日産のカルロス・ゴーン前会長の虚偽記載や私的流用のニュースが連日報道されて、お金とは何なのか、組織とは、仕事とは何なのか、いろんなことを考えさせてくれるけど、若者や子どもの目には、どんな「トップ像」が映っているんだろう。
社長・CEO のトップ像
もしボクが子どもだったら、「社長(会長)って、たくさんお金もらえるんだなぁ」と思う反面、「10 兆円もの売り上げを誇る会社のトップにしては、意外にケチっぽいことをやるもんだなぁ」と思っていたかもしれないし、思っていなかったかもしれない。
今も昔も『社長(今なら CEO)』って、若者や子どもには特別な響きがある。お金をたくさんもらえるイメージや、自由に権力をふるえるイメージが魅力的に映るんだろう(実際には、そう簡単なものじゃないけど・・・)。
そういった「お金」や「権力」のイメージを含みつつ、会社や社員を引っ張ったり、社業を通じて社会に貢献したりする姿から、「社長=立派」というイメージも、ボクが子どもの頃なんかはボンヤリと持っていた。
でも、今回の事件のように、トップが会社というハコモノを利用して私腹を肥やしていたり、どこかの芸能プロダクション社長がしゃぶしゃぶ鍋で殺人的なパワハラを行っていたり、そういうおかしなトップ像を日々見せつけられるにつけ、社会の公器たる企業のトップに対する憧憬や尊敬の念が社会全体で少しずつ崩れていくことが、とても残念でならない。
ポストが人を育てない時代
「ポスト(地位)が人を育てる」とはよく言ったもので、部長なら部長、社長なら社長という地位を与えられた人は、その役職に恥じないように、その役職に対する周囲の人々の期待を裏切らないように、その役職に見合った人格者となるべく、一心不乱に努力するもの、というお約束があった。かつては。
今や、どこかの国のトップが、暴言や罵詈雑言を一心不乱(かどうかは知らないが・・・)につぶやく時代だ。どこかの国のトップが、いちいちクマを締め出す時代だ。
教師や監督などの指導的立場にある人間がパワハラやセクハラなどに汗を流し、医師が無免許で高速道路を暴走したり盗撮に汗を流したり、社会を守る立場の警察官が万引きや盗撮に汗を流したり落とし物を詐取したり、社会的強者が弱者にツルハシをせっせと売りつけたり、資産家が「寄付」と称する寄付でもない納税を推奨してみたり、そんな時代だ。
卑近な例でアレだけど、かつては地域の名手や有力者が務めていた PTA 会長が、今や自営業者の宣伝目的や目立ちたがり屋の自己満足目的、学校をあらぬ方向へ導きたがる者の似非改革目的で目指すポストになってしまっている。
「老人(高齢者)」というポストも何となく変容している。「高齢者だから」とステレオタイプに決めつけてしまうのは良くないが、昔は高齢者にもう少し包容力のような深みのようなものがあった気がする。高齢になってまで若者と競ったり、無理に若作りしてみたり、子どもを敵視してみたり、そんなに頑張らなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。こういう時代だから仕方ないのかな。
昔もあったよ。でも今が昔と違うのは、そういうことを特に隠さなくなったし、そのポストでそうすることに対する「羞恥」の心が欠如してしまっているように思う。
「ポストが人を育てる時代」は、遠い昔の話になってしまったのだろうか。あるいは、「ポストが人を育てる」なんていうのは、単なる迷信か、はたまたポストを手に入れた人間が「自分は育ってるぜ!」と周囲に勘違いさせるための妄言だったのか。
「総ツッコミ」社会がもたらすポストの無価値化
どうして「ポスト」の価値がこれほどまでに毀損されてしまったのか?
理由はいろいろあるんだろうけど、ネットや SNS の普及で、今まで見えていなかったものが可視化され、それに対してあらゆる人間がツッコミを入れられる環境が整ったことが、一番大きく影響しているんじゃないかと想像する。
たとえば、ある会社で不祥事が発生した場合、それが報道されるや、たくさんの人々を巻き込んだツッコミ合戦が始まる。そこには、不祥事から教訓を得ようとする向きもあれど、多くは単なるネタやツッコミの材料として、時には嫉妬や羨望の感情から、はたまた関係者の容姿の揶揄に至るまで、誰でも好き勝手に投稿し、誰もが容易にアクセスできる環境がある。
1つ1つのツッコミは小さなものだけど、それが積もり積もって、ポストの価値が貶められていく。順調な時は全員で持ち上げ、不調になった瞬間に全員が一斉に手を引く姿は、今回の日産のニュースにも当てはまるような気がする。
またまた卑近な例でアレだけど、我が子の小学校のクラスでは、LINE グループ がしっかりと出来上がっていて、担任の先生や参加していない保護者のことをアーでもないコーでもないと日々やり取りしている、とツマに聞いた。今や、日本中の学校で同じことになっているんだろう。たぶん。担任の容姿がどうこう、担任がどこそこで買い物してた、云々。
そうやって、あるポストの人物に色んな「人間らしさ」を噂含みでわざわざ付与していくことで、そのポストの価値が少しずつ低下していくんじゃないかと思う。
ポストに就いている側もこういうことを学習していくため、「どうせツッコミが入る」という諦念のような絶望のような気持ちから、ポストの価値を毀損し得る行為に対するブレーキが効きにくくなる。あるいは、ポストに就いている間に、そのポストでしか味わえない甘い汁を吸い取れるだけ吸い尽くそうと頑張ってみたりする。それぐらいしか、ポストにしがみつく意味がなくなってしまう。
やがて「ポスト」が「ポジション」になる
気付いてみたら、「ポスト」は「ポジション」になっている。
高いところから 360°全方位を見渡せる立場なのに、いつも同じ方向だけを向いて、気持ち良いレスポンスが返ってくる方向だけを向いて、ひたすらポジショントークに没頭する。

高コストになって困る
ポストの価値が下がろうとも、ポストがポジションになろうとも、自分に関係がなければ「まぁいいか」で済みそうなところだが、いろんな場面でコストが高くついてしまうから、それはやっぱり困る。というか、面倒くさい。
公立には魑魅魍魎な先生がたくさん住んでいそうだから子どもを私立に行かせる。近くの病院の医者は信用できなさそうだから、わざわざ遠くの病院へ受診に行く。警察や弁護士に相談したいことがあっても、逆に何かに利用されそうで怖い。インフルエンサーに乗っかりたいけど、逆に何かに利用されそうで怖い。高齢者が怖そうで子どもを自由に育てられない。国のトップの言うことは信用できなさそうである。
それぞれのポストにある人間が、それぞれのポストに応じた、一般人より少し高級な役割を果たしてくれさえすれば、安心してそのポストに身を委ねることができるのに、そうじゃないから、いちいち確認する時間やお金がひたすら掛かる。
「ポスト=信用」が成り立つ時代をそれなりに知っているから、「ポスト≠信用」になりつつある社会がとても面倒に思えるし、コストが馬鹿にならない。
子どもたちに「ポスト=信用」が成り立っていた時代の話をしてみたら、「楽でいいなぁ」と言っていた。子どもなりに、「ポスト≠信用」になりつつある時代の面倒な空気を感じているんだろう。
人が「ポスト」を育てる時代
ポストに対する尊敬や畏敬の念が枯れてしまったり、「ポストに就いても成長できない」という考えが若者や子どもに蔓延してしまったりすると、人よりも少し高いポストを目指そうとする気概なんて、どこかへ吹き飛んでしまいそうだ。
そうなると、ツッコミを受ける機会の多いどこかの組織のポストにわざわざ就くより、フリーランサーとしてやっていこうと思う人が増えるかもしれない。実際にフリーランサー人口は増えているし、国内志向や地域限定社員志向が強まっていたり、校長先生の成り手が減っていたりするのも、そんなことが影響しているのかもしれない。
結婚もある意味、「妻」「夫」というポストに就くイベントだし、出産も「父」「母」というポストに就くイベントだけど、そのようなイベントが減ってきているのも、ひょっとしたらそのようなポストに対する忌避感が影響しているのかも、などと思ってみたりする。
今後は、「ポストが人を育てる」のではなく、あるポストに就いた人々が、それぞれのポストを育てていく時代になるのかもしれない。タフなポストにわざわざ就こうとする物好きで奇特な人たちが、そのタフさでもって、落ちぶれた各ポストの価値を再び高めてくれるかもしれないし、かつてない新たなポストを確立していくのかもしれないし、落ちぶれたポストはやっぱり落ちぶれたままかもしれないし、それは分からないけどね。
さいごに
何にでも当てはまることだけど、価値や信用って、貶めるのは簡単なこと。でも、一度下がった価値や信用を取り戻すには、失うことの 10 倍以上の年月や努力を要するとも言われる。
1つ1つのポストをもう少し尊重できるようになれば、社会の無駄なコストも無くなって嬉しいんだけどね。