世界中で子どもの数が激減し、日本を含む23ヵ国では、2100年に人口が半減するらしい。あくまでも予測に過ぎないが、人口動態に関する予測は外れにくいこと、また、子どもの「お荷物感」が増す社会状況などを加味すると、否定するのが極めて難しい予測に感じられる。
自分を含めて老人ばかりになる未来には、若者がめっきり少なくなって、もはや頼ることなどできなくなる。もちろん、我が子と言えども当てにできない。逆に、子ども自体が経済的なリスクとなる可能性も残る。だから、棺桶に収まるまで、衣食住や介護を含むすべてを自己完結させなきゃならない。健康第一。これが合言葉になるんだろう。エンジニアとしては、人工知能(AI)やロボットといった現時点で不確実性たっぷりの要素が少しでも生活の助けになってくれるよう、社会やテクノロジーの進歩に微力ながら貢献できればと思う。
なぜ子どもが減るのか
上の記事では、出生率低下の原因として、以下のように述べている。
教育を受け仕事をする女性が増え、避妊がもっと簡単になったことで、女性がより少ない子ども数を選択するようになったのだ。
これが原因なら、待機児童の解消や学童の充実、父親の家事・育児参加の促進といった政策が功を奏すれば、出生率の低下に歯止めが掛かりそうなものである。ただし、これらは、「結婚+出産」を前提とした政策であって、その前提が崩れてしまえば成り立たない。いや、「しまえば」と言うか、すでに崩れていると感じる。少なくとも日本では、出生の入口となる「婚姻」の減少が、出生率の低下に大きく寄与していると思われる。
なぜ結婚するのか
じゃぁ、なぜ結婚というものが、こんなにも遠い存在となってしまったのか? 将来の花嫁・花婿候補を3人抱える身としては、少なからず心配になってしまう。
「婚活」という言葉を生み出した山田昌弘さんによれば、伝統社会が崩壊した近代社会においては、自分を手放しで承認してくれる親しい人間関係が「家族」にしか期待できなくなったため、結婚への希望が高止まりしているらしい。SNSが発達した現代社会に照らして極論してみると、SNSを通じて不特定多数に承認されるか、結婚を通じて唯一無二のパートナーに承認されるか、そのどちらかにしか希望が見出せなくなっているようにも感じる。ネットや SNS がなければ、結婚に対する希望はもっと高くなっていたのかもしれない。
一方、人生の終焉に目を向けてみると、特に女性にその傾向が強いようにも感じるが、人生の最後は、「心休まるパートナーと一緒に安らかに眠りたい」という願望も現実にある。
つまり、結婚生活は、承認欲求を満たそうとする「入口」と、2人で手をつないで旅立とうとする「出口」において、相変わらず相当な需要があることになる。自分に置き換えてみても、HSP(Highly Sensitive Person)の気が強くて他者と交わりにくい分、結婚によって伴侶や子どもを得たことは、奇妙ともいえる安心感になっている。また、死を見据えてみれば、その瞬間にパートナーが横にいてくれるだろうという期待が、今この瞬間の実存の支えになっているような気もする(どちらが先に旅立つかは神のみぞ知る、だけどね)。
長い長い結婚生活
ただし、この入口から出口までの時間が、ものすごく長い。とてつもなく長い。しかも、家事・育児・性生活・お金・介護という「5大衝突要因(ボクの勝手な定義)」が、この長い長い結婚生活に詰め込まれている。さらに、これも SNS の発達と大いに関連すると思うのだが、少し前であればベッキーさん、最近であれば渡部建さんのように、「不倫」という困難も結婚生活の大きなリスクとなってきている。最近では、「むしろ、不倫しない人はなぜしないのか」と疑問を投げかけたフェミニストもいるぐらいだ。
このような要因を、自分の両親を通じて体験したり、メディアなどを通じて学習したりする環境まで整ってしまった結果、結婚の前には高いハードルがそびえ立つことになり、そのように結婚生活を不幸なものにする要因を取り除くべく、婚活市場が活況を呈しているのが今の状況だろう。家事・育児の分担、セックスの有無、収入、親の介護、不倫の可能性など、結婚前に確認すべき項目が増え続ける一方だ。
承認欲求と予定調和
「心休まるパートナーとともに永遠の眠りに就く」という出口の願望はさておき、「不倫しない人はなぜしないのか」という疑問は、結婚というものに承認欲求のはけ口を求め過ぎのように思えるし、結婚の条件がますます厳しくなるのは、結婚というものに「予定調和」を求め過ぎのように、ボクには思える。
濃淡はあれど、誰だって人に認められたい。その欲求が結婚で満たされなければ、SNSにそのはけ口が求められるかもしれないし、不倫相手にはけ口が求められるかもしれない。けれど、SNSなどとは異なり、結婚生活は2人で築いていかなくてはならないから、その関係を壊したくなければ、2人で承認し合うしか方法がない。一方がひたすら承認し続ける関係もあり得るだろうが、かなり特殊なケースだ。ふつうは、承認「する」量と「される」量が釣り合わないと成り立たない、ものすごく難しい関係性だ。
また、社会のありとあらゆる場面で過剰なまでに安全・安心が追及され、最後の大きな混乱である太平洋戦争から75年が経過して、さまざまな困難を伴いながらも平和に暮らし続けられる期間が3~4世代目に差し掛かろうとしている現在、その混乱のない「平凡ながら平和な毎日」が永遠に続くかのような錯覚は、ボクらの意識の根底にまで達してしまっている。こうなると、人生の大事業である結婚の前に、予定調和的にあらゆるリスクを取り除こうとするのは、至極当然な流れだ。
結局、承認欲求と予定調和のどちらか一方でも満たされないのなら、結婚なんて踏み込む価値のない無駄な行為なんだ。と、多くの人が思えば思うほど、婚姻というものの「損得」が「損」の方に大きく傾き、その意識が広まって、よほどの勝ち組になれないのなら回避する方が無難、という人生の一選択肢に過ぎなくなるわけだ。
承認しながら冒険する結婚
逆に考えると、ほんの1%でも「相手に承認される」ことより「相手を承認する」ことに喜びを感じられるのなら、そして、予定"不"調和を楽しめるマインドを持っているのなら、結婚というのは、長い長い時間を掛け、やがて死を迎える時に相手にとって唯一無二の存在となり、手を取り合って笑顔で旅立つまでの、果てしなくも楽しい冒険になり得る。少なくともボクは、そうなることを願って、長い長い結婚生活の一瞬一瞬を大切に思っている。
そんなボクは、不倫をしたことがないし、今後もその予定はない。「予定」と書いたのは、不倫するかしないかというそのこと自体を、自らの理性でコントロールできる人間でありたいと思うからだ。不倫という「自由」とは別の所で、自分の心を自由に解き放つことができるなら、十分に理性でコントロールできると確信している。
- 家庭を壊したくない
- 家族を悲しませたくない
- 子どもの希望になりたい
- 両親も義両親も、していない(はず)
- そもそも忙しくて時間がない
そもそもが不倫できる器量を持ち合わせていないってのもあるけど、仕事やプライベートで異性と出会う機会も少なからずあるので、間違いは起こり得る。ただ、状況的に可能となったところで、気持ちは揺るがない自信がある。ボクは、結婚した時、無職だった。そんなボクを選んでくれたパートナーを裏切るわけにはいかない。結婚を許してくれた義両親の愛を踏みにじるわけにはいかない。
いろんな理由があるけれど、ボクにとって結婚生活は、1%でも多く相手を承認しながら果てしなく続く冒険なのだ。否応なく襲い掛かる「5大衝突要因」をかいくぐりながら、やがて一方あるいは同時に迎える「死」という出口に向かって延々と続く冒険なのだ。どこまでも続く細い一本道の両側には、奈落への口が常に大きく開いている。だから面白い。そうやって「冒険」と定義することで、自分がすごく大きな事業を成し遂げようとしている気になれるし、自分を鼓舞できる。パートナーは、そんな事業に付き合っているつもりもないだろうけど、それが迷惑にならず、結果的に満足してもらえるなら、悪くないかな、と思う。
冒険を完遂した後にだけ見える景色を、いつかこの目で確かめてみたい。両親は、すでに冒険を完遂している。義両親も、ほぼ確実に成し遂げることになるだろう。
子どもはボクたちの背中を見ている。その子どもらが、「承認される」側よりも「承認する」側に少しだけ重心を移し、予定調和を脱して冒険する方が楽しいに決まってる、ということを感じ取ってくれたなら、ちょっと嬉しいかもしれない。
こうしてボクは結婚し、し続ける
「なぜ結婚したのか?」と問われたら、「両親と同じような冒険をしてみたかった」と答えるだろうし、「なぜ不倫しないのか?」と問われたら、「より困難な冒険の方が楽しいから」と答えるだろう。たぶん不倫していないだろうパートナーは、どう答えるんだろう。知らない。
不倫する/しないは個人の自由選択だから、他人がとやかく口出しすることではない。そこは本当に、個人の自由だと思う。ただ、人間が決まり事として定めたに過ぎない「婚姻」という制度が、世界中でそれなりに長く支持されていることを考えると、そこには、承認欲求や予定調和といった人間の根源的な部分に対して忍耐でもって対峙することに、人類の夢や理想や希望が詰まっているような気がしてならないんだよね。
結婚当初は不安が脳ミソの100%を占めていたボクなのに、わずか十数年でこのように生意気な文章が書ける程度には忍耐と自信を深め、それなりに成長できたと思えるのは、人類の夢や理想や希望を自分なりに内面化した上で冒険を開始できたからだろう。そこは、両親や義両親が模範解答として存在してくれていたことが大きい。だから自分自身も、子どもたちに対してその程度の模範解答にはならなくちゃ、という気概はある。
予定調和を満たして失敗を少なくしようと思うからこそ、一部の先進国では、婚前の同棲期間が長くなり、初婚年齢と第一子出生時年齢が逆転する現象が起こっている。日本もそうなっていくのだろうが、その後の長い長い結婚生活では、試行期間には考えもしなかった問題が多発する。ならばいっそのこと、両者の冒険心がある程度一致するのなら、さっさと冒険を始めてしまうのも1つの手だと思う。少し大袈裟に言えば、結婚は、現代に残された数少ない冒険の1つだ。
これは別に、少子化が止まって人口が増えて株価が永遠に値上がりして欲しい、と思って書いているわけではない。今のボクは、冒険そのものが楽しくて仕方ないのだ。結婚当初は、恐る恐る冒険の一歩を踏み出した。その後は、冒険を続けることを目標に、つまり、冒険のための冒険を必死になって進めていたように、いま振り返って思う。それが今は、冒険そのものを楽しめている。次はどんな難関が待ち受けているのだろう、と考えてほんの少しワクワクしている自分に驚くこともある。今後の目標は、「冒険」という意識すら持たなくなり、やがて訪れる出口に向かって、自然と心を重ね合わせられるようになること。
最近のメディアには刺激しか求められないから、こんなボンヤリとした結婚生活が紹介されることもないだろうね。ただ、ボクにとっては、長い年月を掛けて承認欲求や予定調和の壁を乗り越えていくことこそ、刺激的でエキサイティングで、心がヒリヒリする。結婚にそんな思いを持ってる人間もいるってことを伝えるために書いてみたかった。
あと、結婚生活にはお金が必要不可欠だから、男女を問わず、どうしても稼ぐ力を持つ方が優位になってしまうのが結婚の難しいところ。そこは、収入の多い方が優しさを発揮して承認欲求を満たす側に立ち、予定調和を打ち砕く冒険を主導すべきだと思う。その方が上手くいく。その逆パターンの方が多く感じられるのが、現実の残念なところ。
追記
ちなみに、結婚生活を円滑に運営する秘訣などは、2年前に書いたのを思い出した。