
サンフランシスコでは、年収 10万ドル(≒ 1,000万円)以下は「低所得層」だ。ボクの学生時代の友人も、同地にあるドイツ系企業でマネージャ職をやっているが、生活は決して楽ではない、と言う(そもそも、比較している対象が日本とは違うけどね)。 街中にはホームレスや車上生活者が大勢いて、人糞や注射針が普通に散らばっている一方、ベイエリアでは1億円の一戸建てがお手頃とか、そんな話も聞く。
彼の地から太平洋を隔てたこの日本では、金融庁による「老後資産が少なくとも 2,000万円必要」との御触れがわざとらしく漏れ伝わった結果、証券各社はここぞとばかりに資産運用セミナーを強化し、アフィリエイト各社も投資関連の広告を強化し、一部のアフィリエイターやブロガーの鼻息が荒くなって、結果的には、今まで考えもしなかった人々が資産運用の扉を開くことになり、それはそれで政府の思惑通りなのかもしれない。だけど、日本で老後に必要な 2,000万円が、彼の地サンフランシスコでは、「下の上」か「中の下」レベルの年収にしかならないという、この現実。もう笑うしかない。
その一方、サンフランシスコとも 2,000万円とも全く縁の無いコミュニティで、「利他的な子ども」のようにニコニコ・ホクホクと暮らしている人たちもいる。
彼の地サンフランシスコと、太平洋を隔てた日本と、その中の片田舎と、これだけの格差がある現実を見てしまうと、自分はどこに軸足を置いて生きていけば良いのやら、途方に暮れる。
なぜ金持ちはアホでバカなのか?
ここで言う「金持ち」とは、お金持ちであることを隠さなかったり、私腹を肥やすことにしか興味がなかったり、お金を稼ぐことがゲームと化してしまっている人のこと。
経済的格差が生じるのは、「たまたま」その時代に合う能力(お金を稼ぐ能力)を持った人のところにお金が吹き溜まるだけ吹き溜まって、制度的にも本人の意思的にも、そのお金を下流へと流してやる力が不足しているからだ。そのお金が、家や車といった「目立つ」消費に回されると、それが格差となって顕在化する。
あるいは、「お金」そのものには興味がないけれど、社会における自己の歪んだ承認欲求(存在意義)を満たす手段としてお金の多寡ほど便利なものはないため、ゲームのようにお金を集めることにしか関心のない人が、たまたまその能力を持ち合わせていると、その人のところにお金は吹き溜まる。
なんやかんやで、お金は社会の一部に吹き溜まる。その結果・・・
- 社会は見事に荒廃していく(人糞や注射器 etc.)
- 格差が開き過ぎると、需要が落ちて経済が縮む(⇒ BI の発動?)
- 究極的には、フランス革命や世界大戦のような事態が繰り返される
社会全体として、格差の拡大の彼方には、何一つ良いことはないと思うのだが、どうもお金持ちというのは、厭世的というか退廃的というか破滅的というか、そういうマインドしか持ち合わせていないようにも思える。
おそらくそういうマインドは、自身が育つ環境の中で、十分に承認欲求が満たされなかったり、お金としか信頼関係を結べなかったり、「やわらかい」コミュニティの居心地を味わえなかったり、そういった環境の結果として起こるものだと思っているから、一括りに「アホ・バカ」呼ばわりするのは申し訳ないと思いつつ、ただ残念で仕方がない。
SDGs の下、持続的な世界・社会を作っていこうという機運がある中で、「お金持ち」という存在には、どうしても持続性を見出すことができない。すまん。まぁ、どう転んでも「お金持ち」にはなれない庶民の戯言でしかないけどね。
格差が確定して階級社会になれば・・・
格差が確定して完全な階級社会になれば、資本主義ゲームから降りて各階級に納まる人々の間では、弱肉強食のストレスから解放される結果、男女平等が進んだり、DV(モラハラ)や虐待(パワハラ)も少なくなるんじゃないかと妄想してみたりする。たとえるなら、「超おだやかな江戸時代」といった風情だ。
また、 完全な階級社会になれば、ある種の「夢」から覚めて現実を直視できるようになる結果、少子化問題にも歯止めがかかるんじゃないかと妄想してみたりする。
でもそれらは、結局のところ一時的な作用に過ぎず、平等を希求する人間の声が消えて無くなることはないだろうし、階級社会がいつか必ず腐敗することは、歴史が教えてくれている。だからやっぱり、格差ゼロは無理としても、格差を少なくする方向のベクトルを手放すことだけは何とか阻止せねば、などと思ってみたりする。
格差問題と「労働」と「消費」
GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)に代表されるプラットフォーム型 IT 企業は、技術力は当然のこととして、消費者に近いところでデータを巧みに扱っていることが一番の強みだ。GAFA の意向により、上流の企業がものすごく影響を受け、当然ながら労働者も影響を受けまくる。
サプライチェーンの最下流の企業が主導する現代社会では、マルクスの言う資本主義の両輪(労働、消費)のうち、(大した金にならない)労働は徹底的に忌避されて、消費ばかりが喚起される。労働に魅力が無くなって、消費しかすることがない、とも言えそうだ。
たとえば、高度成長期の日本のように、イノベーションの目的が「便利」であった時代は、便利なインフラや生活環境を整備することに多くの労働が投入され、労働者の側としても、「何か」を生み出せる「労働」というものに一定の魅力を感じていたと思う。
やがてイノベーションの目的が「娯楽」になると、インフラや生活環境を整備するような「古い」労働は徐々に魅力を失い、娯楽の生産に人々の関心は移るけれど、その娯楽の生産は、ICT や AI といったテクノロジのおかげで、あまり人手を必要としない。だから、限られた人たちだけが娯楽の「生産」に携われる一方、その他多くは、「消費」という形でしか娯楽に関われない。
そうやって消費ばかりが増えていけば、消費者の最も近くに陣取る企業が儲かるのは当たり前の話であり、消費の比重が高くなればなるほど格差も大きくなるのは至極当然だ。結局のところ、ボクら消費者1人ひとりの消費行動がブーメランとなって格差の拡大に大きく寄与しており、それに対して「格差反対!」とシュプレヒコールをあげる滑稽な状況となってしまっている。でも、消費しか楽しみのない中で、四方八方から狙い撃ちしてくる「おススメ」に徹底抗戦するのは、そもそも無理ってやつなんです。
ならば、資本主義の両輪のもう一方である「労働」を楽しんじゃえ(+ 収入も増やしちゃえ)ってことで、その1つが副業(複業)やパラレルワークなどの流れとなっている側面もあると思うけど、よほどの才能でもない限り、楽しめるほどの収益が上がるわけでもない。今さら、「労働」の比重を「消費」よりも高くするのは、至難の業だ。
格差問題とコミュニティ
消費を抑えられるわけでもなく、かといって労働を楽しめるわけでもない、となると、やっぱり、「生(なま)」のコミュニティぐらいしか、格差に太刀打ちできる手段はないんじゃないかという思いに至る。互いの顔が見える堅牢な「生」のコミュニティを構築できれば、
- お金持ちであることなど自慢できない
- ネットに依存する必要性が低下する
- その結果、広告を踏んだり、暇になって動画を消費することもない
- コミュニティを維持しようとする姿勢が、正しい労働につながる可能性もある(かつての日本企業がそうだった)
仕事でも何でもそうだけど、普通の感覚の持ち主であれば、顔の見える相手に無茶はできない。SNS やネットが憎悪マシンの度合いを強めてている一番の要因は、顔が見えないことだろう。そんな世界で生きていれば、他人を信用できず、お金しか信頼できなくなるのは、必然の帰結だ。でも、「顔を見れば安心」という価値観すら、今の時点で辛うじて共有できているだけかもしれない。時代が下れば、それすらも怪しくなりかねない。
自分が住んでいる地域の自治会も PTA も、ここ5年ほどで随分と様変わりし、個人主義の荒波には抗えない状況となりつつあるけれど、少なくとも町中に人糞や注射器が散乱することのないように、ちょっとでも深く関わっていきたいと思っている(卑近な例でスマン)。一個人の関わりなど何の足しにもならないかもだけど、1人ひとりの消費行動が格差の拡大に大きく影響するのなら、その逆もまた真なりだ。
賢い庶民がコミュニティを作る時代
「お金持ち」がアホでバカだとするなら、それに対抗する賢明な庶民が、正しいコミュニティを作っていくしか方法はないのかな、と思う。そのコミュニティは、包摂的(インクルーシブ)であればあるほど、アホでバカかもしれない金持ちやその予備軍を取り込む力を持つ。厭世的で退廃的な人間を生み出さないためにもね。