
少子化問題を仮説に基づいて考えてみたら(↓)、意外にもたくさんの反響をいただいて、賛否いろいろある中でも、「生殖 → 出産」という生物としての「ごく普通」の営みに対する危機感や「少子化」という国家としての憂慮がたくさんの人の中にあることが分かり、ノンキな言い方ですが、少し勇気づけられました。
上の記事にも書いたように、人口減少そのものは、それほど悲観するほどのことでもなく、人が減ったら減ったなりの国家の在り方ってものがあるのでしょうが、人口構造が「棺桶型」の日本は、今後の人口減少予測が「半端ない」状況にあるのは確かです。
20 ~ 30 年後に掛けて、特に経済面で想像を絶する数々の衝撃が走ることになるのでしょうが、その衝撃を少しでも和らげる意味では、やはり少子化にもう少し歯止めがかかった方が良いのかな、とは思います。
現代人のライフコースにおける少子化
そんなことを考えていた昨日、とても面白い記事を拝見しました。
ホワイトカラー的・ブルジュワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。
ブルジュワ化した庶民は、ブルジュワのように意識してブルジュワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。
そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムで間に合わせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。
意識と働き方ばかりブルジュワ化して、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。
生殖という観点からみても、ブルジュワは、打倒すべき対象ではないだろうか。今のところ私は、生殖という観点からブルジュワの理想と現実について批判している論説を見たことがない。
ここで述べられているブルジュワ化(高学歴志向+勤勉な労働)と生殖との関係については、冒頭の過去記事にも書きましたが、内閣府経済社会総合研究所「経済分析」185号(2011年)の論文「相対所得が出産に与える影響」を読んでみると、以下のようなシナリオが見えてきますので、上記の論点に対する1つの裏付けにはなるでしょう。
いずれにしろ、ホワイトカラー的な意識・働き方を専業主婦が主に支えてくれていた時代に、「男女平等」の機運が高まって、子育ての代替手段が不十分なままに女性の高学歴化・社会進出が浸透し、気付いてみたら、女性の労働力に頼らざるを得ない社会状況にまで到達しつつあるわけです。
流れとしては、かつてはブルジュワの大半が男性であったが、女性にもブルジュワ化の波が押し寄せ、社会全体としてブルジュワが増殖する中で、生殖・出産・子育てという「意識だけブルジュワ」の最も「邪魔」になる営みが後回しにされてきた、ということなんでしょうね。
もちろん、「ブルジュワ化」といっても、大学進学率が 50%、専門学校を含めても進学率 70%ですから、ブルジュワ化だけが少子化の原因(の可能性)ではなく、出会いの少なさ、価値の多様化、子どもに対する忌避感などなど、少子化現象はさまざまな要因の帰結であることは言うまでもありません。
一世代限りの「ブルジョア」
生物学的な観点では、生殖や出産は「種の更新」が目的である、と聞いたことがあります。
生物の体細胞は、毎日刻一刻、死んでは生まれる、という「細胞の更新」を繰り返していますが、ある年齢まで達すると、その「細胞の更新」では効率が悪くなるため、生殖・出産によって次世代を作ることにより、「種の更新」を行う、ということです。
近世以前の「本家ブルジョア」は、豊富な経済・人的資本を頼りに次世代を残し、蓄積した資本を次代・次代へと引き継いでいくことができました。これにより、時代を超えた「ブルジョアチェーン」を築くことができたわけです。
ところが、現代の「意識だけブルジョア」は、資本が潤沢ではないのに意識だけがブルジョア化してしまったことで、「種の更新」の危機にさらされています。
つまり、日本に限らず、社会が発展して総ブルジョア化が進む先進国では、一世代限りの「ブルジョア」が必然的に増えていくと考えられます。
「何者」な人生と「只者」な人生と

そんなブルジョアジーは、現代風に言えば(高級)ホワイトカラーであり、すでに高等教育という大層なものを身に付け、社会契約の中で人や世のために役立つ「何か」を成し遂げようとする「何者か」なわけです。
「何者か」になるため、前世代から多額の資本提供を受け、自分自身でも相応の「努力」「時間」という資本を注ぎ込んで完成された「何者」ですから、前世代からのそれなりの期待もあるでしょうし、自分自身で「失敗できない」という束縛もあるでしょうし、また、次世代にもなるべく高い学歴を授けたくなるでしょうし、そうやって、前世代・当世代・次世代からのプレッシャーの中で生きている「何者」とも言えそうです。
資本を投下された時点で、(少なくとも意識の上では)すでに「只者」として生きていく道を絶たれてしまっているのかもしれません。
ゴールがはっきりしないホワイトカラー
現在、サッカーのW杯ロシア大会が「半端なく」盛り上がっています。

日本代表のW杯は今朝で終わってしまいましたが、応援していた子どもたちの中には、サッカーという世界で「何者か」になろう!と決意した人も少なからずいることでしょう。
たとえば、このようなスポーツの世界では、「プロになる」「W杯に出場する」「オリンピックに出る」「優勝する」など、比較的目標が明確です。
当然、スポーツに参入する人は多く、上には上がおり、激しい競争が待っているわけですが、割りと明確な目標や年齢的な限界も含めて、「ゴール」を設定しやすい環境でもあります。
一方、普通のホワイトカラーには、分かりやすい「ゴール」というものがありません。
「ここまでやれば完全燃焼」というゴールがはっきりしない中、次世代に資本を投下してやれる確証もないまま、自分の「何者道」を次世代に譲ってあげる、という発想はなかなか出てこないでしょうし、そもそも困難なことです。
でも、経済資本も人的資本も潤沢なわけではないのに、意識や働き方だけが「何者か」になってしまっているのであれば、自分の「何者道」から時間を捻出して、それを次世代に割り当てるしかありません。しかも、時間を削りながらも、次世代に投下したり受け継いだりする「資本」は準備しなければならないわけで、時間と資本の両立という無茶な現実が日本全体を覆っている状況です。
次世代は「何者」か「只者」か
時間と資本の両立が無理なら、どちらかを犠牲にしなければなりません。
(次世代のために割く)時間を犠牲にするなら、自分の「何者道」に没頭して、ある程度の資本を準備することができます。ただし、その資本を投下する対象を持てない可能性が高くなり、良くも悪くも、生物(動物)としての生き方を少し犠牲にして、より「人間的」な生き方をすることになるのでしょう。
一方、(次世代に投下する)資本を犠牲にするなら、自分の「何者道」から次世代に割り当てる時間を捻出することはできますが、「次世代にもなるべく高い学歴を授けてやる」といった目標は、少し犠牲にせざるを得ない状況が訪れます。
それで子世代が「何者」か「只者」か、何になるのかは複雑すぎて分かりませんが、少なくとも親世代からのプレッシャーや自分自身での「何者」プレッシャーはなくなり、意外に有意義でハッピーな「只者」人生を送れるかもしれませんし、特に資本がない中でも「何者か」に化けられる可能性も少なからずあるでしょう。
ただ、こういう現実(↓)も確かにあるため、「只者」が「只者」として「只者人生」を全うできる可能性は低くなるばかりです。
社会の中では、只者には只者の、何者には何者の役割があるでしょうし、その方が健全でしょうし、「只者」になったらなったで、「何者か」を目指す悦びを再認識できる場合だってあるでしょう。そうやって目指す機会が閉ざされることだけは、絶対にない社会になって欲しいものです。