敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

令和は「生きる/生きないの自由」を選ぶ時代[昭和・平成からの変遷]

 

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平成最後の夜。ムスコNの提案で「ドラえもん人生ゲーム」をやることになりました。参加者は、小2のムスコN、小6のムスメS、中3のムスメA、ツマM、ボクの5名です。

 

1つの時代が終わろうとする熱き夜に、予想を超える大接戦となりましたが、令和時代の人生を占うド真剣勝負の激戦の末、ムスメAがおよそ100万円で優勝し、ムスコN、ムスメS、ボク、ツマMという順位でした。誰もマイナスになることなく平成時代を締めくくり、子どもたちは気分よく令和時代を迎えられたようです(大人には少々厳しいスタートとなりました)。

 

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と、このような感じで明けた我が家の令和時代です。

 

その「令和時代」の展望については、「平成時代」の総括と併せて、たくさんの著名な方々が新聞・雑誌やネットなどで語っておられます。それはそれで視野が広く、文章も秀逸で、「なるほど」と思えることばかりなのですが、自分なりに見つめている時代の移ろいというのは、やはり自分だけのものでしかありませんから、折角なので、それを記しておこうと思います。テーマは、テクノロジを背景とした「自由」です。

 

昭和は身体が自由になった時代

世界的な帝国主義の波にのまれる形で戦争へと突入して敗戦を迎えた日本ですが、戦後は見事に復興を遂げて、物質的に豊かな先進国の仲間入りを果たしました。

 

昭和30年代には、「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が普及し、昭和40年になると、「新・三種の神器」と呼ばれるカラーテレビ・クーラー・自動車(いわゆる「3C」)が普及しました。

 

この時代は、技術革新(イノベーション)の目的が専ら「便利」の追求であって、洗濯機や冷蔵庫が普及したことにより家事の手間が劇的に少なくなりました。また、テレビが普及したことで娯楽を自宅で楽しめるようになり、クーラーが普及したことで夏冬の身体的負担が少なくなり、自動車が普及したことで移動の利便性が向上しました。

 

総じて、テクノロジにより人間の身体が解放された時代です。

 

そうやって解放された身体は、情報の摂取や娯楽へと向かうことになります。

 

平成は情報摂取が自由になった時代

バブルがはじけてジュリアナ東京のお立ち台が崩れ去り、一時の繁栄をもたらした「Japan as No.1」は、それを信じ続ける人々の心とは裏腹に、後になって「失われた10年だった」と気付くのがやっとの猛烈なスピードで瓦解していきました。

 

その中で登場したのがインターネットです。ただし、黎明期には、その可能性を信じる人の方が少数派であり、ほとんどの人にとっては、ボクらの生活にまで浸透して社会の在り方自体を変貌させてしまうと確信できるものではありませんでした。

 

当初は、パソコンでピ~ヒョロしていただけのネット環境です。それがやがて、携帯電話の進歩とリンゴの頭脳が結びつき、スマートなアイツが登場したことで、情報格差(デジタルデバイド)の第2章が幕開けとなりました。

 

スマホでネットに接続すれば、世界中の情報が整理した形で提供され、世界中の商品が時間差なく提供され、世界中の友人・知人の現況が見たくなくても提供され、いつしか人々は夢の中でもスワイプ動作を繰り返し、隣りで眠りこけているパートナーの指が寝ながらにして空中をスワイプするほどの浸透ぶりです。

 

情報を提供する側と、情報を摂取して娯楽に興じるだけの側とが次第にはっきりと分かれていき、提供側が意図して供する情報を依存的・中毒的に摂取することが割りと当たり前になり、存在を認めてもらいたい赤ん坊や子どもが横で騒いでいてもスクリーンに脳ミソの半分が溶け込んだまま抜け出せない状態が割りと普通になった世の中ですが、少なくとも誰もが如何なる情報にも容易に到達できるようになったことに違いはありません。

 

総じて、テクノロジにより人間の情報摂取が解放された時代です。

 

そうやって解放された情報摂取は、人間に「生きる/生きない」の選択を迫ります。

 

www.overthesensitivity.com

 

令和は生死が自由になる時代

技術が進歩した結果、出生前に胎児の染色体異常や疾患を診断できるようになり、その胎児を世に送り出すか出さないかを出産前の段階で決めることができるようになりました。その良し悪しは、インターネットやスマホの普及と同様に、人間が白黒はっきりと判断できる類のものではなく、技術進歩の結果としてただそこに存在する事実でしかありません。

 

ネットを通じて提供される多くの情報は、SNS でやり取りされる情報なども含めて、人間が動物として生きていくのに、ほぼどうでもよい情報ばかりです。それでもボクらは、「あちら側」から途切れることなくやって来る情報を、ひたすら頭にため込みます。

 

そうやって75億人の頭にため込まれた情報が総体として新たな社会像を日々形作っているわけですが、そのほとんどは最終的に「べき論」寄りの記憶となって人々の心に定着し、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」「子どもはこうあるべき」「高齢者はこうあるべき」「人間はこうあるべき」「結婚はこうあるべき」「育児はこうあるべき」といった暗黙のルールが築かれ、人間の動物的自由をひたすら制約する方向で蓄積されていきます。

 

動物的自由を制約された人間は、普段はおとなしく振る舞いつつも、季節のイベントやスポーツの熱狂、時代の変わり目などにその動物的エネルギーをここぞとばかりに発散させるものの、それが過ぎればまた制約された自由の中で粛々と情報の摂取を繰り返し、社会的「べき論」を構築する一構成員としての役割に徹します。

 

それでも、情報を提供する側は淡々と「あちら側」に情報を積み重ねていきますので、情報格差は当然のごとく開く一方であり、その帰結としての経済格差も当然です。

 

経済格差がほぼ確定的になると、主に情報を提供する側から(ある意図を持って)、ベーシックインカム(BI:Basic Income)のような最低限所得保証制度の議論が湧き起こり、格差の下側に属するボクらも渡りに船とばかりに議論に乗っかって、ベーシックインカムを当然のように受け入れます。

 

やがて人工知能(AI)やロボットが一部の労働を奪い去り、働くエネルギーや所得を失ったボクらはベーシックインカムを頼り、「あちら側」からやって来る情報に従って消費を繰り返し、2次元(せいぜい VR・AR・MR)の中に動物的自由のはけ口を求めるようになり、それで結局、自分は生物として生きているのかいないのか、さっぱり分からなくなりそうです。

 

そういう社会になるかどうかは、1人ひとりの意思というよりも、ネットでつながった世界中の脳ミソの総体としての合成ベクトルが指す方向によって決まることであり、1人ひとりが個人的に足掻いたところでどうなるものでもないのでしょうが、胎児期を無事に過ぎて生まれ出た人間としては、そういう「生きる/生きない」を選択する自由が残されていることを心の片隅にでも置いておくことでそれも1つの「総体」になり得るってことを、忘れちゃダメなんじゃないでしょうかね。

 

 

 

さいごに

ネット(網)によってボクらは、人間としての「生きる/生きない」すら考えることなくただ消費を繰り返していくシステムにひたすら取り込まれようとしているみたいですが、「生きる/生きないの自由」だけは、自分自身でいつでも選択できるように、いつも意識して手元に留めておきたいものです。

 

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