敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

フリーランスを始めた十数年前の自分に言っておきたいこと|希望と後悔

 

フリーランス 適性 タイプ 種類

 

 

21世紀の初頭、フリーランス人生を開始したボクは、迷える子羊でもあり、陸地の見えない大海原をフラフラと漂う泥船でもあったわけだけど、あれから十数年が経過して、ようやく親羊かゴムボートぐらいになれた立場から、当時の自分に言っておきたいことを書いてみる。相変わらず、はっきりした陸地は見えそうにないけれど。

 

仕事について

フリーランスを名乗ってから実際にまともな仕事を受けるようになるまで、半年以上かかったよ。その間、明日にも貯金が底をつくかもしれない恐怖と闘い続けることになる。「フリーランス」の看板を降ろそうか迷った回数も数知れず。「明日には依頼の連絡がある」と希望を抱いた翌日、メシも食わずに、沈黙を貫く電話やメーラーを見つめ続けた日々もある。そこは覚悟が必要と、今なら簡単に言えるけど、実際にそんな日々を送るオマエには、覚悟することに何の意味があるのかすらよく分からないはずだ。

 

フリーランスを名乗る前にはあんなにも憎んでいた仕事というものを、ただただ欲しいと思っているんだろ? そんなにも仕事を渇望している自分自身に、戸惑いすら感じているだろう。

 

日を追うごとに、嬉々として仕事に勤しむ夢を見る回数が増えていくものの、それは、目覚めて残酷な現実に引き戻される回数が増えることでもあり、精神のバランスを取るのがだんだんと難しくなる。自分に欠けているものが何なのか、もう分からなくなってくる。「自由」が欲しかったわけではなく、組織の在り方に疑問を感じて漕ぎ出た大海原だったけど、濃い霧が立ち込める海上には何の手掛かりもなくて、ただ「後悔」の2文字が頭をよぎる。

 

「今日と同じ明日は来る」という希望と、「今日と同じ明日が来る」という絶望とを繰り返すうちに、マウスを持つ手が震え、茶わんや箸を持つ手が震え、それで「希望 < 絶望」となりつつある現状を自覚できるはずなんだけど、そんなことにも気付けないぐらい、完全に自分を見失っているよね。

 

それでも、パートナーに弱気を見せていないのはエライエライ。ただし、パートナーは呑気さんだから、自分の恐怖と対峙するのは自分しかいないと思っておこう。そんなパートナーの呑気が、いつか心の拠り所になる日が来るから、その日を楽しみに待てばよい。仕事に恵まれない苦しさをパートナーにぶつけなかったのは大正解だ。フリーランサーとしてやっていく以上、パートナーは大切な戦友だから、そのパートナーとの関係を良好に維持しておくことは、フリーランサー人生に大きく影響するだろう。そのうち、ジワジワと分かってくる。

 

精神のバランスが崩れると、自身の活動を客観的に見られなくなってくる。レジュメ(職務経歴書)の書式または中身に問題があるのか? トライアルの回答に問題があるのか? 先方とのやり取りに問題があるのか? エンジニアとしての設計感覚に問題があるのか? はたまた容姿に問題があるのか? などなど、あらぬ方向へと想像が膨らんでしまう。

 

でも、今だから言えることだけど、人と人との出会いが運でしかないように、フリーランサーとクライアントとの出会いも、ほとんど運でしかないんだ。その証拠に、初めて仕事の依頼を受けたクライアントとの出会いから程なく、次々に5社ほどのクライアントとの付き合いが始まり、それが今も綿々と続いている。特に何かを変えたわけではないから、見かねたフリーの神様が出会いの回路を少しだけイジってくれたんだと思うよ。

 

だから、結果論といえば結果論なんだけど、自分のエンジニアとしての矜持や感覚を大切にしながら、目の前のことにコツコツ取り組めばよい。それが報われるかどうかは、「成功か失敗か」ということではなく、自分という存在そのものがフリー向きだったかそうじゃなかったか、というだけのことだから、それも淡々と受け入れればよい。

 

その結果は、ほぼほぼ運でしかないから、その結果をさも自分の実力であるかのように喧伝して振る舞うのは大間違い。フリーの神様と、クライアントと、自由な生き方を間接的に支えてくれている取引先の社長や社員さんたちと、妙にポジティブシンキングなマインドを植え付けてくれた両親と、心の拠り所を提供してくれているパートナーと、心の安らぎを提供してくれている子どもたちに感謝しつつ、目の前のことにコツコツ取り組むことを忘れてしまっては、その瞬間に「自由」はなくなると思うよ。

 

お金について

「金は天下の回り物」と思うしかない。

 

フリーランサーとクライアントとの出会いが運ならば、仕事の結果としての報酬が得られるかどうかも運でしかない。自分でコントロールするものと思いがちだが、実際には、天下を巡る周回コースに自分自身が含まれているかどうか、という程度の運でしかない。その周回半径が小さいか大きいかも、やはり運でしかない。

 

明日食べていくためのお金にも汲々しているオマエには信じられないかもしれないが、十数年後のオマエは、わずかばかりではあるものの、稼いだお金をいろんなところに寄付しているよ。よかったな。

 

周回コースに含まれるかどうかでいつもビクビクしていた立場だからこそ、少しでも余裕ができたなら、周回コースを増やす側に回るのは、当たり前といえば当たり前だよね。

 

いつかまた、明日食べていくお金に汲々することになるだろうけど、フリーランスという働き方は、そんなものだ。その時にはまた、「金は天下の回り物」と思っておけばよい。きっと、どこかの誰かが周回コースを増やしておいてくれるだろうさ。

 

生活について

自由が欲しくてフリーランスになったわけじゃないんだろうけど、理由はどうあれ、フリーランスというのは、とにかく自由だ。「仕事がない」という状況すら、自分で選択した結果としての自由だ。今は、その自由に苦しんでいることだろうけど、仕事にありついたらありついたで、今度は別の自由に翻弄されることになる。

 

通勤のない自由、人間関係のストレスがない自由、社内評価されない自由というのは、字面だけ眺めていると理想郷のように思える自由だが、それらは容易に身体を蝕み、アイデンティティを崩壊させ、廃人街道だけが目の前に真っ直ぐ延びた状況を作り出す。

 

こればっかりは、実際にそのような環境に身を置いてみないと、実感として理解できないと思うが、人間は、ある程度のストレスを受けてはじめて「快適」と感じる生き物だから、完全な自由を獲得した瞬間に心が「無反応」となって、獲得したはずの自由に押しつぶされることになる。

 

自由は怖いぞ。マジで怖いぞ。

 

人間は生まれた瞬間に、人類が築き上げてきた「システム」に取り込まれる形で自由を失う。安全・安心を究極の目的とするシステムに取り込まれて病気や死の恐怖から解放されるために、自由を手放すのだ。やがて就学したら、動物から人間への本格的な脱皮が始まり、大人が用意した様々なプログラムの下でせかせかと忙しく動き回る。就職しても基本は同じで、先人が築き上げたシステムに乗っかって日々をやり過ごす。時代が下れば下るほど、システムの積み重ねが厚くなり、その分ますます自由から遠ざかる。

 

そうやって生きてきた人間が、フリーランスを選んだ瞬間に、すべての不自由から解放されるんだ。胎児のとき以来の自由だ。

 

四六時中、何をしていても誰にも咎められない。昼間に街をブラブラしていても、テレビや映画ばかり視ていても、ゲームばかりしていても、ネットの海に溺れていても、一日中飲んだくれていても、仕事の手を抜いても、仕事を適当にやっつけても、納期を忘れても、仕事を放り出しても、そんな自分を咎め、注意し、叱咤激励てくれる人は誰もいない。

 

「仕事がなくなる」という結論が待っているだけで、それをも受け入れてしまえるなら本当の「自由人」だろう。だけど、オマエにそんな勇気はないよね。ほとんどの人間は、「自由が欲しい」と叫びながらも、不自由の中で生きていくことを「あえて」選び取っている。オマエもそうだよね。

 

そんな勇気がないオマエを救ってくれるのは、パートナーだ。パートナーが与えてくれる物理的かつ精神的な制約が、オマエに適度な不自由をもたらしてくれる。

 

パートナーがオマエの顔色や体調をうかがいながら、起床や就寝を促してくれたり、健康的な食事や運動を促してくれたり、収入が足りないと葉っぱをかけてくれたり、そういった数々の関わりが物理的制約になる。呑気なパートナーがあまりにも呑気すぎて、オマエ自身が「しっかりせねば」と思えるようになるなら、それが精神的制約になる。そうやって、無限に拡がりかねない「自由」に蓋をしてくれる。

 

自由の恐怖を和らげてくれるパートナーが、いつか女神に見えてくるだろうさ。

 

子供について

これも、お金の工面に汲々しているオマエには想像もできないことだろうが、やがて3人の邪悪な天使がやってくる。

 

3人の天使は、心の安らぎを提供してくれるだけではなく、パートナー以上の物理的・精神的制約を与えてくれる。仕事が軌道に乗るにつれ、胎児以来の自由の恐怖におののき始めるころの絶妙のタイミングで「不自由」をもたらしてくれる。その不自由を享受しない手はないし、自ら不自由を取り込んで自由との均衡を探るのが丁度よい。

 

フリーランスという働き方は、時間効率を最大化しようとするモチベーションが自然と湧き起こる仕組みになっているから、その正反対に時間効率を最小化しようとする子どもの誕生というのは、最初のうちは強烈な葛藤やストレスとなってオマエに襲い掛かってくる。「なぜオレの仕事の邪魔ばかりするんだ」という悪態が思わず口をつく。

 

でも、そこは堪えどころだ。戦友でもあるパートナーとの関係をこじらせないためにも、フリーランサーとして一番の胆力が必要になる時期かもしれない。

 

一歩引いて考えてみるのが良い。時間効率を最大化しようとするモチベーションというのは、「生産性向上」という麻薬のようなものであり、仕事中毒の入り口でもあるんだ。子どもという存在は、時間効率を最小化しようとするモチベーションによって、仕事中毒から大人を救う存在とも言える。仕事に限らず、人間というのは、干渉がなければ何かに没頭し続け、中毒・依存へと陥る弱さを持っている。そういう弱さの淵から大人を現実世界に引き戻してくれるのが、子どもという存在なんだ、と思える日も来るさ。

 

問題は、結果的に自由を謳歌しているオマエに対して、成長とともに色んな不自由を身にまとい始める子どもたちが、どんな感情を持つか、ということ。子どもたちの自我の芽生えに前後して、「オレはこんなに自由でいいのか?」と悩むことになるだろう。

 

でも、長子が中3になり、子ども全員が就学した現時点での結論として、そんな悩みは杞憂に過ぎないと言い切れる。子どもは親の背中を見て大きくなるけれど、ある程度の年齢になったら自分の道を歩み始める。オマエの背中が自由を謳歌しているように見えるか、自由に押しつぶされそうになって見えるかは、子どもによっても異なるので何とも言えないが、少なくとも目の前のことにコツコツ取り組む姿勢だけは、子どもらの目にしっかり焼き付いていると思うよ。みんなコツコツ勉強してるからね。

 

フリーランサーが増えているとはいえ、今もって社会はサラリーマンが圧倒的多数だから、普通に育っていけばサラリーマンとして働くことになるんだろう。ただし、オマエと同じように、組織に対して違和感を覚える子も出てくる可能性は高いから、その時には、オマエのフリーランサーとしての経験を伝えてやればよい。何かの役に立つだろう。

 

 

 

未来について

組織に属したり属さなかったりしながら、航空機関連の開発、ハード/ソフト含めた技術的コンサルティングや技術動向の調査、プランニング、翻訳などの仕事に 10年以上携わってきたけれど、上陸すべき陸地はまだ見えない。ただ、自由の恐怖を感じたり、自由に押しつぶされそうになったり、自由を履き違えたりする嵐の時期は乗り越えて、胎児以来の自由との付き合い方は、何となく分かってきた気がする。

 

「自由」が欲しかったわけではなく、組織の中での自分の立ち位置が分からなくなって漕ぎ出た大海原だ。だから、「自由」は、目的ではなく手段に過ぎない。十数年経って手段が確立しつつある今、ようやく目的に向かって進むことができるのかもしれない。

 

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