敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

大人脳で考えても答えの見つからない「生きる意味」は子どもの中にある

 

 

1年ほど前に読んだ泉谷閑示さんの「仕事なんか生きがいにするな」が気になって、パラパラと再読してみました。

 

タイトルは「軽め」なんですが、中身はかなりの濃い口です。

 

また、タイトルからは「仕事論」を想像してしまうのですが、その内容は、精神医学から哲学、心理学、文学、宗教まで縦横無尽に駆け巡り、「生きる意味」を強く示唆してくれます。

 

「生きる意味」の答えを探して

現代社会は、ありとあらゆることが受動的です。

 

少子化が進めば進むほど、生徒獲得のために習い事や受験のターゲット年齢が低くなり、それらを子ども自ら能動的に選択できれば良いのですが、多くは大人の都合により、子どもたちは受動的に「選ばされる」ことになります。

 

大きくなったらなったで、勉強でも仕事でも、「役に立つこと」「分かりやすいこと」「面白いこと」が常に求められ(しかも、性急に)、主体性を発揮できる場面など限られています。

 

つまり、「意義あること」が常に求められ、社会的に「意味がない」と判断されたものには、たとえ個人的に「意味」を感じていても、「無価値」というレッテルが貼られてしまう世の中です。

 

このような状況では、「自らの内面」と静かに向き合い、「生きる意味」を考えるのは難しいと思います。

 

こんな社会でも、食べていくには働かねばならず、この「働くこと」についても、本書では古典を豊富に参照しながら、泉谷さんの意見が述べられています。「働くこと」そのものではなく、「働くこと」との距離感を如何に保つかが重要となってきます。

 

そして、「何のために働くのか」という疑問が、必然的に「自分とは何なのか」という問いになります。

 

これに対しては、夏目漱石やニーチェの言葉や著作を引いて、「超越的0人称」という考え方が導入されており、これまで「自分探し」を否定されてきた人たちにとっては、大きな勇気になると思います。

 

ここから、「自分探し」→「自由」→「自発性」→「愛」と、順々に論が展開され、人間がたどるべき道筋のヒントが与えられます。その先に、求めた者にしか得られない超絶的な「高み」がある、というわけです。

 

そして最後に、以上の理論を日常生活に還元する処方が述べられています。そのヒントは、「子どものように」です。

 

現代のように、経済原理(お金)が物事の中心となってしまい、仕事はもとより教育にも「効率」と「結果」が求められ、何事も「計画」が重視され、死んで土に還るまでの人生すべてが「計画」の中に埋め込まれてしまう状況では、「遊び」が入り込む余地などありません。

 

でも、「子ども」は遊ぶのが仕事なんですよね。

 

そして、その遊ぶという「子どもらしさ」の中にこそ、見出すべき「生きる意味」があるのではないでしょうか。本書を読んでいて、そのように感じます。

 

「生きる意味」は、大人脳で考えていては「意味がない」ことになり、子ども脳で考えて初めて「意味がある」ことなんでしょうね。

 

「子どもらしさ」を奪わない

ここからは持論ですが、子どもの「遊び」を奪わないようにしようと思ったら、言葉や文字、計算なんかを早々と教えない方が良いと思います。

 

子どもは小学校に上がるまで、延々と言葉の世界を冒険します。散々冒険しながら、少しずつ大人の世界に近づいてきて、大人が便利そうに使う言葉・文字・計算に興味を持ち、やがてそれを自分でも操れるようになりたいと渇望します。

 

その乾き切ったスポンジのような状態で小学校に上がって言葉や文字、計算を習い始めると、驚くような勢いでそれらを吸収していきます。元がカラカラに乾き切っているのですから、当たり前です。

 

大人の世界というのは、遊びや自由が制限された状態ですから、その大人の便利ツールである言葉や文字を早々に覚えるということは、遊びや自由という「子供らしさ」を奪ってしまうことになります。それでは、「生きる意味」を探せません。

 

また、「あれダメ、これダメ」と言い過ぎるのも、まさしく子どもの遊びや自由を奪う行為でしょうね。

 

やりたいことは、無制限にやらせれば良いと思います。もちろん、中毒性や依存性のあるものは、子どもの特性に応じて制限することも必要でしょうし、他人に迷惑を掛ける行為や危険な行為も諭して慎ませる必要がありますが、それ以外に子どもの自由を制限する理由なんてないでしょう。

 

さらに、子どもには色んな価値観を感じられる多様性も身に付けてもらいたいところです。

 

偏った価値観を持つということは、自分の考えから遠い部分が暗くて見えなくなることです。これでは、暗くて自由に冒険できません。

 

多様性は、このような暗い部分を照らしてくれる明かりです。多様性さえ身に付けていれば、どんな暗い場所でも自力で進んでいけます。広い自由を獲得できます。「生きる意味」は、どんな暗い所に転がっているか、行ってみないと分かりませんからね。

 

「多様性」という観点で個人的に良かったと思うのは、子どもが公立小学校に通えていることです。公立は、多様性の「るつぼ」です。私立がダメというわけではありませんが、やはり多様性では敵わないと思います。

 

自分自身が幼稚園から大学まで公立で過ごせたのは、とても幸運なことですし、何にも代えがたい大きな財産となっています。

 

大人脳では分からない

大人になると、目的がなければ動けなくなります。

 

極端な見方をすれば、お金や人気、評価という遠い儚い「目的」によって、存在欲求や承認欲求を満たしているに過ぎません。

 

一方の子どもは、生まれ持った天与の「自由」によって、「無目的」に動き続けます。

 

それが成長とともに、知らず知らずのうちに「目的」を身にまとうようになり、気が付いたら「目的」という「不自由」によってがんじがらめになっています。その不自由の中では、頭の中も凝り固まった「大人脳」になっています。

 

この状態から、子どもの中にあるであろう「生きる意味」を考えるのは、至難です。

 

最近、「好きを仕事に」が「生きる意味」として語られることもありますが、おそらく、真の「生きる意味」を見出した人は、そんな放言しないんでしょう。子どもは、わざわざそのような宣言をしませんからね。

 

子どもの間に「子どもらしさ」を十分堪能しておかずに、大人になってから子どもの「遊び」や「自由」を取り戻そうとしても、それはさらに困難なことです。経験していないことを「取り戻す」ことはできません。

 

さいごに

子どもは、「生きる意味」なんて考えません。

 

大人になると、「生きる意味」を考えます。でも、既にそれを考えられない大人脳になってしまっている可能性が高いです。

 

残念なことです。

 

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