ミニマリスト vs. マキシマリスト
「ミニマリスト(Minimalist)」
2015年、新語・流行語大賞にノミネートされるほど一般に広まりました。
基本的な定義は、必要最小限のモノに囲まれて暮らす人のことです。
今も多くの人がその考え方に共感し、実際の生活の中に取り入れています。
それだけ、モノが容易に手に入り、モノがあふれて、モノの多さが生活や精神に支障を来すほどになっている、ということであり、その支障を取り払おうとする点で、「お片付け」「断捨離」に共通する考え方です。

その一方、ミニマリストの対極として、「マキシマリスト(Maximalist)」という考え方もあるようです。
マキシマリストには元々、「最大利益追求主義者」「最大限綱領主義者」といった難しい意味があります。
ただ、ここで言う「マキシマリスト」は、そんなに難しいものではなく、「自分の好きなモノに目いっぱい囲まれて暮らす人」という意味になります。
我が家では、ボクがミニマリスト寄り、ツマMがマキシマリスト寄り、という関係になります。どちらが良い・悪いということはなく、性格や育った環境によって決まるだけのことです。
一緒に暮らしていると、なんとなく考え方がミニマリズムとマキシマリズムの中間に寄っていくような気がしますので、これはこれで中和されて良いもんだと思います。
物欲という欲求
ミニマリストやマキシマリストは、基本的に「モノ」つまり「物欲」が対象です。
ところで、人は何故モノを所有するのでしょうか?
そのモノ自体を欲しいと思う気持ちもあるでしょうが、人と同じモノが欲しかったり、見栄を張りたかったり、人付き合いのツールにしたかったり、要は、自分と世界の接点にモノを置き、それによって自分の世界(存在意義)を確立しようとする場合が多いのではないかと思います。
一方、ミニマリスト的な考え方は、大昔からありました。ただ、昔はモノ不足が基本であり、その中でミニマリスト的であることは、良く言えば先見の明があり、悪く言えば奇人・変人です。
時代が下って、モノがあふれるようになり、物欲が刺激され続ける現代社会においては、人生の主導権を「消費させる側」に握られてしまっているような違和感から、アンチ消費主義の考えに目覚める人が増え、ネットを介した普及も手伝って一般に浸透しています。
では、物欲以外の欲求はどうかと言えば、やはり大昔から、「権力が欲しい」「名誉が欲しい」「長生きしたい」「永遠の命が欲しい」といった欲求は、人間にとって途切れることがありません。物欲は、このような数ある欲求の中の1つに過ぎないわけです。
そして、中道(中庸)
そして、これも大昔から、欲求に心を支配されることに違和感を感じた人々は、中道(中庸)を説いてきました。
中道(中庸)なんて、奥深くて難しくてよく分かりませんが、上のような欲求に限らず、あらゆることにおいて「極端にこだわらないこと」「普通であること」「真ん中の道」などと自分では解釈しています。
中道(中庸)に関連するフレーズをリービ英雄さんの英訳で書くと、こんな感じになります。じっ、実に奥深い・・・
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They are not mere things that appear or disappear.
Nor are they things impure or pure.
Nor do they merely increase or decrease.
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There are no eyes, no ears, no nose, no tongue, no body, no mind.
There are no sights, no sounds, no smells, no tastes, no objects felt, no realms conceived.
There are no worlds, from "there is no world of eyes" to "there is no world conceived by mind."
There are no twelve causes of pain, from "there is no ignorance, and there is no extinction of ignorance" to "there is no decay and death, and there is no extinction of decay and death."
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(引用 : 生きて死ぬ智慧)
ミディアリスト(Medialist)
ミニマリスト寄りのボクもそうなんですが、ミニマリストやマキシマリストって、結局は「こだわり」の中にいる状態です。
「こだわり」は悪いものでもなく、逆に必要だと思います。「こだわり」がなければ何も進歩が生まれませんし、こだわる前に中道(中庸)であろうとすることは怠慢です(というか、こだわりゼロの人間なんておらず、強いか弱いかの違いです)。
そんな「こだわり」は、言うなれば暇つぶしであり、人生の遊びです。これがあるから、人間は面白い。
生い立ちや気質などの影響で意図せずそうなっている場合は別として、自分の意志でミニマリズムやマキシマリズムを実践している人も、こだわることが面白いからこそ、ミニマリストやマキシマリストであろうとするのでしょう。
そして、今は「こだわり」の中にいるミニマリストやマキシマリストですが、ひとしきり「こだわり」の中で遊んだ後は、遊び飽きて中道(中庸)へと回帰し、適度にモノに囲まれたミディアリスト(Medialist)へと戻っていくのではないでしょうか。
そしてまた、別のこだわり(= 遊び)を探し求めるのです。
遊び飽きなかった人は、根っからのミニマリスト/マキシマリスト、ということになりますので、ミディアリストに戻ることはありませんし、戻らなくていいと思います。
自分にとっての「普通」を探す旅
誰しも、自分にとって居心地の良い場所を探し求めます。

そして、ミニマリストやマキシマリストという両極端な「こだわり」の間をウロウロと彷徨うのは、自分にとって居心地の良い場所を探す旅の1つと言えます。自分にとっての「普通」を探す旅です。自分にとっての「普通」は、必ずしも一般的な中道(中庸)と一致しません。
この旅は、おそらく人類にとって終わりのない旅ですから、ミニマリストやマキシマリストという「こだわり」にこだわり過ぎず、時にはミニマリストになってみたり、時にはマキシマリストになってみたり、あちらこちらを彷徨い続けるのが良いですよね。
※ 少し心配なのは、職業化です。ミニマリストやマキシマリストであることが職業になると、それが自己目的化してしまい、その先に進み難いのではないか、ということです。
育児への影響
一方、現実社会の中では、極端なミニマリズムは控えた方が良いと感じる場面がいくつかあります。
その1つが子育てです。
乳幼児は、大人から見たら無駄にしか見えないことをひたすら繰り返し、そこから色んなことを学びます。ですので、必要最小限のモノしかないと、無駄を追及できません。
多くの乳幼児にとっては、「無駄にモノが散乱していること」が普通の状態です。
また、無駄を追求するなかで、部屋を散らかし、汚して、滅茶苦茶にします。
きれいに片付いた部屋の雰囲気に慣れてしまっていると、このような子どもの行為が受け入れ難くなるかもしれません。
では、無駄の追求のため、親がマキシマリストになってモノがあふれかえっているのが良いかと言えば、そうとも言い切れません。
モノがあふれかえった光景が脳裏に焼き付いて、子どももマキシマリストの道を進むことになると思います(それが悪いわけではないですが)。
経験から、こだわりは育児の邪魔になります。