あるいは、炎上のきっかけとなる火種として、どこかのインフルエンサーが「大学なんか行く必要ない!」「大卒なんてクソ喰らえ!」と吠え立てれば、それに呼応して大学要/不要論が盛り上がり・・・ということが何度も何度も繰り返されるけれど、それに対する明確な答えは得られない。
というか、明確な答えなどない。大学に行く必要があるかどうかは、一部の職業や資格などを除いて、「大学に行く必要があったかどうか」という結果論でしかないから、大学に入る前にその答えが分かるはずもない。
というか、結果論としても、明確な答えが得られるかどうかは怪しい。「もし大卒なら・・・」「もし大卒じゃなかったら・・・」という if 文は、人生におけるその他多くの if 文の1つに過ぎないから、それ1つで人生がどうこうなるものでもないだろう。
大学に行くか、行かないか
唯一答えがあるとするなら、「中卒」や「高卒」という肩書は、困難はあれど人生のどこかで「大卒」「院卒」という肩書に変えられるのに対して、「大卒」や「院卒」という肩書は、「中卒」「高卒」という肩書に戻り得ない不可逆的なもの、という認識ぐらいだろう。
あとは、「大学に行く」「大学に行かない」と決めた時点で、その後たどることになる如何なる人生の道程をも自らの運命として受け止める覚悟を決めるしかないと思う。その分岐時点の年齢で覚悟を決めるのは難しいことだろうから、その点についてのみ、年長者が何らかの助言をしてやるしかない。
もちろん、100%完全な実力社会は別として、この一般社会における就職や昇進などを考えれば、「大卒」という肩書を持っていて損はないし、社会人生活を通して大卒や学歴などの壁を多くの人が感じているからこそ、疑問を多少抱きつつも我が子には「大卒」の称号を与えようとするパターンになる。
社会全体をそういう「システム」と捉えるなら、大学に行くことは、ある意味そういう窮屈なシステムに取り込まれて自由を奪われることなのかもしれない。
「大卒」は結果論
もし、大学時代の同級生と話をしていて、「大学なんか行く必要ない!」と言われようものなら、「ということは、今こうして会話している我々の関係も不要なわけね」と、少し寂しい気持ちにはなる。
大学に行くかどうかは、その程度に「結果論」的な問題だと思うから、「大学に行くな!」と言う人達を見るにつけ、「大学生活は楽しい時間じゃなかったのかな」とか、「大卒の結果としての現在に不満があるのかな」と思えてしまう。だから、単に「無いものねだり」をしているようにしか見えない。あるいは、火種か。
ほぼほぼ結果論でしかない進学の問題を声高に「行くな!」と叫ぶ人達が学生時代に出会った友人や恋人や伴侶たちは、そのシュプレヒコールをどのように受け止めれば良いのだろう、と個人的には少し不安な気持ちになる。
上にも書いたように、大学に行くことは、「学歴社会」というシステムに順応するための選択肢なのかもしれないけれど、もしそうなら、「行くな!」論の人たちは、一度失った自由を再度獲得しようとする点で実に「岡本太郎」的であり、味わいとしては悪くない。むしろ味わい深い。
だから、「行くな!」ではなく「システムに囚われずに生きるんだ!」という(自分に向けた)宣言だったなら、それは実に爽快なんだけど、やはり字面が「行くな!」という他人への結果論の押し付けである以上、それはあまり味わい深くない。いやいや、ぜんぜん味わい深くない。
大学不要論者の属性
そのように「大学なんか行くな!」と声高に吠え立てる人の属性はどんなものだろう。すべてが当てはまるわけじゃないけど、おおよその傾向はこんな感じだろうか。
- 大卒(特に、文系)
- 属人的な仕事をナリワイとしている
- 仕事である程度の成功を収めている
大卒(特に、文系)
そもそも、中卒や高卒の人が「大学なんて・・・」と言うことはあまりなく、そう言う人は決まって大卒だ。大卒じゃないのに「大学なんて・・・!」と叫んだところで、「行ってないのに何が分かる?」と反論されたら苦しいし、明確な根拠でもなければ、単なる僻みとして一蹴されてしまう。
ところで、「大学なんて!」と叫ぶ人が大卒の場合、それは大卒の結果として叫んでいるわけだから、結局のところは「結果論」でしかなく、大いなる矛盾を孕んでいる。
また、ボク自身が理系だからかもしれないが、理系出身の人は、「大学に行くな!」なんて、あまり言わないと思う。というか、言えないと思う。
どんな研究分野であれ、個人ではとても買えないような装置や実験器具、高性能なコンピュータなどを使わせてもらって、それらを駆使しなければ結果が出ないような研究をするわけだから、よほどイヤな思い出でもない限り、「大学」というハコモノに感謝しこそすれ、とても「行くな!」とは言えなくなる。
とは言え、分野にも依るだろうが、文系でも少なからぬ研究費用が必要になるわけだから、そういった恩恵を享受した事実は否定しようがない。
属人的な仕事をナリワイとする人
これには2つの意味合いがある。
まず、属人的な仕事を生業にしている人は、属する組織の名称ではなく(或いはフリーの個人として)、その個人の名称がアイデンティティとなり、ある意味アイドルのような位置付けである。
その個人が持つ能力や技術に依拠する部分が大きいため、必ずしも社会や組織の歯車である必要がなく、上に書いたような「社会システム」の一部である必要もないから、そのようなシステムへの順応期間たる大学生活も不要物に思えてくるのだろう。
もう1つは、個人の名称がアイデンティティとなり、SNS などを通じて有名になればなるほど、それをフォローするインフルエンシーの人数も増えていく点が挙げられる。その結果として、発する声が遠くまで届くようになる。
このような条件がそろわなければ、「大学に行くな!」という声が誰かの呼応を誘うことなどない。たとえば、このブログでいくら「大学に行くな!」と声高に叫んでみたところで、誰も見向きもしないだろう。
仕事である程度の成功を収めた人
これは、上に書いたこととも関連しており、主に属人的な仕事である程度の成功を収めると、SNS などを通じてその名が容易に知られるようになるため、衆人の注目を集めやすくなる。その結果は上と同じく、発する声が遠くまで届くようになって、それに対する誰かの呼応を誘うようになる。
そもそも、仕事で成功していない人が「大学に行くな!」と言ったところで、「いや、もっと成功しないよ」とツッコまれかねない。
そう考えると、「大学に行くな!」という叫声は、仕事である程度の成功を収めた人の特権でもあるわけで、結局のところは単純な結果論でしかないか、あるいは、大学に行く能力があったからこそ仕事でも成功を収めることができたのかもしれず、やはり大いなる矛盾を孕んでいそうである。
「大学なんか行くな!」というアイドル
以上から想像するに、「大学に行くな!」と言うのは、(組織に属しているか否かに関わらず)属人的な仕事である程度の成功を収めた人が多いのではないかと思われる。
より単純化すれば、「結果的に成功したアイドル」と言える。しかも、その「結果」は、大学を出たことで得られた「結果」である可能性が低くない。大学を出た事実と、大学を出たとは思えない「アイドル性」とのギャップがもたらした「結果」である可能性も低くない。
そして、その「結果的に成功したアイドル」が矛盾含みで発するシュプレヒコールを真に受けて、ボクらのような一般人が同じように成功を収められる可能性は、高くない。
なんてったって「アイドル」だからさ。
・・・なので、大卒で「大学行くな!」と言ってる人は、少なくともまずは「大卒」という肩書を外してから声を大にして欲しい。上にも書いたように、それは不可逆的な行為だから、土台無理な話なんだけどね。
自分だけ知識や教養を身に付けたり、受験を通して「勉強や努力できる能力」を身に付けたり発見したりできたアイドルが、それらがベースとなって「アイドル」という立場に立てている可能性が高いアイドルたちが、その立場である程度メシを食えているアイドルたちが、後付けで「大学行くな!」と言うのは、ただただズルイことにしか見えない。
安室奈美恵さんは、「沖縄アクターズスクール(芸能養成スクール)なんかに行くな!」などと言わないよね。たぶん。
あとがき
少し視点を変えると、大学というのは、「自分」というキャラクタ以外の鎧(知識、教養など)を探し求めるために通う場所とも言える。「アイドル」は、属人的であるが故に、「自分」というキャラクタを表に出さざるを得ない。
一方、大学に行って知識や教養、技術などを身に付けた上で、どこかの組織に属すれば、「自分」というキャラクタを無闇に消耗することなく、刺激は少ないかもしれないけれど、平穏で安寧な人生を送れる可能性は高くなる(別に、サラリーマンを擁護するわけじゃないし、ブラック企業なんて論外だけど)。
キャラクタには賞味期限があるけど、知識や技術は、更新し続ければ枯渇することがない。
ボク自身は、大学でほとんど勉強せず、海上スポーツにのめり込んで、その後の社会システムに順応する準備を完全に怠っていたけど、全国にも出られるほど楽しめたから、特に大卒を否定する要素がない。だから、モラトリアム的ではあるけれど、「悩むなら大学行っとけ!」としか言えない。
大事なのは結果論ではなく、結果を受け入れる覚悟があるかどうか、でしょ。