敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「生きる意味」が分からない人こそ「子育て」できる世界になって欲しい

 

 

それほど深刻でもないけど、学生時代を中心に、若いころには「なぜ生きるのか?」というテーマがよく頭をよぎっていた。昼間は授業や体育会系の活動、遊びなどに没頭するものの、夜が更けて一人になると、同じ疑問が毎夜のごとく頭をもたげる。

 

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ニーチェとの出会い

そんなある日、実家でこちらの書籍を見つけ、

 

 

時代も文化も異なり、教養も無いなりに、この偉大な哲学者の著作を幾晩も読み耽った。「永劫回帰」という虚しくも勇ましい思想の下、生命を「燃える火」に例えるニーチェの数々の言葉は、生きることに虚無感を抱いていた心にグサグサと突き刺さった。

 

おかげで、彼の著作をひと通りすべて読むことになった。『この人を見よ』なんて、グサグサを通り越して狂気の域に達してしまっているけれど。

 

人間の理性を分解して緻密に積み上げていくカントや、哲学を含む諸学問の理論体系を壮大に構築しようとしたヘーゲルなどの哲学者と異なり、ニーチェは哲学者でありながら思想家として、人間の愚かな本質や日常生活の矛盾点を声高に指摘するため、その言葉は寸鉄となって人の心に突き刺さってくる。

 

だから、彼の理論を完全に理解していなくても、哲学の素人であっても、その熱すぎる言葉によって弱った心は鼓舞され、大地に忠実に「生きる意味」を与えられた気分になる。

 

「生きる意味」が分からない

とは言え、「なぜ生きるのか?」という疑問がすべて解消されるわけでもない。そもそも、この疑問が簡単に解消されてしまうなら、哲学という学問の半分は要らなくなるのではないかと思うから、哲学という学問が存在する以上、それは終わりのない問いかけなんだろう。

 

飲んだ勢いでその疑問をぶつけてみても、返ってくる答えは大抵、「生きる意味なんて特にない」「考えるだけ無駄」「楽しく生きればいい」といったもの。もちろん納得はできないけれど、かと言って反駁できるほどの理論も知識もないため、杯を重ねて自分の至らなさを仕舞い込む。

 

それでも、研究に没頭したり、就職して仕事に没頭したりしているうちに、「こうやって目の前の現実に情熱を注ぐことこそが、唯一の『生きる意味』なんじゃないか?」という思いでメモリが上書きされ、良くも悪くも、普段の生活を粛々と進めていくことになった。

 

ただし、若いころに考えたことは、上書きによってそう簡単に消え去ってしまうものでもなく、心の片隅をいつも陣取っていることは自覚していたため、それが亡霊となって復活することのないように、目の前に延びた道をただ黙々と歩み続けた。

 

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やがて、何とか結婚して、子宝にも恵まれた。亡霊と闘い続けるだけの自分が結婚して、父親にまでなれたことは、本当にただの偶然でしかない。

 

そうやって子どもを持つと、今度はその子どもが亡霊と闘うことになるかもしれないし、その場合は自分が後方支援してやらなければならないと思うから、もはや自分は亡霊と闘っている場合ではない。と思って亡霊を払い除けようとするのだが、亡霊はそう簡単に消え失せてくれるものでもない。仕方がないから、亡霊と共存して、自分を誤魔化しながら日々を過ごすことにした。

 

子育てが「生きる意味」になる

ただ、子育ての時間を重ねていくうちに、誤魔化す必要がなくなっていく感覚を徐々に抱くようになった。

 

こちら(↓)の記事でも触れたことだけど、

www.overthesensitivity.com

 

結局、「生きる意味」ってのは、爆発的な情熱を伴う「子どもらしさ」や、「自分探し」→「他人愛」という変遷の中にしかないんじゃないかと思う。言葉で書くのは簡単だけど、中途半端な妥協なく「子どもらしい情熱」でもって仕事や趣味に打ち込めることは、1つの大きな才能だと思うから、正しい信念を持って仕事や趣味に没頭できる人は心から尊敬するし、その反面、自分には無い才能だとも思う。

 

ただ、子育てしていて思うのは、「子育てって、亡霊と闘うのにもってこいなんじゃないか」ということ。

 

「生きる意味」が「子どもらしさ」や「他人愛」の中にあるとするなら、その「子どもらしさ」に日々接し、「他人愛」という(基本的に)見返りのない愛を求められる子育てには、「なぜ生きる」という亡霊を封じ込めるだけの大きな力があるように感じられる。

 

生物学においては、細胞分裂を極限まで繰り返して古くなった身体を更新するよりも、新しい種を残した方が効率的なので「子孫を残す」という考えがあるみたいだけど、異なる視点からは、哲学的な亡霊を封じ込める意味もあるんじゃないかと思ってみたりする。

 

「何に忙殺されるか」という問題

子育てに忙殺されている人生に、亡霊が入り込める隙間はほとんどない。

 

目の前の仕事や趣味に没頭できる才能を持っている人が、「好きなことだけやる」を合言葉に、仕事や趣味に忙殺されているのを見るにつけ、その才能に惚れ惚れすることも多々あるんだけど、よくよく考えてみると、子育てに忙殺される人生も、亡霊を封じ込めるという点では同じようなものだ。

 

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「生きる意味」が分からなくて日々を誤魔化しながら生きていても、子どもが生まれようものなら、「子どもらしさ」や「他人愛」が必然的に近寄ってきて、「生きる意味」が与えられた気分になる。

 

自分で没頭できるものを見つけられる人はそれで良いけれど、多くの人はそうでもないだろうから、子育てを通じて「生きる意味」を受動的に受け取ってみるのも、悪いもんじゃないと思う。だから、誰もが自由にそうなれる世の中になって欲しいものだ。

 

あとがき

ただし、常識を身にまとった大人から見て、子どもというのは凶器でもあり狂気でもあるから、それなりの覚悟を持って臨まないと痛い目に遭う。

 

また、あくまでも「無償の愛」であることに留意する必要がある。

 

自分はただ子どもと伴走して、「子どもらしさ」を思い出させてもらったり、「愛を注ぐ」甲斐性の快感を経験させてもらったり、その程度の存在でしかないことをしっかりと自覚しておきたい。

 

子育ての見返りを求めるようになると、間違いなく「毒親」に近づくと思うからさ。

 

 

子どもからなるべく遠くに離れた場所で、子どもに気付かれないように、ただ黙々と走り続けるのだ。そうやって走り続ければ、亡霊もやがて追い付けなくなるだろう。

 

 

 こ 

 

www.overthesensitivity.com

 

 

 

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