先日、ある年配者と話をしていて、「今の世の中は、好むと好まざるとに関わらず人々がバーチャルな世界に引き込まれ、その中で1%の勝者と 99%の敗者に分かれていくみたいだけど、よく分からん!」と言われました。
おそらく、そういった内容のテレビ番組を見たか、雑誌でも読んだのでしょうね。
この方の言う「バーチャル」とは、ネットや SNS やゲームの世界のことなんでしょうけど、これらの類が生活の一部となったのは今世紀に入ってからなので、それ以前に現役バリバリだった人には、感覚的に把握し難い世界なのかもしれません。
ボク自身、仕事ではテクノロジにどっぷりと浸かりながら、一個人としては「バーチャル」よりも「リアル」の方が好きですし、システムの外側で自由や面倒を謳歌して生きていくことにある種の喜びを感じていて、それについては過去記事にも書いた通りです。
自分の「得意」と「好き」に傾斜していった結果、「テクノロジ」「子育て」「漁業(釣り)」「農業(畑仕事)」にマイリソースを1/4ずつ配分できれば気持ち良いかも、と思うようになりました(現実はまだまだですが)。
自分の生き方を顧みつつ、冒頭の年配者の「よく分からん!」を考えてみたいと思います。
四半「技」
これまで、エンジニアとして組織に属したり属さなかったりしながら、航空機関連の開発、ハード/ソフト含めた技術的コンサルティングや技術動向の調査、プランニング、翻訳などの仕事に従事してきました。
どれか1つでナンバー1を目指すのではなく、ナンバー?のワラジをいくつか履いて、その掛け算で生きてきました。単に性格が「飽きっぽい」だけなのかもしれませんが、仕事の成果も人脈も、それぞれのシナジーが意外に働いて、結果的に生き永らえています。
四半「育」

基本的に、家事も育児もツマにだけ任せておくのは「もったいない!」と思っています。たぶん、仕事でワラジを何足か履くことと似ていて、家事や育児に関わることで見えるシナジー的な「何か」を求めてしまうんでしょう。
そんなわけで、特に子どもが生まれてからは、仕事に割くマイリソースの一部を家事や育児に割り振るようになりました。
四半「漁」
若いころから釣りが好きで、海や渓流にたまに出掛けます。釣りの「技」を極めたい、ということではなく、自分で獲物を捕獲して自足できることに喜びを感じるタイプです(そんな「タイプ」があるのかどうか知りませんが)。
釣りの良いところは、季節を問わず、現場に行けばとりあえず何か「食べ物」にありつける可能性が高いこと。もちろん、小物しか釣れなかったり、完全にボウズだったり、「食べ物」にありつけない日もありますけどね。
四半「農」
これについては、今のところは何も具体化していません。ただ、実家で畑をやっていて、たまに手伝ったり、ご近所から野菜をもらったりして、そうやって食糧を調達できることに喜びを感じています。いくら仕事ができようとも、食糧にアクセスできなければ所詮は生きていけない、といつも思うからです。
個人的には、世界的な人口の増加、温暖化、日本の国力の低下(の可能性)などを考えると、そう遠くない将来に食糧の争奪戦が繰り広げられるのではないかと危惧していますので、食糧を自給できるだけの空間と体力だけは残しておきたいなぁ、なんて考えます。そうならない未来を望みますけどね。
「バーチャル」に生きる必要なんてない
ネットのニュースを眺めたり、テレビを見たり、書籍に目を通したりしていると、GAFA (Google、Amazon、Facebook、Apple)の文字を見ない日はないですし、中国の IT 企業の躍進ぶりに目がいきますし、日本企業を含めて、そういった企業が消費者の囲い込みに躍起になっていることも分かりますし、そのような1つ1つの経済活動が国力に結び付くことも分かりますし、富国を目指さなければやがて国が滅びてしまう可能性だって否定できないことも分かります。
でも、一歩引いて考えてみると、それらすべてが「バーチャル」なわけです。

冒頭の「よく分からん!」に対してボクが思うのは、「ごくごく個人的な視点に立てば、別にネットも SNS もゲームも、何1つ要らない」ということです。
釣りや畑仕事をしていれば、食うに困らないだけの食糧を調達できることは分かっていますし、子育ては、ネットや SNS がなくてもどうにでもなりますし(というか、子どもと真に向き合うなら、バーチャルは邪魔でしかありません)、現時点では仕事自体をゲームのように楽しめています。
そもそもの考え方として、「システムの内側」でバーチャルに取り込まれれば取り込まれるほど、人間としての自由が失われるような気がしていますので、そのような世界を敢えて遠ざけ、いつでもリアルに回帰できる心構えだけは忘れないようにしています。
ですので、「人々がバーチャルな世界に引き込まれ、その中で1%の勝者と 99%の敗者に分かれていく」と言われても、「リアルに生きればいいだけでしょ」としか思わないのです。「未来にはバーチャルな世界しか残されていない」という言説を見るにつけ、頭の中は「?????」でいっぱいになります。
リアルに生きることと「中庸・中道」と
もちろん、リアルに生きるためには、リアルの世界の「平和」が保たれていることが前提になりますし、ちっぽけな個人が「リアル」を求める自由など、ひとたび戦争が起こって他国に占領され、その他国の法律が適用されれば、簡単に剥奪されてしまう場合もあります。個人の自由は、国力と平和があってこその贅沢品なわけです。
そう考えると、ボクのようにやたらに「リアル」を希求するよりも、みんながバーチャルの世界に拘泥して、人工知能(AI)も巻き込みながら、バーチャルの世界でワチャワチャと争っている方が、リアルな戦争を回避できて良いのかもしれません。
究極的には、戦争という破壊とその後の復興をセットにしたリアルに「生きる意味」を見出すか、「1%の勝者と 99%の敗者に分かれていく」世界でベーシックインカム(BI)でももらいながらバーチャルに「生きる意味」を見出すか、その中間に「生きる意味」を見出すか、ってところなんでしょうかね。
前者2つは、何の才能もないボクら庶民にはどうにもコントロールできず、とても不自由な世界です。だから、庶民としては、どちらか一方に極端に偏ることのないように、中庸・中道を見極めたいところなんですが、その中庸・中道ってのは「面白くないもの」の代表のような位置づけですから難しいんですよね。だから、お釈迦さんも口酸っぱく説いているのでしょう。
あとがき

ボク自身は結果的に気持ちが良いため、四半「技」四半「育」四半「漁」四半「農」な生き方に没頭できていますし、中庸・中道の「退屈」も上手く回避できていると思います。
そして、副業や複業がもっと一般的になったり、結婚・出産の自由度がもっと高くなったり、都会と田舎を自由に行き来できるようになったりして、たくさんの人がたくさんのワラジを履けるようになれば、両極端に偏ることなく、中庸・中道の「退屈」も回避しながら楽しく生きていけるんじゃないか、などと妄想しています。
最近読んで面白かったこちらのテーマに関しても、
親が何足もワラジを履いていれば、親自身が「ギリシア人の家庭教師」になれなくもないんじゃないか、と思ったりしています。「なる」というよりは、親の背中そのものが「家庭教師」になりそうな気がします。