戦後長らく、「企業戦士として働くサラリーマン夫を甲斐甲斐しく支える専業主婦」という基本的な構図で日本経済は発展してきました。
そんな時代の流れの中で、バブルの頃から「男女平等」の機運が高まり、女性の高学歴化・社会進出が浸透して、気が付いてみたら、女性の労働力に頼らざるを得ない社会状況にまで到達しつつあります。

「論理性」や「合理性」によって遠ざかる家事・育児
このような時代になると、かつての専業主婦家庭のように、家事や育児をすべて妻に任せておくわけにもいかず、夫の参加も求められるのは当然の流れです。ただし、「専業主婦」システムに慣れ切った世代から、まだ1~2世代ほどしか時代が下っていないわけですから、夫側の意識が時代になかなか追い付かないのも事実です。
そうすると、共働き世帯を中心に、当然のごとく「家事・育児の分担」論争が広がり、夫婦それぞれの立場で主張を強めれば強めるほど、夫婦間の溝が深まる事態にもなります。
男女問わず、学歴とともに「論理性」を身に付け、社会契約の中で働きながら「合理性」を身に付けつつ、会社や社会からの「評価」によってアイデンティティを確立すればするほど、評価もアイデンティティも確認し難い「家事」や、「論理性」「合理性」のカケラもない乳幼児の相手をする「育児」が、何とも煩わしいものに思えてきます。
ごく単純化してしまえば、高学歴社会の到来によって、「論理性」や「合理性」の反対側にある家事や育児は遠ざけられ、そのきっかけとなる結婚や出産の優先順位が下がっていく、という仮説が成り立ちます。
家事や育児に求める評価やアイデンティティ
男女どちらにも当てはまることだと思いますが、バリバリ働く中で家庭を持ち、子どもが生まれた場合、家事や育児は「評価」や「アイデンティティ」を確認し難く、「論理性」や「合理性」に乏しいからこそ、逆に、それらを求める傾向が見られます。
特に、家事・育児の中にアイデンティティ(自分らしさ or 自己肯定感)を探し求めることには困難や悲哀を伴うため、そのような視点で書かれた記事をよく見掛けます。
たとえば、こちら。
家事が苦手な専業主婦である「自分」が存在できている理由として、
「夫の愛を確保できていること」なのだ
ということを実名で強調してしまって大丈夫なの? と少し心配になる記事です。ボクが夫としてこの記事を読んでしまったら、「帰宅後に『あ、愛してるよ』と言った方がいいのかなぁ」とかなり悩むことになりそうです。
それは置いとくとして、記事の論点は、最後の部分にあるように、
長時間労働ができなければ戦力とみなさない企業、そして専業主婦の支えを前提とする転勤などの制度。これが結局、専業主婦になる人を増やすばかりでなく、専業主婦になった人の家事育児への献身……場合によっては高学歴でアイデンティティロスを激しく経験した人ほど反動としての家事・育児への傾倒を生んでいる可能性もある。
ということですね。
確かに、アイデンティティを失った高学歴は、家事や育児にアイデンティティの再獲得を期待する場合もあるでしょうし、「男社会」であればあるほど、このような期待が女性を家事・育児に縛り付ける原因にもなり得るんでしょう。
ただし、それは「高学歴」という一面を見た場合のことであり、アイデンティティの確立の仕方は、「与えることを前提とするタイプ」と「求めることを前提とするタイプ」に大きく分けることができそうです。

「与える」ことをアイデンティティの前提とするタイプ
このタイプは、 「ギブ → テイク」という順番を重んじるタイプです。
自分が何かの成果を上げたり、価値を提供したりすることが先で、その報酬として相手に何らかの見返りを求めます。上に引用した記事の筆者も、こちらのタイプではないかと思います(違っていたらスミマセン)。
「与える」ことを前提とするため、自分で「十分」と思えるだけの何かを提供できていなければ、すごく不安になるのではないでしょうか。
「求める」ことをアイデンティティの前提とするタイプ
このタイプは、 「テイク → ギブ」という順番を重んじるタイプです。
相手から何らかの提供を受けることが先で、そのお返しとして、相手に何らかの成果や価値を返します。場合によっては、何も返しません(!)。
「求める」ことを前提とするため、自分で「十分」と思えるだけの何かを得ることができていなければ、すごく不安になるのではないでしょうか。
夫婦が互いに依存する不幸
アイデンティティの確立の仕方を「与える」「求める」の2通りで大きく分けてみましたが、いずれの場合も、アイデンティティ(自分らしさ or 自己肯定感)の確立が「相手ありき」になっています。相手に依存しているのです。
アイデンティティが他人との相対的な関係性の中で生まれると考えるのは、ごく自然なことですし、「自分らしさ」や「自己肯定感」は、往々にして他人との比較の中で確立されていくものでしょう。
ただし、結婚して「夫婦」という妙に近い関係になった場合、その狭い関係の中でアイデンティティを探し求めようとするのは、かなり難しいことです。
たとえば仕事の場合は、上下左右 360 度(上司、部下、取引先等)からの幅広い評価によって、相対的に自分のアイデンティティが確立されていきます。つまり、1人ひとりの相手は、ごく薄いアイデンティティの源泉でしかないけれど、それがたくさん集まることで、自分自身はしっかりとアイデンティティを確立することができます。
これが夫婦の場合、アイデンティティの源泉は、基本的に1人(夫 or 妻)しかいません。なのに、家事や育児というのは、そもそも評価やアイデンティティを確認し難い作業であり、だからこそ、評価やアイデンティティを確認できなければ継続が難しくなります。このようなバランスの悪さが、結婚・夫婦生活の最大の難関でしょうし、結婚がブラック化していく主因と考えられます。

幸せになるための距離感
ではどうすれば良いかというと、「夫婦」という狭い関係性をなるべくオープンな関係にして、両親や兄弟姉妹、友人・知人、ご近所さんなどを巻き込むとともに、「評価」や「アイデンティティ」を2人の間であまり確認し過ぎないようにすることです。
※ 単なるママ同士の「ダンナ」愚痴り合いは、「オープン」とは言えないと思います(汗)。
今は女性を家事・育児に縛り付ける圧力が依然として強いため、女性側から「評価」や「アイデンティティ」を確認しようとする思いが強くなりがちですが、これが逆転して、男性を家事・育児に縛り付ける圧力が強くなったとしても、同じことが言えます。
「与える」形であれ「求める」形であれ、基本的には負担の大きな方が「評価」や「アイデンティティ」を確認しようとしますね。もちろん、それに応えることも大事なんですが、この確認作業が度を過ぎると、徐々に応えることが億劫になっていきます。
ですので、家事や育児の中に「評価」や「アイデンティティ」を確認する作業は、ほどほどにしないとダメです。つまり、「与える」ことも「求める」こともほどほどにする、ということになります。
それを突き詰めると、相手に価値や報酬を「与える」ことも「求める」こともほとんどなくなる結果、相手への依存が少なくなり、「そこに存在してくれるだけでいい」と互いに認め合う、絶妙な距離感だけが残ることになります。
相手に依存しない夫婦のつくり方

このようなアイデンティティを育てるには、子どものころから「そこに存在してくれるだけでいい」と親から十分に認めて愛してあげることしかないと思います。
「勉強ができるから」「スポーツができるから」という条件付きの愛情は、やがて子どもが大きくなった時、自分のアイデンティティを確立する場合には「何かを与えなければ」という焦りを生じさせ、他人のアイデンティティを認める場合には「何かを提供してくれるの?」と条件を求めてしまう可能性があります。
本当は、そんなの不要ですよね。
誰しも、本来は「そこに存在してくれるだけでいい」はずですから。
まとめ - いつの日か「ホワイト婚」
とか何とか言いながら、「そこに存在してくれるだけでいい」といつかパートナーに思ってもらえないものかと、もがき続ける日々です(大汗)。
「そこに存在してくれるだけでいい」というのは究極の姿ですが、そこに達するには、「自分の評価やアイデンティティを求める」ことはほどほどに、「相手の評価やアイデンティティを認めてあげる」という作業が必要なんでしょう。それも、心で思うだけでは絶対に伝わりませんから、言葉にしないとね。
価値観が多様化する今の時代に、同性であれ異性であれ、元は他人同士の2人が一緒に暮らしていく「結婚」なんてものは、かなり無茶な制度ですよね。
でも、「無茶」だからこそ面白くて、やりがいもある、とも言えます。
会社や社会と違って、「夫婦」という関係は、1人の影響力が全体の半分をも占めているわけですから、自分の考え方・行動次第でどのような姿にも変化しますし、どのような色付けも可能です。ある意味、ものすごくダイナミックな関係性です。
あ、ちなみに、ボクのパートナーはこのブログを読んでいませんから、ヘンにプレッシャーを与えることもないでしょう。