
勉強をするのは、親のためでも、学校や塾の先生のためでもないし、お金儲けや、他人を打ち負かしたり欺いたりするためでもない。そんな理由や意味付けは、残念で勿体ないだけだ。
「~のため」という理由なら、もっとほかにあるだろう。そう、あれだ。
「自分」を売らないため
フォロワ数や「いいね!」がお金よりも大切になる「評価経済社会」の到来が言われて久しいが、実名顔出しで自分自身を削ってダシをひくように「消耗」し続けるインフルエンサーを見るにつけ、「そんなに『自分』を切り売りしなくても・・・」と心配になる。
そういうやり方が好きなら良いが、「自分自身」というリソースが枯渇する恐怖と追いかけっこしたくない人は、やめておこう。
今後は、時代を形作る要素として「テクノロジ」の寄与がますます大きくなると考えられるため、特に理系であれば、勉強すればするほど技術や知識が蓄積され、それらが鎧となって我が身を守ってくれる。そうなれば、「自分」を売る必要など無くなるだろう。
自分らしさを見つけるため

自分らしく生きようと思ったら、好きなことで活躍できるのが一番だろう。
でも、余程の幸運でもない限り、活躍できて食べていけるほどの「好き」に出会える可能性は低い。「元イチロー」のようにはなかなかいかない。
詳しくは過去記事『【一般ピープル人生論】「デキる」と行動を増やした先の「自分らしさ」』に書いているが、「好き」にたどり着こうと思ったら、「やりたい」と思うことを増やすのが近道だ。そして、「やりたい」ことを増やそうと思うなら、「デキる」を増やすことがそのきっかけになる。その「デキる」を増やそうと思ったら、勉強するしかない。
競争しないため
ボクは競争が苦手だ。というか、競争心がほぼない。HSP の強い傾向があるため、他人の心が自分の中に同居してしまい、勝っても素直に喜べないし、負けても素直に悔しがれない。
スポーツは好きなんだが、個人競技や自然を相手にする競技をずっとやってきたし、勝っても負けても、心の中では自分が勝ったのか負けたのか分からなくなることが多い。
とにかく他人と競いたくないのだが、残念ながら資本主義社会というのは、競争することがベースにあるため、競争を避けて通るのが難しい。
そこで、勉強だ。
たくさん勉強して、誰もいない新しい分野(あるいは、既存分野の新しい組み合わせ)を開拓すれば、そこにはブルーオーシャンが待っていることもある。また、特定分野をとことん極めてしまえば、もはや誰とも張り合う必要がなくなる。競争のない世界だ。
フリーランサーとして十数年を穏便に過ごせたのは、競争しなくて済む環境を追い求めたことも大きく影響していると思う。
本を卒業するため
以前は、こういう類の書籍を手にするのが心地よかった。読めば読むほど、自分が賢くなれるような気がするからだ。
でも、ビジネス書やハウツー本は、もうそろそろいいかな、と思えるようになってきた。それぞれの内容は十分にうなずけるし、電車移動の際などに読むのにちょうど良いのだが、新聞・雑誌やネットニュースを日々追いかけ、自分の中でそれらを咀嚼して蓄積していくと、どの本にも既視感しか感じられなくなってくる。1冊読んでも、新しい出会いというものがほとんどなくなってくる。
また、同じ著者のビジネス書を追いかけていると、表現は異なれど内容は焼き回しということがしょっちゅうある。最近、特にその傾向が強いように感じられる。
勉強してビジネス書やハウツー本から卒業できれば、それに費やしていた時間をほかのことに回せるため、とっても効率が良い。その後は、若かりし頃のように、また小説の世界に戻っていくことになるのかな。
相手を理解するため
自分にだけ都合よくビジネスを進めるのはラクだ。
以前、国のある省庁から受注した大きなプロジェクトで、下請け会社がでっかい不具合を連発してしまい、プロジェクトがまったく進まなくなる事件があった。こういう時、下請け会社を責めるのはラクなこと。下請け会社の責任でもあるわけだからね。
でも、商売の基本は「三方良し」だから、責任のなすりつけ合いをしていても仕方ない。そんなことより、不具合が発生した分野の技術を勉強し、相手企業の能力や体力を推し量り、全体スケジュールを把握し、その上で「三方良し」に持ち込みたい。
ビジネスで一番難しいのは、利害が対立する中で、誰もが納得できる最適解を導きだすこと。その「三方良し」を実現するには、相手のことを勉強して理解するしかないし、その上でいくつかのシナリオやストーリーを描けるようになるしかない。
「生きる意味」を考えないため

現代社会は、ありとあらゆることがシステム化され、がんじがらめの中で個人の選択は制限され、主体性を捨てて受動的に生きることを半ば強制されるような社会であり、それが「生きにくさ」となって現れているように感じられる。受け身に過ごしていては、「生きる意味」が分からなくなり、その呪縛に囚われ続けることになる。
一方で、「勉強しよう」という意志は、強い自主性がなければ湧いてこないものであり、ものすごく能動的なものだ。つまり、「勉強しよう」と思うこと自体が、強い自主性や主体性の発露であり、何物にも囚われない自由への疾走でもある。勉強は、自分次第でどこまでも遠くに行けるし、どこまでも深く潜っていける。
その能動性があれば、もはや「生きる意味」に囚われることなど無くなり、「生きる意味」を悶々と考えることなく軽い足取りで進んでいけるんだろう。
さいごに
結局、勉強するのは、すべて「自分のため」ということだと思っている。
そうやって「自分のため」に勉強したことが、少しでも社会や世界の役に立てば儲けものだ。