敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

受験とは何か?競争に勝てる能力・環境・運と、努力と、自由への疾走と

 

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とても興味深い記事(↓)を読んだので、小中高生を子育て中の親として、思うところを書いてみます。サンプル数1の単なる自伝的エッセイなので、興味ない方は思いっきりスルーしてくださいね。

topisyu.hatenablog.com

 

まず私のスペックは、ド田舎出身 → 旧帝大理系卒 → 規模ばかり大きなメーカ → 独立 → 地方都市在住 → ライフ重視のワークライフバランス(ワーケーション未満)、です。今は地方都市在住ですが、はっきり言って、小中高生の通塾率の高さと、学校(すべて公立)の先生方の能力やモチベーションの低さに、ビビっています。

 

私が子どもの頃は、そもそも塾というものがほとんどなく、あっても、それは授業の遅れを取り戻したい人が通う(というか、親が通わせる)個人経営の塾だけでした。なので、学校の勉強以外にやることは、部活と遊ぶことしかありませんでした。

 

今の小学生たちが塾のカバンを背負って夜遅くまで勉強している年頃に自分がしていたことといえば、トンボを大量に捕獲して家の中で放し飼いにしてみたり、ホタルを大量につかまえてきて、その明かりで本を読んでみたり、朝4時に友人たちと集合して、バス釣りに興じた後に通学したり、そんなバカみたいな日々でした。

 

中学と高校は、部活が楽しくて、部活仲間とつるんで遊ぶのが楽しくて、勉強が第一になることは決してありませんでした。ただし、お金がなくて高卒・中卒とならざるを得なかった両親は、勉強に対するあこがれが強く、仕事の合間に勉強や読書をよくしていましたので、その影響か、勉強を嫌いになることも決してありませんでした。

 

中学生のころは、英語の教科書がまる一冊、ウォルト・ディズニーの生涯を取り上げたもので、ただただ内容が面白く、何度も読み返しているうちに、一字一句すべて覚えてしまいました。また、世界地図を見ながら仮想世界旅行をするのが楽しくて、何度も旅行しているうちに、世界の主要都市や山・川・砂漠・鉄道などの名称・場所をすべて覚えてしまいました。余談ですが、その当時の「イースター島に行ってみたい!」という夢は、大きくなってお金が貯まってから、無事に叶えることができました。

 

高校生のころは、数学で三角関数や微積を習って、それが物理の波の方程式や運動方程式とつながった瞬間は、頭の中に100mAぐらいの電流がビビッと流れましたし、英語の分詞構文を理解して使えるようになった時には、200mAぐらいの電流が流れました。「a(an)」と「the」と複数形の使い分けができるようになった瞬間は、1Aに達していたでしょう。その英語の先生は、旧帝大を主席で卒業したものの、長男であるために実家に戻り、高校の先生をやっていた人です。何となく哀愁を感じさせる人柄でしたが、この先生のように、都会で自己研鑽した後、その文化を後輩たちに残すべく地元で先生になった方々は、誉れ高く颯爽と風を切って歩く一方、勉強や進路の相談には、親身になって相談に乗ってくれました。

 

そんなこんなで、勉強の面白さに気付けた幸運と、親身な先生方に囲まれた幸運だけを頼りに、高3で漸く受験勉強というゲームに目覚めて、苦しくも楽しく学習を重ねた結果、晴れて大学進学となりました。

 

しかし、その大学で、少しつまづきました。

 

同級生たちは、どこそこの塾だ、予備校だ、こんな勉強をした、あの参考書が良かった、などと盛り上がるわけですが、自分にはそういう都会的な経験がないため、まったく話についていけません。ロボットみたいな先生たちは、だいたい黒板とおしゃべりしているだけ。たまに振り返ったかと思うと、自分の来歴の自慢話だったり。他人と共有できるものが少なく、何となく嫌気が差して、部活とアルバイトに逃げてしまいました。

 

その部活で好成績を残せたおかげか、幸い就活には困りませんでした(ひと昔前の物語です)。その入職した会社で最初に関わったプロジェクトのメンバーは、旧帝大卒が半分。さすがに塾や予備校の話は出ませんし、「旧帝卒」という共通項があるからか皆に可愛がってもらって、特に何も不自由はなかったのですが、何となく違和感はずっと抱いていました。

 

「人はやがて環境に馴染むもの」と頭では理解しつつ、下請けをボロ雑巾のようにこき使う尊大な態度、組織内のちまちました権力争い、長時間努力する者が一番エライという風潮、顧客(BtoC)の時間や懐を搾取して当然という不遜な態度・・・そういった少しずつの積み重ねが、大きな違和感へと育っていきました。私は HSP の気が強く、他人を困らせることが出来ないのです。共感しやすく、他人の困りごとがすべて、自分の困りごとになってしまうからです。競争が苦手なんですね。そういえば、受験勉強も自分との闘いでしたし、大学の部活も、対人というよりは、自然を相手にするスポーツだったのです。

 

5年が限界でした。

 

「野に下る」というと語弊がありますが、社会的立場としては底辺とも言える、フリーランサーとして独立することにしました。そこには、理想とする3つの大きな自由がありました。底辺として社会に貢献できることを生き甲斐に感じています。

www.overthesensitivity.com

 

私は、要領が決して良い方ではありません。どちらかと言えば、要領が悪いです。育った家庭環境も、決して裕福ではありません。ただ少し勉強が得意なことと、あとは、勉強の面白さに気付けた幸運、親身な先生方に囲まれた幸運が重なっただけで、上滑りするように大学を出て、いわゆる大企業に就職できました。競争らしきことを何一つ経験せずに、そこまで行ってしまいました。

 

そして、その道からも逃げてしまいました。逃げたことが良かったのかどうかは死ぬまで分かりません。たぶん、死んでも分かりません。ただ、今は幸せです。どれぐらい幸せかというと、地球の重さをはるかに凌ぐ程度に、ズッシリとした幸福感があります。

 

というわけで、どこからどう見ても生存バイアス的な道を歩んできたわけです。それも、かなり細い道です。なので、一般論は語れません。ただ、細いなりにも受験や就活をくぐり抜け、その中でたくさんの人々と関わり合い、今は我が子の進路相談や受験勉強にも関わっているため、それなりに長く、この「人生選抜の道」を眺めていることにはなります。

 

私の受験時は、私のようなただのラッキーマンが旧帝大に入れる「余白」みたいな部分がまだあったと思います。いわゆる一発逆転ですね。それが今は、生まれつき知能が高いか、環境にすこぶる恵まれているか、あるいは余程の幸運でもない限り、一発逆転が難しくなっているように感じます。これがまさしく、格差の固定なんですね。欧米なんかは家庭環境や家柄がもっと影響しますし、中韓なんかは受験戦争がもっと苛烈ですから、日本はまだマシな方だと思いますが、それでも間違いなく格差は固定されつつあります。

 

一部の上位層に引っ張られる形で、それほど知能が高くもなく、それほど家庭環境が良くなくても、受験の低年齢化が進み、私の住む地域でも、多くの子どもたちが夜遅くまで勉強して塾から帰る姿を見かけます。でも残念ながら、上澄みを吸って生きていけるのはごく一部で、その他は容赦なく切り捨てられていく現実があります。目の前の子どもたちが、上澄みにたどり着けるのかどうか、予め分かっていれば無駄に時間や苦労を費やすこともないのにな、といつも思います。

 

我が子の同級生でも、中学受験に失敗して不登校になってしまったり、父親から通塾と受験を強要されて、教育虐待案件とも思える環境に置かれていたりする例など、いろんな話を見聞きします。たかが人間が作り上げたシステムのせいで、なぜこれほどまでに子どもたちがつらい思いをしなければならないのか、ただただ残念でなりません。

 

私自身は、上に挙げた3つの自由を、子どもたちにも獲得して欲しいと思っています。つまり、(1)(大人に)支配されない自由、(2)干渉されない自由、(3)自らを律して自主的に行為できる自由、です。ところが、現実はどうなんでしょうね。

 

本来、自由を獲得すべく学問する大学に入るために、子どもたちが小学生の頃からこれらの自由を奪われているとしたなら、こんなに皮肉なことはありません。地位や年収といったある種の「不自由」を確定させるためだけに、小学生の頃から無理をして、自由を希求すべきアカデミアを目指すとするなら、これまた残念と言わざるを得ません。

 

別にお金を稼ぐことが悪いことだなんて、これっぽっちも思いませんし、お金も含めてゲームのように競争するのが好きな人は、その世界を楽しむのが一番です。ただ、お金があまりにも魅力的すぎて、能力や環境に恵まれていないのに、その世界へ引きずり込まれて歯車がおかしくなってしまう人たちが一定数いることには、思いを馳せておいて良いと思うんですよね。あと、たまたま能力や環境に恵まれていただけなのに、それを実力と勘違いして、一般庶民の時間や尊厳を搾取するような行為は、慎んでも損はないと思いますよ(怒られるので例は出しません)。

 

私個人の妄想的な理想としては、塾が無くなれば良いなと思っています(当然、あり得ないことですけどね)。高1(公立)の娘によると、同級生の通塾率は 80~90%で、睡眠時間は5~6時間。授業中に寝落ちしている子が多く、それらのことを知ってる先生たちからすると、教えるモチベーションなんて上がりませんよね。フリーランスの私からすると、長い時間を掛けるのは、単なる悪です。短い時間で如何に効率よく成果を出すか、それが生産性です。今の中高大生からもやっぱり、長時間労働・低生産性の未来が垣間見えてしまいます。

togetter.com

 

我が子たちは、私が自宅で勉強を教えられるため、環境としては恵まれている方かもしれません。ただし、生まれ持った能力は至って普通なので、親としては申し訳ないけれど、上澄みを吸って生きていける道はかなり狭いと思っています。こんなことを考えるのは自分でもおかしいと思いますが、HSP としての予見のようなものでしょうかね。

 

でもこれって、別に残念なことでも、落ち込むことでもないんです。大人に支配されず、干渉もされず、自らを律して楽しく努力できた先には、自分だけの自由な道が続いています。

 

能力的にピエンな娘は、数学や物理の成績が平均程度なのに、理系に進むことを決めてしまいました。なんて自由なヤツなんだろうと思います。そして日々、「数学って楽しいなぁ!」と言いながら、計算ミスや記述ミスを連発しています。遠い昔の、希望と自由に満ちあふれていた頃の自分に出会ったような気分になり、心から嬉しく思う今日この頃です。

 

結果なんてどうでも良いです。自由を疾走し続けるそのプロセスを、大いに楽しんで欲しいのです。すべての子どもたちに。

 

 

 

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