人間の記憶は結構あいまいなもので、楽しかったことは当然覚えていますが、それよりも苦しかったことを鮮明に覚えていたりします。
また、苦しかったことの中でも、それが良い結果につながった場合は、苦しんだ思いまでが美化されて克明に記憶されていますし、悪い結果にしかならなかったことはメモリからこぼれ落ちている場合も少なくありません。
パワハラの根本原因

今、スポーツ界のいろんな所でパワハラの火の手が上がっていますが、根本にある原因は、このような人間の記憶の曖昧さだと思います。
別にスポーツに限ったことではありませんが、パワハラの有無と成果(結果の良否)をごく簡単に表してみると、こんな感じでしょうか。

理想的なのは、パワハラなしで成果(優勝など)を上げられること。天国です。社会人やプロは別として、中高生相手にこのような結果を出せる指導者がいるとすれば、神様のような存在でしょうね(実際にいると思います)。記憶もお花畑状態です。
パワハラなしで成果も上がらなかった場合、それは至って普通のこと。最近は、結果を求めるグループと、結果を求めず楽しむためのグループとに分けて指導している中学校の部活もあるみたいですが、後者がこれに当たります。
一方、パワハラばかりで成果が伴わないと、地獄です。このような指導者は自然に淘汰されていくでしょうから、ほとんど見掛けません(見掛けた方は教えてください)。
「パワハラあり × 成果アリ」
そして、残る1つが、「?」で表したケースです。
現在、テレビなどで取り上げられているパワハラ問題のほぼすべてが、この「パワハラあり × 成果アリ」のケースではないでしょうか。
ここで冒頭の記述に戻って、
つまり、パワハラは、結果次第で良い思い出にも悪い思い出にもなり、だからこそ、同じパワハラを受けた選手の中でも、結果を出した人と出せなかった人との間で賛否が大きく分かれて、答えの見つからない問題となってしまうのでしょう。
※ もちろん、良い結果が出たからといって、すべての人がパワハラを美化できるわけではありません。
特に中年以上の世代でこの傾向が強いのに対して、今の若者は、人権や男女平等の教育の影響を強く受けており、SNS 等でのつながりや情報摂取も容易な環境ですから、いくら結果が出ていようとも「パワハラ NO!」ということになり、中年以上と若者とでは、意識の差がますます広がっていくことになります。
時代は明らかに「?」から「天国」あるいは「普通」へと移り変わっているのに、旧世代の指導者の意識も技量もなかなか追い付きません。とは言え、自らの経験から、中高生相手に(厳しい口調で指導することも含めて)パワハラなしで、どこまで指導できるのだろう、という心配もあります。
こちら(↓)の記事にも書いたように、少なくともボクらの青春時代には、先生も生徒も力づくの闘いでしたので、いくら穏やかな時代になったとは言え、優しい言葉だけで生徒を鍛え上げるのは、至難の業だと思います。難しいですよね。そう簡単に素晴らしい方法が見つかるとも思えません。中学生のムスメAの部活顧問も、さすがに手は出ませんが、口はかなりスッパ目です。
会社も子育ても同じようなもの
でも、時代は移ろいゆくのです。
ボクが就職したころは、パワハラなんて割りと日常の風景でした。おそらく、「仕事が生きがい」という「常識」の中で、上下関係なく誰もが熱くなれた時代だったのでしょう。でも、気が付けば、お客さんのような新入社員が入ってきて、パワーでしか部下を鍛えられない上司は、すぐに「クソ ダメ上司」の烙印を押されてしまいます。
同じようなことが、子育てにも当てはまります。
ボク自身が小学受験も中学受験も経験していないので、ちょっと極端な考え方になるかもしれませんが、たとえば子供に受験させたり、良い学校があると聞きつけてわざわざ子供のために引っ越したり、ということも一種のパワハラのような気がしています。親としてお金や時間を掛けて子供に多大な期待をすることは、(それを口に出して言おうものなら特に)子供にとって大きなプレッシャーとなるからです。
などと言いつつ、自分も子供に受験を経験させていますので、自戒を込めて以下のように考えています。
なるべく「?」に偏らず、「天国」と「普通」の間を彷徨っているような感じです。
パワハラと「生きる意味」
でもでも、「天国」と「普通」の間を彷徨うのも、これはこれで結構難しいわけです。
青春を過ぎて大人になると、すごい熱量の「情熱」を持たずして「何者か」になることなどできない、ということがボンヤリと分かります。これ、ほとんどの子供には分からないと思いますので、残念ながら、ほとんどの人が子供を終えてから漸く気付くことです。
そして、「情熱を注ぐことこそが、唯一の『生きる意味』なんじゃないか?」というような考えも、いろんな経験をした上でやっと辿り着く場所だと思います。
若い時分から情熱の中を駆け抜けてきた人は、最初から情熱の大切さが分かっていたのでしょうが、いずれにしろ、そういう場所に辿り着いてみると、今度は、その行き場のない「情熱」を次世代の子供たちに傾けようとする。そんな流れがあるんじゃないかと思いますね。
そんなわけで、大人から子供へのパワハラというのは、「生きる意味」に何となく気付いてしまった大人から、「生きる意味」に気付いていないであろう子供への、何とも人間らしい哀れな意思表示みたいなものと考えられます。
戦後 70 年以上経ち、「生きる意味」の輪郭がぼやけていくこの時代には、大人から子どもへの哀れな意思表示がますます強くなるのかもしれません。
さいごに
一番の解決策は、子供自身がほとばしる「情熱」を見せつけてくれることです。それさえあれば、もはやパワハラなど不要で、大人は子供の背中を押す立場になれます。
でも、子供には子供の「生きる意味」があり、大人には大人の「生きる意味」があり、両者が合致しない限りは、大人が満足できるだけの情熱を子供が示すことなど無理でしょう。だから、大人は子供にどう接するべきか、いつも悩むわけです。
もちろん、パワハラ行為を許すわけにはいきませんが、上のように「生きる意味」を過剰に追い求める結果として起こるのなら、撲滅はますます困難になるかもしれません。人間の悲しい性です。