敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「万匹家族」じゃなくても互いに「シェア」すれば家族は成り立つと思う

 

 

「まんびきかぞく」と初めて聞いた時、最初に頭に浮かんだ漢字は「万匹家族」。

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「人類みな兄弟」的な物語なのかと思いきや、実際には「万引き家族」が正しく、全然ちがうものだった。でも、あらすじを読むと、「家族」という枠組みを考え直す作品のようであり、ある意味「人類みな兄弟」的な物語なのかな、とも思える。

 

いずれにしろ、観ていない。いつかは観ることになるんだろうけど、まだ観ていない。

 

どんな映画でも、あらすじやレビュー(ネタバレしてないもの)をツラツラ読んで、そのテーマに対する自分の考えを整理した後、実際に映画を観て、自分の考えに変化を起こしてくれるものかどうかを確認する、という鑑賞の仕方が好きだったりする。

 

というわけで、今は整理の段階。

 

「家族」

 

もう何十年も、子どもとしての「家族ごっこ」や親としての「家族ごっこ」に臨んできたわけだが、「家族」というのは、付かず離れず、「親しき中にも礼儀あり」ぐらいの距離感を保つのが一番という、ひとまずの結論には至っている。

 

いろんなことを「期待」できるのが家族だと思う反面、「期待しすぎ」が家族を苦しめる元凶だとも思うからである。

 

お金の面はもちろんのこと、親には旧世代の生き様を学んだり、「高度成長」というエネルギーを感じさせてもらったり、パートナーには同世代の安心感をもらったり、子には新世代の考え方に触れるきっかけをもらったり、ひたすら無邪気で天衣無縫なエネルギーに背中を押してもらったり、いろんな「期待」ができると思う。

 

つまり、家族というのは、その一員である自分自信をエネルギーでもってドライブし、新しい風でもってアップデートしてくれるセキュアな存在、と言えるし、そのお礼として、自分自身もエネルギーや風や安寧を「家族」という無形の筐体に供給して、その維持に一役買えれば理想的だと思う。

 

ただ、そうやってエネルギーや情報や安定をシェアする「情念的」なつながりだけでは心許ないため、時々「血縁」や「戸籍」といった「実利的」なつながりを持ち出して、互いの関係を確認し合ったりするのが実情だろう。

 

「血」のつながりについては、たとえば誰か1人しか救えない状況で、血はつながっているが面識すらない子どもと、血はつながっていないが 10 年連れ添った子どもと、どちらを助けるか、という命題はあるにせよ、少なくとも「情念」が 100%の家族であれば、もはや「血縁」や「戸籍」なんて無くても、日常の家族は成立する可能性が高い。

 

いずれにしろ、エネルギーや情報や安定といった「情念」であれ、「血縁」や「戸籍」といった「実利」であれ、それぞれがどのような割合であれ、何かを「シェア」してさえいれば、それは「家族」と言える時代になりつつある。というか、それが本来の姿なのかもしれない。

 

それこそ、1万人とシェアすれば「万匹家族」にもなれるだろうし、それが可能な人もいるんだろうけど、そこまでやるのはなかなか難しいことだから、とりあえず「血縁」や「戸籍」といった線引きが一般的には受け入れられている。

 

昔、母親が「貧困家庭に援助したい」と言ったとき、父親が「自分たちが生きていくのがやっとなんだから」と返したのを覚えている。どちらが正解というわけでもなく、どこに「家族」の線を引くか、というだけの話なんだろう。

 

そうやって「情念的」にも「実利的」にも成り立っている家族だが、それは淡い「期待」の上だからこそ成立するわけであって、期待が過剰になると、その過剰になった部分が「不足」と誤って捉えられてしまう。それが、虐待や DV の根本原因とも考えられる。

 

だから、親やパートナーに「こうして欲しい」と期待しすぎていないか、子どもに「こうなって欲しい」と期待しすぎていないか、ということをいつも気にしている。「家族だから」という近さ・甘えに基づく濃すぎる「期待」は、最終的には自分自信を崩壊させることにしかならない、と思うからね。

 

結局、ごく一般的な家族であれ、すべて同性の家族であれ、すべて同年齢の家族であれ、「家族」なんてものは、よく言われるように、砂上の楼閣のようなもので、常に微妙なバランスの上に成り立っている。

 

かつて、上を向いて成長するだけの時代や、一部の人(特に女性)が犠牲になってくれていた時代には、そういった時代や人の裏に「バランス」を取ることの難しさが隠れていたものの、時代も人もそうじゃなくなった今は、砂ひとつぶ一粒がちょっとした風でいとも簡単に吹き流されてしまう。

 

そんな風に抗って不自然なほどに「家族」という形ばかりを維持しようとするからこそ、「家族ごっこ」と揶揄される面もあるんだろうね。

 

今や、「一人で生きていく」と「ごっこ遊びをしながら他人と暮らしていく」の二者択一を迫られているような時代だけど、一方では、「本当にこの二者しかないのかな?」という疑問もある。

 

また、家族歴ウン十年の御仁が、そのウン十年の経験として、「家族ってのはごっこ遊びだった」というのなら説得力もあるのだが、まだ未経験レベルの年数しか経っていないのに、ニヒルな面持ちで「家族は所詮ごっこ遊びだ」と語られるのを見ると、少し残念に思えてくる。

 

「家族」とは、それを構成する人たちが「ごっこ」と思えば「ごっこ」という少し冷えたものになるし、「ごっこじゃない」と思えば、もう少し熱くなる類のものだろう。

 

少なくとも、家事や育児など、家族周りのことに、ヘトヘトになるまで無心に関わった日の夜、睡魔に負けそうになりながらボンヤリとその日の出来事を振り返ってみて、「家族ごっこしたなぁ」とは思わない。「家族をやったなぁ」とはっきり思う。そして、そのように無心に何かを提供し続けることが、迷わずに「家族する」ための1つの答えなのかもしれない、とも思う。

 

かつて見た家族が冷えたもので理想から外れていたとしても、構成員(特に自分)の考え方や姿勢次第では、次は温かくも熱くもできるのが、家族の良さであり可能性でもある。

 

それは、血や戸籍に守られた家族だけではなく、もっと広い意味での「万匹家族」にも当てはまるような気がする。

 

果たして、こんな感じの整理で、「万引き家族」は何らかの変化をもたらしてくれるのだろうか、楽しみである。

 

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