敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

【吉本問題】1つの成功より「1つも失敗しないこと」が優先される社会

 

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振り込め詐欺グループなどの集まりに出席して金銭を受け取っていた「闇営業」問題について、7月20日(土)に当事者である雨上がり決死隊・宮迫博之さん、ロンドンブーツ1号2号・田村亮さんが謝罪(+クーデター)会見し、それを受けて翌21日(日)にダウンタウンの松本人志さんがワイドナショーでコメントし、それらを受けて翌22日(月)に吉本興業の岡本昭彦社長が会見を行う姿を、日本の片隅で眺めていた。

 

戦略的グダグダ会見

地を這うようだった宮迫さん・亮さんの評価が20日の謝罪会見で一気に裏返ったように、岡本社長も形勢逆転を狙って用意周到に会見に臨むとばかり思っていたところ、涙を流しながら明石家さんまさんや松本人志さんの名前を出すことで辛うじて自己の立場を守るのがやっとで、内容は終始グダグダになってしまい、かなり拍子抜けした。さんまさんや松本さんのお膳立て(「優しさ」)が、社長の覚悟を削ぐ形になってしまったのかな、とも思う。

 

いずれにしろ、事の発端となった宮迫さん・亮さんのウソを彼方へと吹き飛ばし、吉本興業社内の労働問題やパワハラ問題にすり替えることに見事成功しているのだから、もしこれが社長のシナリオ通りだとするなら、ある意味「名」経営者だ。グダグダ感を出せば出すほど、宮迫さん・亮さんの潔さが際立つため、すべてそういう戦略だったのではないかと思えてしまう。

 

今後の展望

岡本社長が会見で触れていた「コンプライアンス」「芸人ファースト」のうち、少なくとも「芸人ファースト」については、どん底だった宮迫さん・亮さんの評価が急上昇するとともに、その他の吉本芸人さんたちの笑いに対する真摯な態度や芸人さん同士の結束の強さなどが世間に垣間見える形となったため、結果的にある程度実現できてしまっている。

 

経営者がヒール役を演じてサンドバッグになることで、「商品」である芸人さんたちの商品価値はうなぎのぼりとなった。あとはコンプライアンスを整えて、その後に経営者が退場すれば一件落着、とまでスムーズに事が運ぶかどうかは分からないが、最終的にはそれで問題が下火となり、宮迫さん・亮さんも無事に復帰できるんじゃないかと思う。

 

「おっさん」の涙

もし復帰が叶ったなら、決死の覚悟で臨んだあの謝罪会見を、とにかく笑いに変えて欲しい。宮迫さん・亮さんが涙を流し、松本さんが涙目となり、岡本社長も涙を流すという光景は、ご本人たちには申し訳ないけれど、「内輪の浪花節」感が強すぎて、なかなか直視できない。関係者たる「おっさん」たちが3日連続で涙を見せながらメディアに登場する国なんて、日本以外にあるのだろうか?

 

良くも悪くも義理人情に厚いファミリー的企業であるが故の「涙」としても、おっさんたちが人前で惜しげもなく涙を見せるということは、それほどまでに追い詰められていたということなんだろうけど、そこまで追い詰めていた原因は何かと考えてみて、1つの成功よりも「1つも失敗しないこと」が優先されるこの国の風潮が、少なからず影響しているんじゃないかと思った。

 

「失敗」に対する考え方

日本のホテルでは、乾燥機の不具合で衣類がおかしくなったり、ATM の不具合でお金が出てこなくなったりしたら、従業員が平謝りするのが当然となっている。

 

でも、欧米のホテルなどを利用して同じようなことがあっても、従業員はどこ吹く風。もちろん対応はしてくれるけれど、基本的に、謝る作法なんてない。悪いのは乾燥機であり ATM であり、それらが与えた損害はお金で解決すればよい、と考える。

 

その根底には、「失敗は必ず起きるもの」という通念があり、人命の毀損や大損害に至るものでもないのなら、失敗してから考えれば十分、という大らかで合理的な考え方がある。だから、失敗しないために先回りし過ぎたり、心配し過ぎたりすることもない。

 

この考え方は、ビジネスや政治などにも共通しており、結果をあまり気にすることなく、まずは挑戦的に「やってみる」ことを1つの美徳と考える。失敗をおそれてウジウジするのではなく、100回失敗しようとも1回成功すればOKと考える(もちろん、失敗の程度にも依るし、失敗にそれなりの責任が伴うのは日本と同じ)。

 

「失敗」に対する圧力

日本でも、サントリーの DNA として有名な「やってみなはれ精神」は辛うじて残っているものの、社会全体としては、失われた 30年の影響もあってか、1つの成功よりも「1つも失敗しないこと」が優先される風潮が支配的となってきているように感じる。

 

今回の「闇営業」問題は、宮迫さん・亮さんのウソと、それを無かったことにしてしまいたい吉本興業の思惑が起点となって、あれよあれよという間に京都アニメーションの放火事件や参議院選挙よりも注目を集めるほどの大問題となってしまったわけだけど、これについても、会社側や芸人側が「失敗」に対する世間の圧力を忖度し過ぎた結果、思わぬ事態に進展していった分かりやすい例なんじゃないかと思う。

 

大きすぎる感情の起伏

宮迫さん・亮さんを擁護する理由は何もないのだけど、「反社会的組織から金銭を受け取った」という事実だけが独り歩きし、これほどまでに大きな問題に発展した経緯を眺めていて、「それほど大騒ぎすることなのか?」という気持ちがずっとあった。

 

さすがに、反社会的組織と分かっていてあからさまにお金を受け取るとは思えないので、本当に分からなかったんだと思う。その関連企業が吉本主催のイベントのスポンサーになっていた、という予備知識も安心感を与えてしまった面はあると思う。億単位の収入がある人にとっての100万円は、ボクら庶民にとっての数千~1万円程度の価値だと思うから、アルコールが入った状態では、微々たる金額に見えてしまわなくもない。反社会的組織のお金とはいえ、それで必ず誰かが潤うことになる。そのうちの2人が、今回の宮迫さん・亮さんだった。反社会的組織と興行会社との歴史的なつながりも根深い。

 

もちろん、反社会的組織と疑えなかった芸人としての「嗅覚」の乏しさみたいなものは、芸人としての素質に疑義を抱かせてしまうし、庶民との金銭感覚のずれも、それを放置していた本人や周囲の人々が適切にアドバイスできなかったものかと残念でならないが、とは言え、いろんな背景を考えてみると、今回の問題は、起死回生不可能なレベルの重大な「失敗」ではなく、「100回の失敗のうちの1回」程度の「勇み足」レベルなんじゃないかと思えてくる。

 

これに対して、問題発覚直後の世間のバッシングは、かなり辛辣であった。それでいて、7月20日(土)の両人の謝罪会見後の手のひら返しも半端なかった。「吉本興業」という新たなバッシング対象が現れたことも大きく寄与しているとは思うが、猫の目のようにコロコロと反応が変わる感情の起伏の大きさに、めまいを覚えることがある。3日連続でメディアに映った「おっさん」たちの涙も、そのめまいを大いに加速してくれた。

 

テレビやスマホの画面にへばりついて視ていたわけではないけれど、なんか疲れた。

 

 

 

あとがき

これほどまでに「失敗」に対する圧力が強く、些細な失敗も許されないのなら、何年も前の失敗が掘り起こされるたびに、今回のような問題が逐一起きることになる。

 

今回の「闇営業」問題は、5年前の2014年の出来事。島田紳助さんの電撃的な引退から3年ほどが経過し、反社会的勢力との付き合いに対するリスク管理も十分に強化されていただろうが、一方で「5年も前」という見方もできる。今や、時代の流れはどんどん速くなり、3年も経てば常識が変わる世の中だ。

 

この5年の間に日本では、反社会的勢力に対する考え方や「失敗」に対する不寛容さ、 SNS などを通じたバッシングの程度が少なからず進んでいると思うのだが、その5年前の出来事に火をつける行為に、どれほどの意味があるのかと考えてしまう。そんな考え方すら吹き飛ばしてしまうくらい、不寛容やバッシングが支配的になってきているのかな。

 

そのうち、20年以上前の「ダウンタウンのごっつええ感じ」も引き合いに出され、たとえば「キャシィ塚本」の暴力や食材の扱い方、「MR. BATER」の人種差別、「AHO AHO MAN」の下着汚れ、「おかんとマー君」の数々の「殺すぞっ!」発言、その他、コント中で見られる数々の暴力行為やセクハラ行為、セクハラ発言などもバッシング対象になるのだろうか? そうなった時には、今回涙を見せた松本人志さんの役回りを、誰がすることになるのだろうか?

 

失敗に対する不寛容やバッシングが度を過ぎれば、人々の関心は対象を求めて時間をどんどん遡ることになる。そのような社会では、未来よりも過去に向かう時間ベクトルの方が大きくなって、後ろ向きのダークな空気が社会全体を覆うことになるような気もする。そうやって延々と自分たちの首を絞め続ける国、かな?

 

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