スマートスピーカがこの世に出始めた頃から ―
何度も「買おう」と思いつつ、結局いまに至るまで購入していません。仕事で音声認識や自然言語処理の技術に関わることがあるため、興味はすごくあるんですけどね。

「便利」に手を染めるのは簡単
スマートスピーカを買わなかった理由は何かと考えてみて、一番に思い付くのは子どもがいることです。子どもがいなければ、たぶん迷いなく購入していたでしょう。
その根本には、「便利に手を染めるのは簡単だけど、不便に戻るのはほぼ不可能」という確信があります。
スマートスピーカのように、特別な思慮深さや試行錯誤も必要なく、ただ単に「便利」になるだけのデバイスは、子どもには要らないと考えています。
車やスマホのナビゲーション機能も、子どもには不要です(私自身も、ほとんど使いません)。方向感覚を養ったり、自分で最短ルートを考えたりする機会をわざわざ奪わなくてもよいだろうと思うからです。
キャッシュレスも同じですね。お釣りを計算したり、紙幣と硬貨をどう組み合わせてお釣りを最小限に抑えるかを考えたり、そういった子どもの計算学習に丁度よい機会をわざわざ奪わなくてもよいでしょう。キャッシュレス化には、「コストが割高な現金流通からの脱却」という社会的な意味もありますが、子育てには関係ありません。
これらはいずれも、何一つ難しいことはありませんので、始めようと思えばいつでも誰でも簡単に始められます。なのに、一度慣れてしまうと容易には後戻りできません。「楽したい」という本能的な側面と、「便利」に奪われる能力(方向感覚や計算能力)の側面と、その両方が後戻りを極めて難しくします。
そういう不可逆的なものに手を出すことが、なかなか生理的に受け付けられないのです。子どもに与えるとなれば、なおのことです。生理的な現象なので自分にはどうすることもできず、HSP なりの嗅覚だろうと自分を納得させています。
子どもにとっては、スマートスピーカやナビに触れることでテクノロジに対するハードルが下がり、あるいは将来の仕事になるかも、という期待も当然あるのですが、「不便には戻れない」という確信がそれをはるかに凌駕しています。
親子関係なんてものは、ただの「運」でしかないため、こんな頑固オヤジのせいで数々の便利グッズに触れる機会が少なくなってしまった子どもたちには、それを「不運」と思って諦めてもらうしかありませんね。なんせ、ガンコですから。

親父がスマートスピーカになった日
このように、ガンコ極まりない私ですが、「不便」をモットーにして生きている以上、情報や知識をテクノロジに頼るわけにもいかず、知識を仕入れて頭の中に保管する作業や、不要になった知識を排出したり、古くなった知識をアップデートしたりして頭の中を整理する作業は、自己責任として自然なルーチンとなっています。
それを知ってか知らずか、家族はいろんな質問を平気で私に投げつけてきます。
「なぜ、英国は EU を離脱しようとしてるの?」
「なぜ、沖縄は辺野古移設で紛糾してるの?」
「フレミングの法則と右ネジの法則の関係は?」
「a(an)と the の使い分け方は?」
このあたりの質問には、胸を張って意気揚々と解説しますが、
「電車の時間は?」
「今日の天気は?」
「今日は何曜日?」
「いま何時?」
こうなってくると、自分自身のことをスマートスピーカとしか思えなくなり、スマートスピーカを購入していない自分なりの信条とのズレにストレスを感じてしまうのですが、そう思いながらも答えを返している自分がいます。たまに、「フェイク情報でも流してやろうか」という意地悪 👿 が頭をもたげますが、まだ実行はしていません。
ただ、自分自身が家族のインフラや結節点となって、なくてはならない存在でいられるのは悪い気がしませんし、勉強や日々の生活を含めて、家族の関心事や行動予定などが自然と入ってくるのは、自称イクメンにとっては嬉しいことです。少なくとも、家族の個人情報を握ったところで、それを悪用しようとは思わない安全なスマートスピーカではあります。
親父がスマートスピーカを超える日

家族からは、質問のみならず、相談事項も投げつけられます。
「PTA の ~さんが暴走している」
「数学の ~先生の言ってることが意味不明」
「クラスの ~さんがみんなを困らせる」
「朝起きられない」
こういった相談に対しては、何らかのアドバイスを求められていると感じた場合は自分なりの答えを返してやり、ちょっとした反応が欲しそうな場合は「ふむふむ」と相槌を打ちながら必要に応じて合いの手を入れ、ただ聞き流せばよさそうな場合は耳を少しだけダンボにしてひたすら頷くようにしています。
折角スマートスピーカになったんだから、本物のスマートスピーカやその裏で動作する人工知能(AI)には真似できないスピーカになってやろうじゃないかという気概です。
あえてフェイク情報を流してやったり、答えを途中までしか返さなかったり、そういったことも、オヤジスピーカにしかできないリテラシの鍛え方として悪くないですね。人間のスマートスピーカの方が、活用方法に圧倒的な幅がありそうです。
「期待しない」子育て
結局、我が家にはスマートスピーカがあるのかないのか、よく分からない状況となりつつありますが、基本的なスタンスとしては、便利が加速していく世の中の流れになるべく逆行して子育てしたいという意識があります。
ただ単に便利なグッズを使いこなし、現実世界の数々の不便を仮想的な「便利」で覆って、その表面を上滑り気味にボーっと生きていくことには、あまり意味を感じられません。逆に、ボーっと生きている人たちに対して、無駄に便利なグッズを生み出して提供する側に回ることに、意味があるのかどうかも分かりません。
その点では、子どもたちに対して「何者かになれ」という期待などは一切なく、どのように生きていくかは子ども自身で決めるのが一番だと思っています。
5千以上ものストーリーを一緒に学び、言葉や計算のジャングルを一緒に彷徨い、とうとうスマートスピーカになってしまった頑固一徹オヤジを見て育つムスメやムスコたちが、果たしてどんな人生を歩むことになるのか、スマートスピーカの立場でゆるふわに関わっていきたいと思っています。
サヨウナラ人工知能
人工知能(AI)は、人類の不便を解消してくれる有力な手段ですが、その不便に戻りたくても戻れない場所まで人類を連れ去ってしまう可能性も秘めています。
だから、そんな AI との関わり方次第で、人々が進む道は大きく分かれていくことでしょう。
我が家の場合、少なくともスマートスピーカについては、AI から離れて人間(私)がスマートスピーカを演じることになりましたが、今後も、テクノロジに基づくさまざまな製品やサービスからは、一定の距離を保って遠巻きに眺めていくしかないと思ってます(家庭内の話であり、仕事は仕事と割り切っています)。
同じ方向性で群れたり、空気を読み過ぎたり、忖度し過ぎたり、安易なストーリーにすぐ感動してしまったり、そういった分かりやすい反応は、AI が得意とする「パターン」のデータ処理として恰好の材料となります(AI が得意ということは、AI を開発する企業や人間にとっても容易に扱える対象です)。
AI に負けないオヤジ型スマートスピーカの姿を少しでも長く、子どもたちに見せつけてやりたいところです。