いつも目先の利益や承認に囚われ、ついつい近道を歩みがちな自分だが、「遠回り」してオリンピックの金メダルを獲得したスピードスケート・小平奈緒選手のインタビュー記事を読んで、アラサーの若さで「その境地に達してしまっているのか!」と驚くことばかりだった。オリンピックの時は、(厚かましくも)妹を応援しているような感覚だったのだが、こうして記事を読んでみると、はるか遠い存在に思えてくる。
その「境地」すら未経験なため十分に理解できないけれど、インタビューの中では、特にこの部分に深く感銘を受けた。言葉を大切にしているだけあって、インタビューの受け答えも、他のスポーツ選手と趣きが若干異なる気がする。
― 小平さんにとって、言葉とはどんな存在ですか。
「自分自身を、人として成長させてくれる元です。いろんな価値観の人と話すことで育まれ、物の見方も変わってきました。(インド独立の父の)ガンジーの言葉に『明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ』がありますが、こうした言葉に出会うと、自分の中に種をまかれたようで。自力で解釈し、行動に移して、その種を成長させることにも楽しみを感じています」
小平選手は、頑なに自分の信念を曲げず、何年後かの自分を想像しつつも、その時々の自分の心に従って、人生の分岐点で周囲の声や一般常識に左右されない選択を心掛けてきた結果、「勝ちたい」という強い欲が消え、不安や重圧をすべて受け入れ、しかもそれをエネルギーに変えられた、と仰る。
たぶん、自分の責任として歩んできた人生だからこそ、すべてを受け入れられるまでになったんだろう。たぶん。たぶんね。理屈としては分かる。分かる・・・分かる気がする。でも、それを何年にもわたって実践し続ける信念や行動力というのは、もちろん自分にはない。
また、無駄な欲が消えたあかつきには、他人の喜びや頑張りすら、自分のことのように素直に受け止められる、とも仰る。もはや、常人の到達できる境地ではないだろう。理屈として述べるだけではなく、それを体現して結果に結び付けたわけだから、どんな屁理屈をもってしても、この境地には敵わない。
などとエラそうに論評することすら躊躇われてしまうのだが、せっかく良い記事に出会ったわけだから、何か自分の人生に還元できることはないかと考えてみた結果、やはり「自分の中で言葉の種を育てる」という部分が気になった。
いちおう読書はするので、良書の中から言葉の「種」を拾い、その種を自分の中にまくことまでは難なくできる。問題はその後である。種には、定期的に水を与えなくてはならない。芽が出てきたら、踏みつぶさないように気を付ける必要がある。ある程度伸びたら、雑草が混じっていないか確認して、選別しなくてはならない。日照りが続くこともあれば、曇天が続くこともあれば、嵐がやってくることもあるだろう。それでも、自分の中で育っている「言葉」を守り続けなければならない。そうやって苦労して大きく育てた後に、やっと「言葉」を収穫できる。そのとき初めて、自分がまいた種の成長ぶりを認識でき、まいた種が間違っていなかったと確認できる。
自分はどうだ? 種をまきっ放しか、水を与えていないか、与え過ぎか、芽が出ても気づいていないか、雑草を間違えて食してしまっているか・・・そんな程度だ。
何かを成就したいと思ったら、「遠回り」な人生を厭わない覚悟が必要だ。でも、「遠回り」な人生を送るには、人間の心はあまりにも弱すぎる。だから、自分なりの言葉の「種」をまき、育て、収穫することによって、自分が選んだ「言葉」の力を受け入れ、それを生きるエネルギーに変えていく。
深い言葉というのは、自分自身を鼓舞し、𠮟咤激励するのになくてはならないものだ。だから、言葉の種まきのベースとなる読書はやめられないし、若者にもおススメしたい。別に、小難しい哲学書や小説などでなくても良いと思う。人それぞれ、自分の力になってくれるものは千差万別だろう。
というようなことを今朝6時半ごろに妄想して、「ムスメにもぜひ伝えよう」と思っていたのだが、気が付いたらもう部活に出掛けてしまっていた・・・
「近道」を進もうが「回り道」を歩もうが、どちらを選ぶかはまったくもって子どもたちの自由だが、言葉をちゃんと自分で育てなければ、人間には「近道」しか選択肢が残らない。そんな気がする。
今日も、すごく春だ。