敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

結婚に負けそうなとき思い出す言葉たち[夫婦生活で学んだ理想と現実]

 

 

夫婦になって結婚生活を経験すれば、結婚前に思い描いていた理想と、結婚後に目の前に現れた現実と、その両方を誰もが頭の中で比べるはずです。

 

ボクも漏れなくその1人です。

 

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結婚の理想と現実

十数年の結婚生活を送る中で、「もうダメかも」と思うこともあれば、「(怒"!)」と思うこともあれば、「なんで?」と思うこともあり、何度もくじけそうになりました。それと同等かそれ以上に、パートナーも同じような思いを持っていた(いる!)ことでしょう。

 

原因は実にさまざまなんですが、そうやって結婚生活に負けそうになるたびに、互いに議論・協議・収拾・調整・妥協・譲歩・・・などを行って、現在に至っています。元は別々に生きてきた人間が一緒に暮らすわけですから、「これぐらいのすり合わせは当然!」と今になれば思います(最初はちっとも考えていませんでした ( ゚Д゚);)。

 

「すり合わせ」なんて面倒はやめて、あっさりと別れてしまう選択肢だってもちろんあるとは思います。ただ、何の因果か始まったこの運命的な結婚生活ですから、「その運命をとことん味わい尽くしてやろうじゃないか!」という気概だけは(なぜか)ありました。

 

一方、ボクは仕事でも何でも、「理想を言語化して自分がそちらに引っ張られる」環境をなるべく作るようにしています(というか、気付いたらそんな性格でした)。

 

仕事に限らず、スポーツでも勉強でも、理想を言語化すると成功のイメージもしやすくなり、それでイメージトレーニングなどをすることによって、その時々の目標を達成する経験を何度かできていることが大きく影響しているのかもしれません。

 

なので、結婚生活に関しても、理想なり教訓なりを自然と言語化するようになりました。

 

ちょっと前、その一部を紹介した記事で、たくさんの反響をいただくことになりました。

www.overthesensitivity.com

 

そこで、わずか十数年の若輩結婚生活に過ぎませんが、普段考えている理想や、数々の「ケンカ → すり合わせ」の経験で学んだ教訓を改めて書き留めておきたいと思います。

 

すでに結婚生活を送っている方、これから結婚をお考えの方にとって、少しでも参考になれば幸いですし、いつか子どもたちが読んでくれたら、嬉しいような、恥ずかしいような。

 

以心伝心「以心不伝心」

これは、結婚生活のマスト事項として、よく言われていることです。

 

以心伝心で自分の思いが伝わるのは、自分のことを積極的に「カワイイ」「大切」と思ってくれている相手だけ、と認識するのが無難です。

 

男女問わず、自分を育ててくれた親との以心伝心が、夫婦間でも同様に通じると思い込んでしまっていることに間違いがあります。イヤイヤ、通じません。いや、通じる場合もありますが、それを前提にしてしまうと、必ずどちらか(どちらも)が苦しむことになります。

 

報・連・相すべて、言葉を使った意思疎通がとっても重要です。

 

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ただし、勘違いされがちなんですが、何の前提もなく一方的にいきなり話そうとしても全然うまくいきません。何でかっていうと、相手の耳が「聴く耳」になっていないからです。「聴く耳」じゃない相手にいくら話し掛けてみたところで、それが脳ミソまで届くことはあり得ないでしょうね。

 

では、どうやって「聴く耳」になってもらうかなんですが、その答えは、相手の中にではなく、こちら側にあると思います。

 

つまり、こういう順番です。

 

普段、自分が「聴く耳」を持って相手の話をじっくり聞いてあげます。すると、相手の耳がだんだんと「聴く耳」になってきます。それを繰り返していると、「聴く耳」が完成に近づきます。こうやって「聴く耳」が完成してようやく、次は自分が話す番です。

 

女性が掲げる結婚条件に「4低」というのがありますが、これなんかも「子どもっぽいのイヤ」「私はアナタの親じゃない」という意思表示だと思いますので、相手に「親」であることを強いる「以心伝心」は、やっぱり好まれないんだと思います。

www.overthesensitivity.com

 

もちろん、以心伝心だけで通じ合える奇跡のような夫婦もありますし、普通の夫婦でも、長年連れ添っていれば少しずつ以心伝心に近づいているような感覚にはなります。

 

「受恩刻石(刻石流水)」

仏教経典に由来する言葉であり、「受けた恩は石に刻み、掛けた情は水に流す」と書けば分かりやすいですね。

 

世の中の常識は「ギブ&テイク」ですし、あわよくば「テイク&テイク」を期待してしまうのが人間という生き物ですが、意外に常識が通じないのが結婚生活です。

 

友人・知人の距離感は「ギブ&テイク」で成り立つものでしょうし、まったく知らない相手に対しては魔(👿)が差して「テイク&テイク」を狙おうとする輩もいるかもしれませんが、夫婦の距離感はこれらと全然違い、そのあまりにも近い距離感が関係性を難しくさせているんだと思います。

 

こういう時こそ、「ギブ&ギブ」ぐらいの心構えでいいんじゃないかと思っています。「もう何もギブできません」というぐらいまで涸れてしまうと、案外スッキリするもんです。それこそ、水に流したように。

 

かなり強引な提案ですが、多少なりとも好きで一緒になったわけですから、それぐらいの心意気があっても良いんじゃないでしょうかね。

 

「女房と味噌は古いほどよい」

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「長く連れ添うほどに、気心も知れて味わい深くなる」という意味のことわざです。古いことわざですので「女房・・・」となっていますが、もちろん「旦那・・・」にしても成り立つことでしょう。

 

たとえ2人の間で争いがあっても、それは現時点での表層に過ぎず、本当はもっと深いところに夫婦の関係性があると考えてみてはいかがでしょうか。

 

相手が熟成するまでじっくりと待てるようになれば、その忍耐は、仕事にも子育てにも、人生の色んな場面で使えるようになると、経験から感じています。

 

「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」

弁護士、宗教家、政治指導者であり、インド独立の父として知られるマハトマ・ガンジーの有名な格言ですね。

 

平昌五輪で日本の女子スピードスケート初の金メダルを手にした小平奈緒選手のインタビュー記事を読んで、改めて考えさせられた言葉です。

www.overthesensitivity.com

 

結婚生活というのは(ついでに、子育てなんかも)、基本的に変化が少なく、「いつまで続くんだろう?」という「のっぺり感」と、上にも書いたような近すぎる距離感とによって、意識しなければ、緊張感がどんどん削がれていきます。

 

緊張感が削がれると、相手に対する思いやりなんかも薄くなり、やがて自分本位・ジコチューな行動へと陥りがちになります。

 

ボクのような凡人には正直言ってかなり難しいことなんですが、「明日死ぬかのよう」な緊張感があれば、どう考えたって「今日」を大切にしますし、明日にも分かれてしまう目の前の相手を大切にしようと絶対に思うはずです。

 

ボクは、若い頃この本(↓)に出会って、かなりしっくりきたタイプですので、ガンジー様のお言葉もそれほど違和感がないような気がします。

 

と言っても、「それほど」の程度ですからね。この時代に、「明日死ぬかのように生きろ!」と言われても、「いやいや、無理です」というのが普通でしょうから、「それぐらいの心意気で」ということになります。

 

また、「永遠に生きる」こともあり得ませんが、少なくとも離別がなければ、夫婦は死ぬまで一緒に「永遠に生きる」ことになりますので、それを前提とするなら、相手のことを学ぶのも良いですし、相手に気に入ってもらえる作法や態度を学ぶのも良いことです。というか、学ばなければ、何も変わることはありませんよね。

 

「わたしの意志は、わたしの運命を欲するのだ」

ニヒリズムの大哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』から頂戴しました。

 

どんなに器用で家事・育児が得意であっても(得意そうであっても)、その能力を相手のために使う意志がなければ、何の役にも立ちませんし、相手の信頼も得られません。

 

では、そのような意志がどこから来るかと言えば、やはり目の前にある自分の運命を如何に受け入れるか、ということだと思います。

 

何の因果か知りませんし、何の縁かも知りませんが、少なくとも結婚生活が始まったなら、それを自分の運命として受け入れることほど前向きな姿勢はありません。ヘンに高望みしてしまうと、目の前の運命がボヤけて、本来歩むべき道を逸れてしまいます。

 

そして、運命を定められなければ、意欲など湧きようがありません。意欲が湧かなければ、当然、パートナーや家族に貢献しようという気持ちなど出てこないでしょうね。

 

どんな能力や才能よりも、それらを出し惜しみしない「意欲」こそすべてです。仕事もね。

 

「わたしは君たちに遠人愛を勧める」

上と同じく、大哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』から頂戴しました。

 

キリストが訴えかける「隣人愛」は、「周囲の人たちへの平等な愛情」が本来の意味するところだと思うのですが、ニーチェの時代には、それが「同調圧力」のような形になって、他人の足を引っ張ったり、他人を恨んだり妬んだりする風潮になっていたようです。

 

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そこでニーチェは、そのような窮屈で狭い人間関係を良しとせず、「遠くにいる人を愛せよ」と声高に叫ぶことになりました。

 

結婚生活も似たようなものじゃないかと思うわけです。

 

互いに相手のことを思いやる気持ちは大切ですが、かと言って、あまりに近すぎる関係は、窮屈で息が詰まってしまいます(奇跡的に息が詰まらない2人もたまに見掛けますが・・・)。

 

互いに声掛け合って、たまには遠く(家庭外)の友人・知人と息抜きできる時間を相手が確保できるように、配慮してあげたいところです。

 

「遠人愛」と言っても、「不倫じゃないよ!」と、念のため声高に叫んでおきます。

 

「道」

パナソニック(旧 松下電器産業)の祖・松下幸之助 翁の著書『道をひらく』は、見開き2ページに1項目ずつ、全部で 118 項目の珠玉の言霊が並んでおり、1日に1項目ずつ読んでいくのに丁度よい文字数となっています。

 

その中の第1項「道」を引用しておきます。上に書いたニーチェの「運命」に通じます。

自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。

 

「こだわりの服を脱ぐ」と「51%の面倒を引き受ける」

なんと! このブログの祖・ネズジロー(つまり、ボク)のお言葉です! 冒頭にも引用した過去記事『【父育児】子育てのゴールが見えてきた立場から思う家事とイクメンと私』の中で使っています。余程お暇な方は、チラッとのぞいてみてくださいね。

 

 

 

あとがき

とまぁ、意志薄弱なものですから、「結婚」という掴みどころのない運命を何とか我が手中に収めるべく、歴史の荒波をくぐり抜けてきた数々の有り難いお言葉にすがろうとしているわけです(一部、くぐり抜けていない「お言葉」を含む)。

 

そして、このように文字にすることもまた、上に書いたように「理想を言語化して自分がそちらに引っ張られる」環境を作る作業なわけです。

 

 

 

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