
高齢ドライバの交通事故や金融庁の「老後資金 2,000万円必要」報告書などが世間に衝撃を与える昨今、「老後」のイメージはますます暗いものになってきている。とっても暗い。人類史上、最も「老後」が暗いと誰もが思い込まされる時代になったもんだ(ホントに人類史上「最も」かどうかは知らん)。
65歳になるまでに 2,000万円(本当は 3,000万円?)貯まるとも思えないし、老いるばかりの頭と身体で、人生 100年時代のラスト 35年間(!)の「ヒマ」をどうやって潰せばいいのか分からないし、高齢者が増えすぎて医療崩壊が現実味を帯びてくる数十年後に病気を患ったら、たぶん途方に暮れてしまうだろう、とも思う。
仕事がなくなって経済力が尽きた時点で、苦しまずにサドンデス(sudden death)を迎えるのが一番幸せな生き方となる時代が来るような気もする(いや、もう来てるか)。
でも、オジ・オバ(伯父・叔父・伯母・叔母)と久しぶりに会って、考えが少し変わった。
「他人思いの子ども」のような人生
古希を超えたオジ・オバたちにも、もちろん悩み事はある。就職氷河期世代のひきこもり息子の将来であったり、娘婿の変人家族との付き合いであったり、墓じまいの進め方であったり、なかなか安寧を得られない老後である。
それでも、とにかく明るい。よく食べ、よく飲み、よくしゃべる。
そんなオジ・オバたちを観察しつつ、活力の源がどこにあるのかを考えてみて、「子どもらしさ」と「利他(他人愛)」の2つにたどり着いた。
下の過去記事にも書いたように、「生きる意味」が「子供らしさ」の中にあるという仮説は、かなり真理に近いんじゃないかと思っているが、(主に経済的理由から)中卒や高卒で片田舎に住むオジ・オバたちは、いちいちそんなことを考えなくても、自然と「子供らしさ」の中に生きている。
文字で書き起こすのはなかなか難しいけれど、とにかくいつもニコニコして、ホクホク顔でお酒を呑み、「美味いうまい!」と言いながら食事をモリモリ平らげる。昔話にゲラゲラ(オホホオホホと)笑いつつ、新しい話題にもシンシンと興味を示す。よい意味のマイペースで、いろんなことに首を突っ込みつつ、目の前の時空間を最大限楽しいものにしようと努力する。まさしく子どもだ。
一方で、子どものように自分勝手かと言えば、その部分はしっかりと大人びていて、他人を優先し、他人を持ち上げ、他人のために自分が動くことを忘れないし厭わない。というか、振る舞いが自然とそうなっている。そうやって生きてきたことを証明している立ち居振る舞いだ。利他的に他人愛を持って生きることが、巡り巡って自分たちの悦びになることをとっくの昔に悟っているんだろう。そういうコミュニティの中で生きてきた人たちだ。
そういう「他人思いの子ども」のような雰囲気が自然とにじみ出るオジ・オバたちを羨ましく思いつつ、それぞれに悩みはあるだろうけども、こういう風に力強く老後を生きられるなら、「人生100年時代」も悪くないなと思ってみたりする。
老後の「お金」
オジ・オバたちは、貧しい幼少時代を経験している。これまで何度も、深刻な表情ではなく笑いを交えながら、「赤貧洗うが如し」という言葉を教えてくれている。また、地場の斜陽産業に携わっていたため、働き盛りのころに倒産やリストラを経験しており、その後は何とか食いつないできた人生だ。だから、もらえる年金は少ないけれど、ただ「もらえる」ということに感謝しまくっている。「足るを知る」の最前線だ。
そのオジ・オバたちに言わせると、「2,000万円必要って言われても、どうせ無いし、そんなことで大騒ぎする理由が分からん」ということになる。自分たちが、それ以上ないくらいの貧乏を経験してきているが故の、率直な気持ちだと思う。身を削りながら、「老後」よりも「今」のために生きてきた人たちの目には、先(老後)のことを心配し過ぎる今の風潮が滑稽に映っているのかもしれない。
畑で野菜を作っているので、お金がなくても物々交換なり何なりで、とにかく食べることには困らないらしい。相互扶助のコミュニティは、とんでもなく強い。
「足るを知らない」ボクら世代は、個人主義の中で相互扶助の精神が薄れてしまったこともあり、将来のことをやたら心配する。そして、不安な将来を他人のせいにしようとする。それも当然のこととは言え、オジ・オバたちの豪放磊落な生き様を見ていると、「足るを知らない」状態で生きてきたことが、ただただ恥ずかしく感じられる。
頼りない政府も含めた「他者」に依存するのではなく、自ら積極的に相互扶助に関与し、自分を他人と比較することなく、それを自身の喜びとして見返りを期待せずにギブギブしていくオジ・オバたちの生き方は、とても眩しく感じられる。それが成り立つコミュニティに属しているから出来る面も大いにあるとは思うが、でも、そうやって生きる道を身をもって教えてくれる存在がいてくれることで、老後の「お金」の心配は、少し和らぐような気もする。
老後の「ひま」
現代人は、学生にしろ社会人にしろ、自己研鑽を積んでより高みを目指す「意識高い系」が少しずつ幅を利かせており、現役引退後も、勉強を通じて2度目、3度目の人生も輝けるようにしようという風潮がなくもない。いや、ある。
それはそれで、自己研鑽が好きな人間はとことん勉強し続ければ良いのだが、昭和のマイルドヤンキーでもあるオジ・オバたちに、その気はほとんどない。
いわゆる文化的な教養を身に付けるよりも、畑を耕し、野菜を収穫し、魚を釣りに行き、囲碁か将棋でも指し、近所のおっちゃん・おばちゃん連中と他愛ない話に花を咲かせ、特にやることがなければ、朝からホクホク顔でお酒を呑む。
人生の「ひま」を仕事で埋めるフリをする多くのサラリーマンやフリーランサーたちは、暇を自動的に埋めてくれる「仕事」がなくなった瞬間に途方に暮れてしまうが、オジ・オバたちにとって、「ひま」は無理に埋めるものでもない。「自己研鑽」という悪魔のささやきには、たとえ聞こえていても聞こえないフリをする。
現役を引退したら、自己を高めることなどさっさと放り出して、お酒でも呑みながら、目の前の「やりたいこと」を淡々とやればいいんだよ、ということを教えてくれているように感じる。それができるのも、お金の心配が特にない(足るを知ってしまっている)からだ。
老後の「病気」
オジ・オバたちは、それぞれに多少なりとも持病はあれど、目立って大きな病気は患っていない。遺伝の影響もあるだろうけど、お金のことを深く心配せず、人生の「ひま」と上手に付き合いながら、「明日は明日の風が吹く」的なその日暮らしをできていることが、精神的に好影響を与えているんじゃないかと思う。
常にお金のことを心配し、「ひま」に押しつぶされそうなりながら、先々のことを心配ばかりしていれば、精神がやられてしまうのは時間の問題だ。精神がやられると、それはやがて身体の不具合となって現れる。
まだまだ長生きしてくれるとは思うけど、やがてその時がやってきたとして、それでもオジ・オバたちは、ニコニコ・ホクホクしながら、穏やかに人生の終着駅にたどり着くことになるだろう。特に大きなことを成し遂げるわけでもなく、特に大きな財産を残すわけでもないだろうが、少なくともその「他人思いの子ども」のような生き様は、閉塞感の漂う現代社会を生きるこのボクに、大きな教訓を残してくれるにちがいない。と、思わせてくれる、大きな何かを持っている。ような気がする。
あとがき
「老後」というものに暗くてブラックなイメージしか持てない今日この頃だけど、都市部とは流速も流量もまったく異なる片田舎の時間の流れの中で、「お金」「ひま」「病気」とほぼ無縁にのんびりと暮らしているオジ・オバたちの達観した姿から、「明るい老後」の在り方を少なくとも表面的にでも吸収できることはありがたい。
いつか自分も、子どもや甥・姪にとって、老後の過ごし方の参考となる日がくるわけで、その際には、「齢を重ねることって、悪くない」と少しでも思ってもらえるような老人になりたいものだ。とりあえず、今からニコニコ・ホクホクの練習をしておくことにする。