探検家で作家の角幡唯介さんが面白い。
先日も、インタビュー記事を興味深く読んだ。
システムの外側で生きること
己の内側から湧き上がる感情に従って、社会というシステムの外側に飛び出し、社会の役に立たない「無意味なこと」に普遍性を求める。そんな生き方に、甚く共感する。
大学で部活にのめり込み、「就職はしない」と心に決め、途中5年間ほど組織に属したものの、やはりフリーとして生きていく。その経歴に、自分のたどってきた道が重なる部分も多く、それで余計に、他人事とは思えなくなる。心から、応援したくなる。
「社会の役に立たないこと」を志向するのは、今の社会に欠けている本質を読者に問い掛けるため、とおっしゃる。その通りに、心が見事に揺さぶられてしまい、何かを書かざるを得なくなったので、指を動かしてみることにした。
生産性向上とその意味
現在、「社会に役立つこと」は、生産性と結び付けられることが多い。生産性とは、「時間当たりの成果」なので、短時間に多くの成果を出せれば、生産性が高くなる。
生産性を上げる過程では、成果(≒ 利益や収入)が増え、それに掛ける時間が減る(≒ 余暇時間が増える)。そして何より、多くの人は、生産性が高くなること自体を「気持ちいい」と感じる。これの行き着く先は「生産性中毒」なわけだが、いずれにしろ、生産性を上げるとすごく Happy になれそうな気がするため、生産性が神様みたいになってくる。
そうすると、生産性を高くすることが正義になる。その正義は、社会の養分として回収される傾向にあるから、結局「高生産性 = 社会に寄与」みたいな構図が出来上がる。
その裏側で、生産性の低い者は忌避される。高齢者しかり、障害者しかり、子供しかり、だ。成果を出せるかどうかの不確実性が高く、時間ばかり取られる「挙児・育児」なんて、生産性から最も遠い存在だから、誰もが躊躇して当然と言える。だから、「生産性向上」と「少子化対策」が同時に掲げられるのは、狂ってるようにしか見えなくもない。
生産性向上がもたらす不毛な格差社会
「国家」という枠組みがある以上、国同士の競争は必然的に発生する。グローバル化が進み過ぎた今は、生産性の競争がとても熱い。国のリーダーは当然、生産性向上を主導する。企業のリーダ―も当然、生産性亡者とならなざるを得ない。このように、国内の上から下の方に向かって、生産性ピラミッドが出来上がる。
生産性を高くするには、無駄時間を減らさなければならない。無駄時間を減らすには、上意下達のトップダウンが好都合だ。言うことを聞かない人は、どんどん外しちゃえ! となっても不思議はない。やがて、従順さを最高の美徳とする社会になる。そう、スマートな社会だ。
日本学術会議の一部候補の任命を菅首相が見送り #nhk_news https://t.co/YHZ97PvsjU
— NHKニュース (@nhk_news) October 1, 2020
従順であればあるほど、人は深く考えなくなる。決まったパターンに当てはめ易くなる。上の立場の人間にとっては、とても扱いやすい。目の前にエサをぶら下げておけば、あとは指示通り・目論見通りに動き始める。パターンにはまっているため、人工知能(AI)にも扱いやすい。GAFA や FAANG とよばれる企業群の思惑通りとなる。
そうやって、政治・経済的なシステムと技術的なシステムの両方に絡めとられていく。そのようなシステムの中では、家柄や家庭環境に恵まれた人、マナーや礼儀作法にそつのない「育ち」のいい人などが活躍しやすくなる。誤解を恐れずに言うなら、個人の本質とは関係のない表面的な装飾によって「きれいに見える」人が有利になる。
とまぁ、こんな感じで、トップに近い人はますます威勢が良くなり、ボトムに近い人はますます従順になり、諦念とともに考えることを放棄しがちになる。諦念があればまだマシで、諦念すらなく、ただ従順になっていくだけかもしれない。どう考えたって、格差は拡がっていく。今まさしく、その過程を目の当たりにしている時代だ。
でくの坊の脱格差論🌵
話を振り返ってみると、格差が拡がる起点となっているのは、「生産性」が個人にとっても社会(政府や企業)にとっても都合のよい道具となり、生産性が高い者から低い者への無言の圧力によって、生産性ピラミッドの下層にいる我々(本来、生産性のメリットを十分に享受できない層)までもが生産性の呪縛に囚われ、意図せずとも格差拡大に寄与してしまっている点が考えられる。だとすれば、なんとも皮肉な話だ。
その解決策の一つとして、「社会の役に立たないこと」を志向する角幡さんの問い掛けが、心に突き刺さって抜けない。
社会の役に立たない・・・つまり、敢えて「木偶の坊」になれば良いじゃないか。
たまには生産性を捨て去って、役立たず人間として生きるのが良い。それを認め合える社会は美しい。
ただし、この「生産性」ってのは、産み出す側としての生産性に限ったことではない。生産性を高くするために編み出された数々のアイテムやシステム(スマホ、GPS、自動車、etc...)から敢えて離れて「不便」を味わってみるのも、すごく木偶の坊的だ。生産性の「成果」として生み出されたプラットフォームを通じて流れてくる動画やテレビなどのコンテンツから離れて「無」を味わってみるのも、すごく木偶の坊的だ。
そうやって、便利や娯楽をもたらしてくれるシステムの外側に立ち、「不便」や「無」を味わう価値観が今より尊重されるようになれば、格差の縮まった未来が見られそうな気もする。
さいごに
角幡さん曰く、
「でも偉そうに『社会的に意味がないこと』と言っても、その時点ですでに『意味がない』という意味が生まれている(笑)。」
無意味を追求する姿に注目が集まってしまうと、そこに意味が発生する、という矛盾。真に「社会に役立たない無意味」を実現しようと思うなら、決して耳目を集めてはならないわけだ。なんて孤独な闘いなんだろう。ブログなんて書いてる場合じゃないね。