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ざんねんないきもの【人間版】第2位:モノサシを1つしか持ってない人

 

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発売から3年近く経っても人気の本『おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典』を読んでいて、その「人間版」を考えてみたくなりました。

 

少し前に、独断と偏見で決定した第3位を発表しましたが(過去記事『ざんねんないきもの【人間版】第3位:「運」と「実力」を勘違いする人』)、今回は第2位の発表です。今回も、自分のことは真っ先に棚に上げて、好き放題に書いてみたいと思います。

 

「がっかり」なオリンピック担当大臣

 

2月12日。桜田義孝・五輪担当相が、競泳の池江璃花子選手の白血病公表に対して、「本当にがっかり」「(オリンピックの)盛り上がりが若干下火にならないか、心配している」などと記者団に感想を述べました。

 

その後の猛烈な批判や野党の追及、謝罪・撤回へと至る経緯は、誰もが知るところでしょう。あまりにも違和感ある発言に、日本中がひっくり返った出来事でした。

 

これまでにもいくつか失言を重ねてこられた方なので、今回の件も、本心とは別に、心で思っていることを上手く表現できなかっただけだと思いたいのですが、そもそもは、失言癖のある方が大臣の椅子に座り続けてしまったことが問題の根幹にありますよね。

 

長く生きてこられた中で、失言を注意されることも少なからずあったでしょうに、それでも大臣の椅子に嬉々として着席し、何があってもしがみつこうとする様は、他人から自分がどう見られているかなど全く気にならず、すべては「自分のため」という唯一の評価軸しか持っておられないことが原因なんだろうと想像します。

 

評価軸を増やせないなら、大臣の椅子を空けてくださいね。百歩譲って、心の中ではどう思っていても良いですが、古希を迎えようとする年齢なら、内側と外側の使い分けぐらいしっかりしましょう。今どき、幼稚園児でも結構しっかりしていますよ。

 

「他人のため」というモノサシ

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「自分のため」という評価軸(ものさし)を説明するため、桜田・五輪担当相の例を引き合いに出しましたが、一方では、「他人のため」というモノサシも気になるところです。

 

桜田・五輪担当相の発言がこれほどまでに叩かれるのは、ネットや SNS 上で数々の「炎上」を目撃して少しずつ学習してきた人々のマインドの変化が大きく影響しているんじゃないかと思います。

 

20~30 年前なら、桜田・五輪担当相の発言はこんなにも批判されていなかったかもしれませんが、ネットや SNS の登場により、「独りよがりは炎上するもの」という感覚が世間に染み渡ってきているように感じられます。その分、「独りよがりは叩いてもよい」という風潮もできつつあります。まさしく「1億総ツッコミ」の時代ですね。

 

こういう時代になると、「『他人のため』は善、『自分のため』は悪」という極端な発想がはびこりだして、勧善懲悪的なムードの中、目の前で繰り広げられる悪事に対して、その背景を特に深く考えることもなく、「アホ!バカ!」と一言で切り捨ててみたり、「悪」のレッテルが貼られた相手を執拗に攻撃したりするようになります。

 

その一方で、勧善懲悪マインドを利用するかのように、あえてヒール役を演じることもお馴染みの手法となりつつあります。そうやって炎上するだけならよいのですが、人々の心の中にある正義感の炎に必要以上の燃料を注入して煽る行為ですから、社会の勧善懲悪ムードを増長させる方向にあることは間違いないでしょう。

 

そのような流れで、「他人のためでなければならない」という強迫観念のようなものが社会に広がりつつあるようにも感じられます。「他人のため」というのは、それ自体は聞こえが良いものの、それがあまりにも強すぎると、その他人にとっての重荷になることはもちろん、自分の中に知らず知らずルサンチマン(恨みの念)をため込むことにもなります。

 

モノサシを1つしか持っていない人

桜田・五輪担当相に対する批判は、「自分のため」という古い価値観と「他人のため」という新しい価値観との衝突を表しているようにも思えるのですが、いずれにしろ、「自分のため」であれ「他人のため」であれ、モノサシを1つしか持っていない人を見掛けると、とても残念な気持ちになります。

 

つい先日は、父親の「勉強が一番大切に決まってるだろ?」という思考停止気味な一言であえなく受験勉強入りすることが決まってしまったナイスガイの心中を思い、強めの筆圧で記事を一本書き上げてしまいました。

www.overthesensitivity.com

 

最近は、DV や虐待も含めて、パワハラのニュースが頻繁に報じられています。このような行為など、「自分のため(憂さ晴らし、支配欲・・・etc.)」という1つの評価軸(モノサシ)で物事を考えた結果としか言えません。

 

ただ、ちょっと立ち止まって考えるなら、パワハラの加害者に対して「アホ!バカ!」と一言で切り捨てることもまた、そういう1本のモノサシでしか事態を理解できていない証拠です。誰もが好きでパワハラの加害者になるわけではなく、そうならざるを得なかった背景なり環境があったはずです。そのことに思いを馳せるなら、「アホ!バカ!」のひと言を吐き捨てるだけで素通りすることなど、なかなか出来ないと思うわけです。

 

 

 

モノサシを何本も持つ = 1人民主主義

特に、上に立つ人・強い立場の人がモノサシを1つしか持っていないと、その組織や集団は悲惨なことになってしまいますね。

 

どんなことであっても、自分軸、相手軸、第三者軸、社会軸、世界軸など、いろんな評価軸が存在します。それらすべてを漏れなく考慮することなどとても不可能ですが、一歩でも二歩でも後ろに下がって事態を眺めれば、少しでも多くの評価軸が視界に入ってくるでしょうし、それぞれに応じたモノサシを持てるようにもなるでしょう。

 

一方、モノサシを何本も持つと、多重人格のようになり、1つの出来事に対して次から次へといろんな考えが湧き出てきますし、そのせいで葛藤・逡巡・苦悶することになります。また、「1人民主主義」をやっているようなものですから、なかなか決断に至りません。

 

でも、それで良いんじゃないですかね。とても慌ただしい時代ですから、優柔不断と思われるぐらいにじっくりと物事を考える方が希少性もありますし、そういう姿勢がやがて評価される時代が来るんじゃないかと思ってもいます。

 

 

さいごに

ざんねんないきもの【人間版】第1位は、こちら(↓)。

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