つい先日の記事『大人脳で考えても答えの見つからない「生きる意味」は子どもの中にある』では、思いがけずたくさんの「はてブ」を頂戴することになり、軽量級の脳ミソで「生きる意味」を考えることの難しさを実感しています。
そんな「はてブ」の余韻がまだ続く中、今度は違う角度から「生きる意味」を考えさせられる記事に出くわしてしまい、脳ミソから煙が出ています。山崎努 翁のこちらです。
疎開先で終戦を迎え、戦地から復員した父親の下へ駆けつける中、8歳の努少年の胸に去来した思いとは・・・
「途中でハタと気づいたのは、僕はいま演技してる、ということ。親父の帰還を子どもとして狂喜しなきゃいけない。それを親父にも周りの人にも見せているわけですね。俺は何と嘘つきで、ずるいやつなんだろうと、その時思ったものです」
アカデミー賞にノミネートされない「人生」という劇を演じる

のちの大俳優だからこそ8歳で去来した思いなんでしょうが、誰でもいつかは、何らかの形で迎える一線ではないでしょうか。
「泣く」演技、
「スネる」演技、
「良い子」の演技、
「愛している」演技、
「良くない子」の演技、
「良い成績をとる」演技、
「勉強が好き」という演技、
「誰とでも仲良くする」演技、
「自分はイケてる」という演技、
「一番を目指します」という演技、
「物分かりの良い友達」という演技、
「悲しい物語に共感してそうな」演技、
「唯一自分だけが君の味方」という演技、
「私が好きなのはアナタだけ」という演技、
「パワハラやセクハラに断固反対する」演技、
「この私が入りたいのは御社だけ」という演技、
「ただの納税に過ぎないのに『寄付』する」演技、
「互いに愛し敬い慰め助け永久に節操を守る」演技、
「この家族と子どもを一生守り続けるぞ」という演技、
「子どもファースト」なことを対外的に見せ掛ける演技、
「選手に出した反則タックルの指示を否定し続ける」演技、
「『面従腹背』という演技を一生懸命に披露し続ける」演技、
「獣医学部新設をめぐる面会を記録した文書を否定する」演技、
「高度プロフェッショナル制度で労働時間短縮」を主張する演技、
「トップ会談を実現するために『非核化』します」と主張する演技、
「〇年後までには必ず〇%のインフレに誘導します」と誇張する演技、
「〇〇通貨に興味なんかないのにアフィリエイトに誘導し続ける」演技、
「愛情など無くなっているのに『家庭』という幻想を守ろうとする」演技、
「本当は一様性しか持ち合わせてないのに多様性に乗っかろうとする」演技、
「『生きる意味』を考えたくないから目先の仕事・娯楽雑事に没頭する」演技、
「『アナタとともに人生を歩めて良かった』と自分を納得させようとする」演技、
「人生の有象無象すべてを理解したフリをしてこの世を去っていこうとする」演技。
何のために演技するのか
いろんな演技があると思いますが、共通するのは「相手がある」ということ。この世に人間が1人しかいなければ、そもそも演技などする必要もありません。自己保身であったり、承認欲求であったり、自己のポジションを確保するためであったり、相手に心地よく過ごしてもらうためであったり、そんな雑多な「対外的」理由から、人は日々、演技しているんでしょうね。
ただ、3~4歳ごろまでは、本能的(動物的)な演技を除いて、自らの意志で演技しているようには見えませんし、山崎翁のインタビューで紹介されている画家・熊谷守一のように社会との折り合いがうまく付かず、折り合いを付けることをやめてしまった人であれば、もはや演技する必要はありません。
やはり、インタビューで語られているように、社会との折り合いを付けるという唯一絶対の目的から、演じたい人も演じたくない人も、好むと好まざるとに関わらず、ある意味「人生」という演技を強いられているんでしょう。
演じることをやめた熊谷守一の晩年を、「俳優」という人生を演じてきた山崎翁が映画で演じるということ自体、何とも不思議な感じがしますね。
「演技」をやめて見えるもの
3~4歳ごろまでの幼児と熊谷守一との違いは、「演技を知らない」と「演技をやめた」の違いです。
「演技をしていない」点では同じなので、ちょっと考えただけでは違いがよく分かりませんが、「知らない」との違いを考えれば考えるほど、「やめる」ことの困難や渋難がおぼろげながら見えてくるような気がします。
「演技を知らない」というのは、人間 0.0 の「無目的」な状態であり、まだ「人間」が明確にはスタートしていないと考えられます。
その後、何らかの「目的」が芽生えると、必要に応じて演技をするようになり、そこから人間 1.0 が始まります。人間 1.0 が始まると、「子どもらしさ」の象徴である遊びや自由を捨てて、わざわざ「不自由」の獲得に向かって進んでいきます。「不自由」の獲得に向かって進まされる、とも言えます。
そんな「不自由」の中で「生きる意味」を考えるのは、至難のことでしょう。
ただ、「不自由」とはいえ、その中でも「人間」は更新されていき、人間 2.0 になったり、人間 3.0 になったり、・・・気が付いたら、人間 5.0 になっていたり、人間 10.0 になっていたり、人間 50.0 になっていたりするのかもしれません。
一方、「演技をやめる」というのは、そうやって更新し続けた「人間」をやめることと同義なんでしょうが、人間 5.0 であれ、人間 10.0 であれ、人間 50.0 であれ、人生を通して更新し続けたものをやめる勇気なんて、普通はないと思います。
でも、演技をやめて、人間の更新をやめて、遊びや自由を再び獲得する、そういう道もあるんですね。そこで初めて、「演技を知らない」頃に感じていた「生きる意味」とは一味も二味も違う「生きる意味」が感じられるのでしょうか。
たどり着いていないので、ちっとも分かりません。
「仕事」が絡んでくることの悲哀
「好き」「楽しい」「面白い」までは良い響きなのに、その後ろに「~を仕事に」というフレーズがくっ付くと、たちまち不自由な「演技」の匂いが立ち込めます。
そもそも、「好き」「楽しい」「面白い」という自由な趣きを「仕事」という不自由な単語で受けることにどれほどの意味があるのだろうと考えてしまいます。
個人的には、「自由(無演技)」→「不自由(演技)」→「自由(無演技)」という変遷にこそ大きな意味があり、不自由をとことん演じ切った上でしか、再び自由を獲得する喜びなんて感じられないんだろう、と想像します。
「自由(無演技)」→「自由(無演技)」→「自由(無演技)」という変化の無さは、それはそれでかなりの苦痛をもたらすのではないでしょうか。
さいごに
そして今日もまた、本当はナマケモノなのに、目の前の大きなプロジェクトを「自分の使命」と自己暗示をかけつつ、目先のちっぽけな仕事に取り組む演技をします。
自分の人生がいろんな「演技」に彩られているうちはいいけど、社会が複雑になればなるほど、必要かどうかもよく分からないつながりが増えれば増えるほど、自分が望みもしない演技を強要されるようになり、それで身動きが取れなくなりつつあることを何となく自覚しつつ、演技のための演技をさらに上重ねします。
その上重ねがひたすら上滑りすることを知りながら、今日も明日も上重ねするのです。その先に、何か答えらしきものがある、と思い込むアカデミー賞選外の「演技」をしながら。
山崎さん、シブいっす。