で話は立ち消えて、結局は地元のぬるい進学校へと兄姉を追いかけることになった。そして、地区全体で一発勝負の高校受験は、不合格者が出ないように中学校の先生たちが綿密に受験計画を立ててくれたし、高校ごとに、各中学校の「枠」みたいなものがあったんだろうと、後になって思うことがよくある。もちろん、決して明らかにされることのない「枠」だが、その「枠」を意識した担任の進学指導に、生徒もその親も上手く乗せられていたのだろう。それぐらい、学校や担任の先生というのは、神々しい存在だった。ひと昔前の地方のあるあるかもしれない。
そんなわけで、小学校の間は部活に没頭し、部活以外の時間は、いかに楽しい遊びを思い付くか、ということに執念を燃やした。中学校でも、高校受験が上に書いたような「(半)出来レース」のため、没頭するものが部活しかない。あとは、小学生から少し大人になった自分の、その(半)大人なりの遊びだけだ。
井の外の蛙
高校生になってやっと、先生たちが時折話してくれる「井の外」の世界の事情に触れ、高卒(夜間)の両親からは詳しく聞けなかった「大学」というものの存在をはっきりと認識し、子どもの進路にレールを一切敷かない両親の後押しだけを受け、高3になり漸く重い腰を上げて受験勉強を開始し、入試で訪れた東京や大阪の街並み、地元にいたガリ勉君の風貌をいとも簡単に凌駕してしまう a group of "スーパーガリ勉君" の熱量に圧倒されつつ感化されつつ、地元を離れた 18 歳の春だった。
その後は、地方の田舎出身という唯一の武器(?)を頼りに、アンニュイな学生時代を過ごし、猛吹雪の社会人生活を送り、気が付いたら、上の2人の子どもが早くも受験期だったりする。そこで初めて、田舎と都会の「受験」がまったくの別物であることを知って慌てふためく自分のような親がいることは、こちらの本にも書いてある通りだ。
受験と進学の新常識 いま変わりつつある12の現実 (新潮新書)
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学校と塾、受験と登山
残念ながら、学校の先生は神ではなく、公務員だ。受験勉強も進路指導も、基本的には塾に委ねるもの、という暗黙の了解があり、中3ともなれば、周りの通塾率は8~9割という印象。本来、勉強の楽しさを見出すきっかけとなるべき受験が、資本主義競争社会のとば口となってしまっている現状では、それを市場原理が担うことになったのも当然の帰結と言える。最近では、実家の近くにもそれなりに名のある塾がチラホラ目に付くようになってきているから、田舎でも通塾率は高くなっているんだろう。隔世の感だ。
都会には、進学する高校の選択肢が数え切れないほどあり、目移りして困るぐらいだ。中学校についても、公立中高一貫校という面白そうな学校が割りと近くに存在する。ボク自身は、目の前に山があったら登ってみたくなる性格だ。その山が高ければ高いほど、景色が気になって仕方がない性格でもある。その性格は、間違いなく子どもたちにも伝染してしまっており、上のムスメは高校受験でそれなりに高い山を登り、下のムスメも中学受験という山を登ることが半ば既定路線となっていた。いまや2人とも、そんな登山を楽しんでくれているようなので、それはそれで良かったんだろう。
受験に伴う「意志」と「時間」の問題
そこで、ふと立ち止まる。上の本には、こんなことが書いてある。
・・・中学受験をしないのなら、その代わりに、小学生のうちから自ら計画を立て、自らの意志で勉強ができる子に育てるための工夫をすべきだということだ。・・・
中学受験をする場合としない場合、その両方のメリット/デメリットを挙げた上で、受験しない場合の高学年の在り方を提言している。勉強でもスポーツでも音楽でも何でもよいので、夢中になれるものを見つけて主体的に頑張ろう、ということだ。
こんなことも書かれている。
・・・受験生に求められるものとして、大量の課題をこなす処理能力と忍耐力だけが残った。付随して、与えられたものに対して疑いを抱かない力も求められるようになった。この3つこそが、現在の日本の受験システムの中での「勝ち組」になる条件となってしまっている。・・・
現代の受験に纏わる環境や受験生が置かれた状況を的確に表していると思うし、著名な教育ジャーナリストが書いていることだから、然もありなんとも思う。ただ、それに対して、地方の田舎出身という自分自身の来歴が否応なく纏わりついてくる。受験というものが、自らの意志ではなく、与えられたものに対して疑いを抱かない姿勢によってしかほぼ成り立ち得ない、そんな受動的かつ商業主義的なものでしかないとしても、そんな現状からは一線を画して、「受験の中で自ら計画を立て、自らの意志で楽しく進んでいける子」になって欲しい、という思いが沸々と湧いてくる。
また、護送船団方式が当たり前だったこの社会も、今や、自分自身で乗る船を見つけて、自分自身で操船する時代になりつつある。その乗る船は、勉強の船かもしれないし、スポーツの船かもしれないし、芸術の船かもしれない。早々と見切りをつけて乗る船を1つに絞ってしまう向きもあるけれど、飽きっぽいボクは、1つの船に乗り続けることができない。そんな性格も影響して、子どもたちに対しても、いろんな船に少しずつ乗っておき、自分で判断できるようになってから、1つに絞りたければそうすれば良いじゃないかと思っている。だから、勉強だけのために習い事をやめてしまうのは、勿体ないと思っている。そうすると、時間をどう捻出するかが問題になる。
そして「塾なし」
こうやって考えた結論が「塾なし受験」だ。
塾に入れば、やるべきことが否応なく与えられる。それはそれで楽チンだし、他人との競争をゲーム感覚でクリアしていくのは、アドレナリンが出まくって気持ちいいかもしれないから、何も否定することではない。ただ、他人との競争がなくても、ゲーム感覚が乏しくても、自分との闘いにアドレナリンを出しまくる工夫を自分でできるようになって欲しいと願う。自ら計画を立て、自学することを心から楽しいと思えれば、それは大きな財産となるはず。自宅学習でも、大枠のスケジューリングや疑問点の解消は親の出番となるため、子どもが完全に一人で闘うわけではないけれど、ボクのようなゆるふわ fluffy な親では、情に絆されて厳しくできない場面も多くなるから、結局は子どもの自主性頼みということになる。
また、塾というビジネスに受験が取り込まれると、経営上の観点から、授業や教材、テストなどが盛りだくさんになる傾向はあるだろうし、生徒獲得のための一番の指標となる「合格実績」を充実させるため、生徒にかけられるハッパも激しくなりがちだろう。少子化の現状ではなおさらだ。塾内への抱え込み合戦も活発になる。そんなこんなで、通塾の時間は伸びていく。冷静に、生徒を一群としてではなく、一人ひとりの人間として眺めるなら、個々には無駄時間が大量に発生しているかもしれない。
じゃぁ、自宅で頑張れ。というか、自分で楽しんじゃえ。
結果ではなくプロセス
はっきり言って、結果はどうでもよい。子どもに結果だけを求めるのが如何に愚かで無意味なことかは、既にはっきりとしている。たとえ目標とする学校に合格できなくても、それまでのプロセスが無駄になることは絶対にない。それは、「絶対にない」と信じ込むことで初めて現実化する類のものだと思う。だから、「絶対にない」と信じ込むことが、その後の人生を前向きに生きていく基本となる。通塾せずに高い山を登ろうとする稀有な気概自体が、子ども自身の糧になることだろう。
特に、公立中高一貫校の適性検査は、知識を詰め込んで終わりではなく、高校受験にも活かせる学力が身に付くし、来年度に迫った「大学入学共通テスト」を筆頭とする思考力型学習への教育改革の方向性に準ずるわけだから、とっても良い。私立の中高一貫校でも、思考力型入試への移行が増えているみたいだから、これは紛れもない時代の流れだ。そのような勉強だからこそ、強制的ではなく楽しみながら取り組みたいところ。
※ 「知識の幅」と「思考の深さ」という2軸で、中学受験や公立/私立中高一貫の学習がどのような位置付けになるのかは、以下の記事に詳しく紹介されている。
子どもとシェアする青春
ボク自身は、中学受験も激烈な高校受験も経験していないし、教育関係の仕事に就いているわけでもなく、学生時代に家庭教師や塾講師をちょっとかじった程度でしかないため、ムスメたちの合格を保証してやることなど出来ない。入試の形態が多様化し、入試問題が高度化・複雑化するこの激動の時代に、大小さまざまな専門塾が群雄割拠する中、ポンコツおやじが学校 vs. 塾の代理戦争に割って入るなんてことは、冒頭にも書いたように、無謀以外の何物でもない。平日の仕事後も土日も、受験情報や学校情報を入手・取捨選択したり、ムスメたちのスケジュールを考えたり、ムスメたちからの質問攻めにあったりして、既に疲弊しきっている。
でも、青春まっただ中のムスメたちと一緒に山登りができるなんて、こんなに幸せなことはない。女の子は特に、他人との競争よりも、連帯感や共感が行動のきっかけになると聞くから、仲の良いムスメたちが互いに共感し合う状況に伴走者として自分自身も加わっていることが、少しでもムスメたちの力になれているのかと思うと、それだけで嬉しくなる。それぞれに本当に必要と思われる学習内容だけを厳選し、習い事や友人との付き合いも両立できる効率的なスケジュールを考えていると、もう頭がパンクしそうになるけれど、そうやって苦労をシェアできることが、塾なし受験の一番の醍醐味とも言える。
ハイタッチと祝杯
これが子どもたちにとって最善の答えなのかどうかは分からないけれど、「塾なし」というやり方自体は、特に迷ったり悶々と考えあぐねたりすることなく、自然な方針として頭に浮かんできたことだから、それが自分の理想的な子育てであり教育方針であることに違いはない。子どもたちが「通塾したい!」と強く言ってきたなら、家計的に許せる範囲で通塾させることも何ら厭わないのだが、自宅学習で十分にアドレナリンが出せているからなのか、特に何も言ってこない。その点は波長が合っているようで良かった。
もちろん、最終的な結果は誰にも分からないけれど、1つだけはっきりしていることがある。
数ヵ月後には、合否どちらに転ぼうが、全員でハイタッチをして、互いのプロセスを称え合っていることだろう。ボクは、山登りできたことの祝杯を溺れるまで重ね続けているだろう。