
少子化や子育て、子を持つことに関する論争は永遠に終わることがないと思いますが、たまたま子を持って、たまたま突っ走ってこれた現時点の雑感を書いてみます。
フリーランス初期の猛烈な孤独感を何かで埋め合わせるかのように、子どもを授かりました。それよりも、楽しくて憧れだった家庭環境を再現してみたい気持ちが強かったようにも感じます。その気持ちがたまたまコスパを超えただけだと思います。あとは、たまたまパートナーが存在してくれただけです。全部たまたまです。
なので、出産・育児(その前提となる結婚)は、「する」を考えることに意味はなくて、せいぜい「した」という事実にしか意味はないと思っています。その「たまたま」という一線のこちら側とあちら側で意見を交えようとしても、やっぱりすれ違いが生じます。
同じ親に育てられたのに、兄弟姉妹の家庭は、離婚5秒前の状態が10年以上続くほぼ離散状態だったり、子どものゲーム障害&不登校に夫婦が疲弊しきっていたり、です(ボクら夫婦ももちろん、それなりに(いや、かなり)消耗しています)。
ある状態をどのように捉え、それに対して自分が近づこうとするのか遠ざかろうとするのかは、全く持って人それぞれだし、どうにもコントロールできるものじゃないと心から実感しています。人生そのものが、そうなんですよね。
ボクが知る限り、ひと言で表せる「生きる意味」ってのは存在しません。「生きる意味」がないとするなら、「生かす意味」も当然ありませんよね。てことは、子どもを産み育てる意味もありません。
でも、「生かす意味」なんてない、と言い切ってしまっては、社会が崩壊します。だから辛うじて、「生かす意味がない」だけが暴走しないように、「生かさない意味もない」ってことにしてあるんだと思います。
結局、「意味」なんて何にもないのかな、と思います。それでも悲しいかな人間は、時代が下れば下るほど、「合理的」な意味づけを求めるようになるみたいです。
ただ、人生についても、結婚・出産・育児についても、「する」ことに特に意味はないのに、人間は一生懸命「事前に」考えてしまうところが、ちょっともったいないなぁと思うばかりです。ボクも、そのもったいない人間の一人なんですけどね。
人工知能(AI)はいいですよね。意味を考えません(考えられません)。
さてさて、「生きる」も「生かす」も「生かさない」も特に意味がないとして、子どもを産み育てる意味もないとして、それでも人間だから意味づけしたくなってしまいますよね。そんな人間にせいぜい出来ることは、「生きた」「生かした」「産み育てた」に意味を付けることぐらいじゃないでしょうか。
たぶんそれらも、死ぬまで(死んでも?)意味が分からないんでしょうけど、「たまたま」という一線を越えるきっかけにはなるかなぁ、などと思う今日この頃です。
※ タイトルだけを眺めると、「女は産む機械!」「産めない人間は無価値!」といった戯言を放言するゾンビ政治家のように見えるかもしれませんが、その意図は毛頭ございませんので悪しからず。