かつてサラリーマンとして何年も働く中で、月 150 時間の残業(しかも、サービス!)を続けた経験から、サラリーマンの悲哀や辛さは理解しているつもりです。
サラリーマンの歴史 : 100 年で「オワコン」化
江戸時代までは、商品の生産から販売までを家内かつ手作業で手掛ける「家内制手工業」が主流でしたが、「西欧に追い付け追い越せ」の明治・大正以降は、資本家が労働者を工場などに集めて、分業による協業を行う「工場制手工業」が盛んになりました。
その後、機械化の進展とともに「工場制機械工業」が広まるわけですが、特に大正時代以降は、主に男性がサラリーマンとして通勤し、月給をもらうようになりました。
つまり、日本のサラリーマンの歴史は、100 年前後にも及ぶわけです。逆に考えると、せいぜい 100 年程度の蓄積しかない、とも言えます。
年配の人に話を聞くと、高度成長期のころは、仕事は大変だけれど毎月のように給料が増え、全額支給が基本の残業代が生活を潤し、会社のお金で大きな仕事をやりたい放題だったから、サラリーマンとして会社に貢献すること以外は考えられなかった、と言います。
そんな会社丸抱えの「花形サラリーマン」像が怪しくなってきたのは、バブル崩壊後に経済成長が停滞する中、無理に利益をあげようとする「ブラック企業」が増えてきたこと以外にも、自由な生き方を求める風潮など、いろんな理由がありますね。
そして今や、サラリーマンは「オワコン」の代名詞となりつつあります。
「脱社畜」コンテンツの登場
「サラリーマン」というコンテンツの終焉が見えてくると、 その次には当然のごとく、「脱社畜」というコンテンツが登場するわけです。
「サラリーマン」という終わりかけのコンテンツから、如何にして足を洗い、フリーランサーなどとしてやっていく心得を指南してくれる有り難いコンテンツです。
コンテンツ提供者にとっては、お金を集める1つの手段に過ぎないものが、オワコンからの脱却を真剣に模索する人々にとっては、きら星のごとく輝く「救いのコンテンツ」にしか見えなくなります。
想像になりますが、大正時代にサラリーマンが一般的になり始めたころにも、「農家オワコン」「個人事業オワコン」「家内制手工業オワコン」という喧伝とともに、「脱農家」「脱個人事業」「脱家内制手工業」というコンテンツが存在していたんでしょう。
雇用のミスマッチが顕在化
一方で、内閣府の発表によれば、以下のように雇用のミスマッチが顕在化してきています。
現状のミスマッチについて、ハローワークの職業別の有効求人数と有効求職者数の差をみると、介護や飲食関連職での有効求人数が大幅に超過となる一方で、一般事務の職業は大幅に有効求職者数が超過となっているなど、職業別のミスマッチが生じている。民間の職業紹介の職業別の求人倍率では、インターネット専門職やシステムエンジニアなどの専門人材が求人超過となる一方で、ハローワークと同様に、オフィスワーク事務職が求職超過となっている。
内閣府「マンスリー・トピックス(最近の経済指標の背景解説)」より
より単純化すれば、事務職は減っているのに、ネットや SE 関連の比較的高賃金な仕事は高度すぎるし、介護や飲食関連の仕事は、働きに見合うだけの賃金が得られず、「普通の人が普通に稼げる仕事がなくなってきている」ということになります。
つまり、「給料が高い高度な仕事(知識労働)」と「給料が低い肉体労働」の二極化が急速に進んでいると考えられます。
これは世界的な潮流で、一億総中流を奇跡的に実現したこの国でも、その潮流から逃れるのが難しいことを端的に表しています。
「脱社畜」論の危うさ :「運」と「能力」で決まる賭け
さて、このような背景の下で「脱社畜」論を考えてみましょう。
現時点で高給を得ているサラリーマンは、高度な仕事をこなしている可能性が高いわけです。高度な仕事をこなせる理由は、学歴や地位、運の影響もあるでしょうが、ボクは「1言えば 10 分かる」能力が一番大きく影響すると、いろんな職場・人材を見てきて感じます。その能力は、仕事を回すこと自体にも非常に有効ですし、上司の覚えめでたくなる可能性も高いからです。そういう能力が元々備わっているからこそ、それなりに高い学歴や地位も手に入れられたんじゃないかと思います。
そして、そのような能力を持つ人は、サラリーマンを辞めて独立しても、成功して高い収益を上げられる可能性が高いでしょう。そのあたりのことは、こちらの過去記事で触れています。
一方で、これも経験から、個人事業やフリーランスでは、おこづかい程度には誰でも稼げるものの、それだけで生計を立てるのは難しく、サラリーマン以上に「普通の人が普通に稼ぐ」ことが困難な働き方だと考えます。
ということは、高給を得ているわけでもないサラリーマンが、脱社畜して個人事業やフリーランスで生計を立てていける確率は、実はかなり低いんじゃないでしょうかね。「脱社畜」という選択肢は、かなり危険な賭けである可能性が高いわけです。
「脱社畜」を叫ぶ人たち
一概には言えませんが、「脱社畜」を声高に叫ぶ人たちの経歴を見てみると、起業家やフリーランサーとしては非常に優秀かもしれませんが、サラリーマンの経験がほとんどなかったり、経験があっても「プロサラリーマン」的なかなりの高給取りであったり、そんなケースが散見されます。
そういう方々が起業家やフリーランサーとしてたくさん稼げている理由は、その方々は「実力」と仰るでしょうが、ボク自身は「運」でしかないと思っています。具体的に言えば、「努力できる才能を持っている運」「行動に移せる才能を持っている運」「運を引き寄せる才能を持っている運」「余裕を持てる運」ということになります。
残念ながら、ボクらのような一般人がほとんど持ち合わせていない「運」です。
そのような「運」や「能力」を持ち合わせている人たちが、結果論でしかない自身の成功体験に基づいて、大したサラリーマン経験もないのに「サラリーマンはオワコン」や「脱社畜」を声高に叫ぶのを見るにつけ、何とも言えない危うさを感じます。
「脱社畜」という選択肢は、「運」と「能力」の保持具合で結果が大きく変わるかなり危険な賭けでしかありません。
「サラリーマン」は終わらない
マルクスが言うように、「資本家」と「労働者」という生産関係があってこそ、資本家は資本家として、労働者は労働者として存続することができるわけですから、資本主義である以上、この世から賃労働者がいなくなることはありません。
それに、個人事業主やフリーランサーがいくら「自由」を喧伝しようとも、所詮は傍流のちっぽけな仕事しかできないわけですが、サラリーマンであれば、数十億、数百億の大きな仕事を動かせる醍醐味もあります。
今は「脱社畜」が主流となりつつありますが、時代は必ず巡りますから、100 年前と同様に、「脱個人事業」「脱フリーランサー」がカッコよく聞こえる時代がくるかもしれません。
また、人工知能(AI)技術などが進んでルーチン的な仕事がどんどん人間から奪われていくと、それに応じてサラリーマンからフリーへと転向せざるを得ない人も増え、フリーランサー人口が徐々に増えていくことはほぼ間違いないでしょうが、そういう時代には、サラリーマンであることが逆にものすごいステータスになる可能性だってあるわけです。
というわけで、「サラリーマン」というコンテンツは終わりません。尊い働き方です。
資本主義が進めばエリート層とそれ以外とに分かれるのは必然なんでしょうが、エリート層の方々には、「エリートになる実力を持っていたことすら運でしかない」ということをしっかりと自覚してもらいたいところです。そうしないと世界は上手く回りませんからね。
これからの本当のオワコンは、「エリートになる実力すら運でしかないのに、その地位を利用して弱者からお金を集めること」でしょう。
さいごに
夢のない話をたくさん書いてしまいました。
夢を見るのは自由ですが、「運」や「能力」を持っている人の手のひらの上で夢を見るのは控え目にしましょう、ということを言いたかっただけです。