フリーランサーとして10年以上の経験を積んできたが、この「フリーランス」という働き方には、人類が何千年にもわたって追い求めてきた3つの自由が備わっているように思えてならない。働けば働くほど、そう思う。だから、簡単にまとめてみることにした。
ちなみに、私の経歴みたいなものは、こちら。
支配されない自由
古代ギリシャにおいて、民主制の理想となり、目的となり、基礎となったところの自由。つまり、支配 ⇔ 被支配(奴隷)という関係性を離れ、好きなように生きられる自由。社会の平等によって担保される自由。
現代に当てはめてみるなら、コロナ禍の感染拡大期に、雇用主の要請に従って、高リスクな満員電車に揺られて出社する、ことを拒否できる自由。
黒色企業に時間や精神を搾取されない自由。
消極的自由
消極的自由は、他者の権力に従わない状態、他者の強制的干渉が不在の状態を意味する。 例えば信教の自由では政府が国民個人の宗教活動に干渉しないと規定(国家からの自由)するように、消極的自由は他者の干渉が物理的に無い範囲を規定する。
― Wikipedia
17世紀のイギリスで、ホッブズやロックといった思想家が唱え始めた考えに由来する自由。ごく単純化してしまえば、他者からの干渉が全く存在せず、自身の行為を自ら規定できる自由。
たとえば、会社の理念やビジョン、就業規則などに縛られることのない自由。
積極的自由
積極的自由は、自己実現や「能力」(capability)によって規定される概念であり、自己の意志を実現しうること、能力のあることが自由である。自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいているかどうか、自己自身を律しうる自立した状態にあるかどうかという観点から見た自由である。
― Wikipedia
18世紀のドイツやフランス(大陸欧州)で、カントやルソーといった思想家が唱え始めた考えに由来する自由。理性に従って自律的に行為することを意味する自由。
自分を徹底的に律することは、どの組織にも属さないフリーランスに必須の「自由」。
フリーランスを始める意味
この3つの自由をフリーランサーに当てはめてみた場合、「支配されない自由」「消極的自由」というのは、フリーランサーになった結果として自動的に付いてくる類の自由なので、あまり意味がない。大切なのは、3つ目の「積極的自由」だろう。
つまり、何の制約も受けない中で、さまざまな誘惑に曝されながらも、自分の理性を頼りに自律的に前進していかなければならない。立ち止まっていても、後退していても、基本的には誰も注意してくれないし、心配もしてくれない。
これが、「真の自由は恐ろしい」と言われる所以。私も、フリーランサーとなって最初の数年間は、この自由に何度も押しつぶされそうになった。
逆に考えるなら、この「自由の恐怖」を味わうことに、フリーランスを始める意味がある。近代化とともに「雇う/雇われる」仕組みが強固に出来上がり、人類が希求してきた「自由」の意味が薄れていく中、フリーランスという働き方は、少なくともその「自由」を改めて考えるきっかけにはなると思う。
歴史を繰り返さない
格差の固定や拡がりによって、支配 ⇔ 被支配という関係性が再び顕わになってきているように感じられる。「支配されない自由」や「消極的自由」が失われることのないように、「積極的自由」をいつも意識していたい。
積極的自由を持てるかどうかは、生い立ちや環境などの「運」に依るところも大きいけれど、フリーランスという「自由」を享受したい誰もがそうなれるように、教育制度や法制度の整備が進むことを願う(もちろん、組織に属するのが好きな人もいる)。
私としては、フリーランスに関する情報を積極的に発信していきたい。
余談:ベーシックインカム(BI)は「不自由」
格差が拡大すると、政府が生活に必要な最低限の現金を全国民に支給するベーシックインカム(BI : Basic Income)の導入がチラついてくる。面倒な仕事は人工知能(AI)に任せて、人間は古代ギリシャのように、スポーツや哲学(アート)に興じられるようになる、というのが殺し文句。
ただし、BI というのは、与える側と与えられる側に分かれるため、平等によって担保される「支配されない自由」は損なわれる可能性が高い。また、国家による管理が進んで、「消極的自由」も損なわれる可能性が高いと思う。
「積極的自由」に至っては、労働の目的が一部失われる中で、果たしてどれだけの人が理性に従って自律的に行為できるだろう、と疑問に思ってしまう。
つまり、BI は「不自由」の入口となる可能性がそこそこ高い。BI の導入で支配する側に立つと予想される者が声高に BI の必要性を叫ぶほどに、私は「自由を奪われたくない」と思うんだ。