
『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』ということわざがありますね。「夫婦の内情は夫婦にしか分からないし、喧嘩してもどうせ元の鞘に収まるんだから、放っておけば良い」という意味です。
昔は、確かにそうだったのかもしれません。でも今は、元の鞘に収まることなく、夫婦の3組に1組が離婚する時代です。犬よりも猫に近いぐらい、夫婦関係はドライでサバサバしたものになってきている印象を受けます。
夫婦関係「怖くて難しいもの」という印象
一方、ドライならドライなりに、不仲になったらさっさと分かれて次の人生を歩み出せれば良いのでしょうが、そう簡単にはいかないのが夫婦関係です。表面的にはドライなのに、内側は結構ネバネバしていて、時間の経過とともにネバネバが強くなります。子どもがいようものなら、ネバネバが加速度的に強くなっていきます。
これだけ価値観が細分化された時代に、元は他人同士の2人が1つ屋根の下に暮らすわけですからね。こんなにも人間関係がこじれやすい無茶な制度は、結婚以外に思い付きません。その難しさが、「非婚 → 少子化」という社会問題の一因でもあるのでしょう。
テレビや雑誌、ネットなどでも、不倫や DV・パワハラなどを含めて、夫婦の不和や夫婦喧嘩が広く取り上げられ、その関係の難しさは経験者のほぼ誰もが認めるところだと思いますし、結婚を控えた未経験者の方にまで、何となく「怖くて難しいもの」という印象を与えてしまっているんじゃないかと心配しています。
結婚生活 10 年超えの我が家の場合
おそらくは平均的な家庭と同じく、結婚1周年のころと、子ども誕生~2歳ぐらいまでと、そのころを中心に危機的な状況を何度も迎えました。
前者の時期は、互いの価値観や生活習慣の違いにはっきりと気付き始め、相手の些細な点がとても気になり、ちょっと話し合う程度では解決の糸口が全く見えず、本当に本当に、どうしたら良い方向に持っていけるのかが分からず、袋小路の迷宮に入ってしまったような感覚を覚えていました。結婚前に4年ほど付き合っていたのに、この有り様です。
後者の時期は、慣れない子育てに睡眠不足や仕事の負担が重なり、心身ともに疲弊する中での危機です。前者よりも原因ははっきりしているのですが、子どもを持つということは、価値観の衝突原因が1つ加わることに等しく、上にも書いたように、夫婦間のイヤ~なネバネバが強くなる要因です。何度も何度も衝突しました。
そうやって何度も衝突を繰り返すうちに、少しずつ学習を重ねて、今に至っています。子ども3人とも無事に就学できた今は、結婚してから十数年の嵐が去って、「凪」の状態です。十数年の嵐を協力して乗り越えられたからこそ、凪の穏やかさをヒシヒシと感じられる今日この頃です(ジャニーズ「嵐」も去ることになり、残念がるツマです(余談 (*'▽'))。
夫婦関係を難しくする要因
夫婦のカタチは千差万別。10 組の夫婦があれば、10 通りのカタチがあり、どれ1つ「正解」とは言えません。
ただし、自らの経験や周りの夫婦の話を通じて、夫婦関係がギクシャクして不和に突入してく根本的な原因は、主に3つに絞られるんじゃないかと感じています。それは・・・
- こだわり
- 「気付き」の差
- セックスレス
これはあくまでもボクの経験や想像に過ぎませんが、これらが不和や喧嘩ひいては離婚の原因と考えるなら、これらを解消することで夫婦関係を正常に保ち、平穏な結婚生活を末永く続けられることになります。自分の経験から感じることとして、夫婦関係が落ち着くと、仕事も子育ても、いろんなことが好転し始めます。生活の中の精神面は、夫婦関係に大きく左右されますので、当たり前と言えば当たり前かもしれません。
そして、仕事や子育てが好転し始めると、夫婦関係もさらに好転し始めるという、正の循環がもたらされます。これも、多くの既婚者が経験的に感じていることではないかと思います。
以下では、夫婦関係を難しくする3つの要因を解決する「夫婦生活の必需品」を順に見ていきます。
「こだわり」の断捨離

たとえば、ボクの風貌はどこからどう見ても日本人なのですが、服装についてはフランス人的(?)で、ちょっと良いものを少しだけ持ち、季節ごとの組み合わせの「妙」を楽しむタイプです。
一方のツマは、どちらかと言えばファストファッション派で、たくさんの洋服を目の前に並べてイメージを膨らませつつ、その日の服装を決めたいタイプです。
「こだわり」というほどの強い執着はありませんが、こんな些細なことでも、ボクから見たら「どうして、そんなに服が増えていくんだ?」となりますし、ツマから見たら「いつも同じような格好で恥ずかしくないの?」となります。
最初はちょっとした疑問にしか思わないのに、1年も同じ光景を見続けると、それが意外にもストレスとなって心に淀んでおり、服装とは関係のないことで喧嘩になった際に、この淀んでいる疑問までがふと口をついて出てきてしまうのです。こうなると、不和の傷口は広がるばかりです。
こうならないように、こだわり(価値観)が少しでも違うなと感じた部分を、早め早めに話し合うのが良いと思います。心の中にマグマを溜め込むのは絶対に避けたいところです。
しかも、話し合うだけではダメで、互いにはっきりと認識できる程度に歩み寄る必要があります。ボクは、フランス人的部分を半分捨てて、以前よりも洋服を躊躇なく買うようになりましたし、ツマも、ボクの思いを汲み取って、服の購入頻度を落としたり、新しい服を買う場合は着なくなった服を処分するようにしたり、歩み寄ってくれました。「歩み寄った」と簡単に書きましたが、そうなるまでに数年は掛かったと記憶しています。それが人間の習慣の恐ろしさですね。
歩み寄る場合は、両者が同じ歩数だけ歩み寄るのが大切です(少なくとも、両者が納得できる歩み寄り方をすべきです)。歩数が異なると、それは不和の火種となって残ります。
話し合いの中で感じたのは、ツマがボクに引け目を感じており、それがボクに対する文句となって現れていたんだろうということです。我が家では財布をシェアしていますので、ボクがあまりにも服を買わないと、ツマばかりが買っていることになり、「ツマはそれを引け目に感じ、苦しかったんだ」という本質的な部分に気付きました。
「節約・エコ」と言えば聞こえは良いのですが、それも度が過ぎると、場合により(「節約・エコ」意識低めの)人を苦しめる可能性があることを学んだ瞬間です。
服装に限らず、そうやって色んなことで話し合いを重ね、「こだわり」を断捨離していった結果、人と人とが折り合いを付けるには「中庸・中道(ミディアリズム)」の思想がやっぱり大事なんだなと思うに至りました。
気付いた方がやる習慣
ボクは、HSP(Highly Sensitive Person)の気が強く、ちょっとした変化や変更にもすぐ気付きますし、気付いてしまうとそれが気になって仕方なくなります。これは気質(性質)なので、どうしようもない部分でもあります。
一方、ツマは正反対で、変化にあまり気付かないタイプです。
このギャップは、一緒に生活していく上では、どちらにとってもかなりの地獄です。ボクは、靴の脱ぎ方や食器の位置、部屋の隅っこのホコリなどがすぐに目に付きます。しかも、ツマに指摘されるまで、それらは誰もが当たり前のように気付くことだと思い込んでいました。一方のツマは、そんな気質(性質)があることすら知りませんでした。
どちらも自分自身を「基準」と思い込んでいるわけで、付き合っている頃には気付かないものの、1つ屋根の下で家事や育児に勤しむようになると、ギャップが如実に現れて、互いの気質が相手を深く苦しめることになります。
うちの例は少し極端ですが、人間が2人以上集まれば、このような「気付き」の差が必ず生じます。「気付き」の程度がまったく同じなんてことは、あり得ません。仕事もそうですよね。「気付き」の多い方に仕事は自然と集まってきますし、「気付き」の少ない方は知らず知らずのうちに人任せになりがちです(そういう気質なので、良い悪いの別はありません)。
結婚して夫婦になると、この「気付き」の差がいろんな面で顔を出し、相手に対する不満や不信感がどんどん蓄積されていって、ついには爆発してしまいます。気付きが多い側は「なんで気付かないんだ!」となりますし、気付きが少ない側は「頑張っても気付かないものは気付かないの!」となります。
こうならないように、「気付いた方がやる」習慣を身に付けました。つまり我が家の場合で言えば、気付きの多いボクが、気付いたことに自ら動く、という習慣です。靴が散らかっていたら直しますし、ホコリが溜まっていたら拭き掃除します。
ただし、これを勝手にやり始めると、気付きの少ない相手にとっては、ものすごいプレッシャーになりますので、「自分はそういう気質であり、たまたま気付きが多いから」と断ってから、自分の好きなように動くよう心掛けています。
「気付き」の差は、子育てにも大きく影響します。子ども(特に乳幼児)というのは、ひたすら訳の分からない行動を繰り返しますし、何でも口に入れますし、放っておけばかなり危険な生き物です。ですので、HSP なボクとしては、ものすごく気になってしまう存在であり、ついつい手助けしたり、言葉で助言したりしてしまいます。
そうすると、子どもは気付きの多い方にくっつくのが楽であることを学習し、気付きの多い方にいろんなことを相談したり、甘えたりねだったりするようになります。ボクはそれでも良いのですが、ツマにはそれが子どもを奪われたような感覚になり、ボクに対してちょっとした嫉妬心を抱くようになります。
ですので、気付いていても気付かないフリをしたり、困ったことはツマに相談するよう子どもたちに働きかけたり、いろいろと工夫しています。HSP も楽じゃないです。
セックス

不妊治療にやってきた夫婦が、実は童貞と処女だった、という冗談もあながち冗談ではなくなるほどに、セックスレスが進んでいます。日本だけではなく、世界的な潮流です。日本の夫婦で言えば、半分はレス、という統計もあるようですね。
原因は、それぞれの国ごとに色々とあるのでしょうが、いろんな意味で「バーチャル」に多くの時間やエネルギーを吸い取られてしまっていることも1つではないかと感じています。人間の1日の時間とエネルギー総量は決まっていますので、バーチャルに消費される分が増えたなら、面倒で相手の意向にも依るセックスが犠牲になるのは当然かもしれません。
でもボクは、夫婦がもっと自然に単純にセックスを楽しめるようになれば良いのにと思っています。「少子化問題」の解決策として、経済的な問題、待機児童問題、仕事と育児の両立の問題など、色々と小難しいことが議論されていますが、夫婦どちらも、自由に好きなだけセックスできる「結婚」という権利をもっと上手に使えるようになれば、そして、そのようなアツアツの夫婦関係がもっと一般的になれば、出生率も自然に回復していくんじゃないかと思っています。
卵と鶏の議論になりますが、そのようなアツアツの夫婦関係を維持するためにも、セックスは必要不可欠な夫婦の営みです。つまり、セックス → アツアツ → さらにセックス → さらにアツアツ・・・という好循環を生む道具です。
ただし、ボクが考える夫婦のセックスは、以下のように定義しています(夫婦に限らず、すべての男女(or 男男 or 女女)に当てはまることですね)。
- 独りよがりにならない(両者が希望する場合だけ成立するもの)
- いわゆる「性交」だけではなく、手をつなぐこと、ハグすること、などのすべてのスキンシップを含む(両者の合意するレベルで成立するもの)
上では「こだわり」や「気付き」などに関して、主に「話し合い」を中心に夫婦の必需品を書いていますが、スキンシップに比べたら、話し合いなんて目くそ鼻くそレベルのものだと思っています(場面や状況にも依りますが・・・)。もちろん両者の希望や合意が大前提となりますが、スキンシップ1つで 100回分の話し合いの効果が得られる場合だってあります。それぐらい、触れ合うことには代わりの利かない普遍的な価値があります。
既婚者の男性が集まると、「妻とのセックスなんてありえねー」という話で盛り上がるのは、照れ隠しであったり、「ほかにも相手がいる」ということを暗示して自らの「男性」性を強調してみたり、そういった日本独特の文化ではありますが、もうそんな時代ではないですね。字を大にして書きます。
「恥ずかしいからヤメロ!」とツマに怒鳴られそうですが、ボクがセックスレスにならないように心掛けていることを書いておきます。あくまでも、男の視点で実践していることですので、女性の視点ではもっと異なる意見もあるとは思います。ぐれぐれもご参考まで。
前準備
上に書いた「こだわり」や「気付き」に関して、日ごろから十分に歩み寄っておきます。歩み寄ることで、心も近づきます。心が近づかないことには、両者合意の心地よいセックスなどあり得ません。
相手の良いところを探し続ける
結婚生活では、相手の悪いところばかりが目立ってしまいますが、あえてそこには目をつむり、とにかく相手の良いところを探し続けます。そうすると、自然に相手のことを好きになりますし、相手に愛しみを覚え、相手を大事にしてあげたくなります。自分自身に催眠術を掛けるようなものです。
積極的にスキンシップ
手を握る、肩をもむ、キスする、ハグするなど、積極的なスキンシップを図ります。スキンシップとは不思議なもので、一定期間触れ合わないと、心も身体も急速に離れていく一方、定期的に触れ合っていると、言葉では言い表せない引力が働きます。その引力を維持するために、日ごろのスキンシップが必要となるわけです。これなくして、いきなりセックスに入ろうとするからおかしくなるのです。
無理をしない
両者合意が基本なので、当たり前と言えば当たり前ですが、両者ともに決して無理はしません。頻度やタイミングも、互いの気持ちが重なった時を重視し、「する?」「Yes」という言葉でのやり取りも大切にします。一度限りの行為と考えず、数十年というスパンでセックスを考えます。「生涯一穴主義/生涯一棒主義」に通底する考えです。
いかがですか? 決して「気持ち悪い」などと言わないでくださいね (*'▽');
さいごに
「こだわりの断捨離」も「気付いた方がやる習慣」も「セックス」も、結局は日ごろからの積み重ねでしかありません。
結婚することや結婚生活を維持することが希少になりつつある今、せっかく奇跡的にも結婚できたなら、それをどうやって維持していくかを戦略的に考えてみるのも、一種のゲームのようなもので面白いかもしれません。ただ「好き」という感情や、夫が妻を家政婦としてしか見ない態度、妻が夫を ATM としてしか見ない態度だけでは、どちらにとっても不毛な期間となりかねません。
上の3つに共通することは、「常に相手の立場で物事を考える」という姿勢です。これは、子どものころからの積み重ねで大きく変わるものです。その点でも、夫婦が互いのことをいつも気遣い、アツアツの関係を子どもに見せつけることができるなら、これに優る情操教育はないでしょうね。