
「人生100年時代」と言われているのに、大手企業では 45歳での早期退職・希望退職の募集が一般的となりつつある時代です。人生の折り返し点にすら達していません。
一方、スポーツ界などを眺めてみると、10代で活躍する選手が次々と登場し、20歳ですでに「ベテラン」と言われたり、引退に追い込まれたりするケースもあります。
つまり、人生のピークが低年齢化する一方で寿命は延びる傾向にあり、ピークから寿命までの期間がひたすら間延びする時代になってきています。
だから、こういう(↓)本が売れるわけですが、1つの人生をいくつかに区切って、途中で勉強を繰り返しながら1人で複数の人生をポートフォリオ的に歩むことが少しずつ一般的になっていくのかもしれません。
こうなってくると、自分の人生を設計するだけでも大変なわけですが、さて子どもの人生はどう考えてやるのが良いのだろう、と悩ましい日々を送ることになります。
スポーツと子ども
一般的に、5~12歳の子どもは、運動神経が劇的に発達する意味で「ゴールデンエイジ」と呼ばれています。この時期、1つのスポーツに絞って取り組ませるか、さまざまなスポーツを経験させてあげるかは、親の意見が分かれるところでしょう。
我が家では、後者を重視して、プール、山登り、スキー(スノボ)、スケート、バッティングセンター、アスレチックなどなど、いろんなスポーツに親子で関わっています。子どもは、近所の友だちとキャッチボールしたり、サッカーやバスケの真似事に興じたりもします。
1つのスポーツでトップアスリートになれる確率は低いんでしょうが、いろんな運動に取り組むことで身体(骨格や筋力)のバランスが良くなり、初めてやるスポーツでも、割りとすぐに身体がついていくため、飲み込みが速いように感じます。
自分自身が小中高大とすべて異なる部活に所属し、そのうち2つで全国大会にも出られたため(決して運動神経が良いわけではありません!)、比較的マイナーなスポーツであれば、身体バランスを中心にさまざまな運動神経を育てておくことで、ある程度の活躍はできるんじゃないかと思っています。
勉強と子ども

勉強についても、都市部を中心に、受験やそのための塾通いの低年齢化が進んでいますね。受験や塾が身近にあること(少子化の影響で「押し」がさらに強まってる!)、置いてけぼりを食う恐怖感、親の見栄や自己満足、日本人的「横並び」気質などが影響しているんでしょう。
そんな中で、子どもに早くから難しい勉強をさせるかどうかも、親として難しい判断です。
ボクは、勉強ももちろん大切ですが、それよりも子どもらしく遊ぶ中で知恵をつけたり、工夫したり、はたまた悪知恵を働かせたり、ずる賢さを身に付けたりすることの方が大事なので、小学5年生ぐらいから勉強にシフトしていけば十分じゃないかと思っています。
人生のコースを早くから決めない
スポーツにも勉強にも共通するのは、「人生のコースを早くから決める必要なんてないんじゃない?」という思いです。ある意味、現代の「低年齢化」に対する反発です。
そして、その裏には、以下のような3つの願いがあります。
- 受け身にならず、何でも自主的に決めて欲しい
- いつでも「システムの外」に飛び出る準備をしておいて欲しい
- さまざまな経済システムを生きて欲しい
受け身にならない
親として出来ることは、いろんな選択肢を目の前に用意してあげることです。ただし、それ以上は口出しせず、そこから先は子ども自身で選択して欲しいと願います。
大人になるまでに「受け身」の機会が多ければ多いほど、大人になってから「生きる意味」を見出せなくなる可能性が高いんじゃないかと感じています。そもそも「生きる意味」なんてものがあるのかどうかすら誰にも分かりませんが、その有るか無いかも分からない答えに向かっていこうとする情熱こそ、人生を熱くするものじゃないかと思うのです。
映画『ボヘミアンラプソディ』があれだけの人気を集めたのも、「生きる意味」を考えるという受難(=passion)があるからこそ情熱(=passion)も湧いてくるわけであり、そのことを多くの人が経験的に感じているからこそ、心も動かされたんだと思います。
「受難」を「情熱」に変えるものは、あくまでも「向かっていく」意志であり、受け身のままでは何も得られません。「受動的」であることに慣れてしまわざるを得ない環境こそが、現代の生きにくさの象徴です。
人工知能(AI)は、基本的に過去のパターンから統計的に答えを導くものであり、それ自体に「意味」や「目的」の概念はありませんし、もちろん人間の「生きる意味」や「生きる目的」それ自体が分かるはずもありません。
ただし、膨大な数の「人生のパターン」を学習していくことで、人間に対して「生きる意味」や「生きる目的」をアドバイスできる強力なツールにはなります。つまり、人それぞれの個性・能力・特性に見合った職業なりスポーツなり趣味なりを AI が「おススメ」してくることで、人間が「生きる意味」や「生きる目的」を考える「受難」から解放される未来が予想されます。
そういう未来を良しとする考えもあるでしょうが、そのような未来には、『ボヘミアンラプソディ』を観ても何も感動せず、なぜそこに情熱が生まれるのかも理解できなくなっていることでしょう。
受け身に慣れるということは、受難と情熱をセットで失うということです。
「システムの外」に出る
「システムの外」に出ることを「冒険」と定義する角幡唯介さんの考えに深く共感します。
そして、角幡さんほどの冒険は無理としても、ちっぽけな「冒険」でも良いので、いつでも「システムの外」に飛び出す心持ちだけは忘れないようにして欲しいと願います。
上に書いた「受け身にならざるを得ない環境」というのは、人間が人工的に作り上げたシステムによって、地球全体が覆いつくされようとしていることと深く関係します。
仕事にしろ勉強にしろスポーツにしろ、ありとあらゆる分野でありとあらゆることがルール化され、システム化され、1人の人間ではどうにもならないほどガチガチの体系が出来上がってしまっています。人間は、そのような体系の中で、モゾモゾと受動的に蠢く程度の自由しか持ち合わせていません。
人間が作ったルールやシステムの範囲内にしか自由がないという点では、仕事も勉強もスポーツも、社会全体が「ゲーム化」しているとも言えそうです。
そんな社会で「受け身」に慣れてしまうのは、当たり前と言えば当たり前のことなんですが、だからこそ、「ゲーム化」が進んでいくことが間違いない未来には、システム(=受け身)からいつでも飛び出せる心の準備が有利になると思っています。
多様な経済システムを生きる
「システムから脱する」とは言え、それは非日常の話であり、日常的には「システム」の中で生きていかざるを得ません。
そのシステムを経済の観点から分類すると、旧来の「金儲け」に主眼を置いた資本主義的経済のほか、「フォロワ数」や「いいね!」を価値の源泉とする所謂「評価経済」や、SDGs をはじめとする持続的な社会の構築や社会的な価値(ボランティアなど)に生きがいを見出す経済システムなど、経済システムそのものが多様化しています。
もっと具体的には、たとえば「キャッシュレス」という分野の中には、クレジットカードやデビットカードのほか、電子マネー(商業系/交通系)やQRコード決済、仮想通貨、ポイントカードなど、さまざまな経済システムが乱立して、各システムがマーケットシェアを競いながらユーザの囲い込みを進める一方、人々は複数の経済システムを行き来しながら日々の生活を送っています。

もはや、1つの経済システムの中だけで生きていくのはリスクでしかなく、資本主義経済・評価経済・社会的価値経済 etc. に自己のリソース(時間など)を分散させて生きていくことが、人生のリスクを低く抑える決め手となっていきそうです。
そう考えると、旧来の資本主義経済でお金儲けするには知識や教養・学力などが依然として有利に作用するでしょうし、評価経済で生きていくには人の心理や人間の欲望を理解することが重要になるでしょうし、社会的価値経済を生きるにはそれだけの志やマインドが必要になるでしょう。
そういう点からも、1つの分野に没頭して終わりではなく、物事を多面的に捉えて、主体的に選択できるだけの余裕を持って欲しいと願っています。
さいごに
上に書いた「受け身にならない」「システムから脱する」「多様な経済システムを生きる」を総合した結果が、近ごろ定番の「好きを仕事に」「好きなことをして生きる」というフレーズだと思うのですが、仮にその結論が正しいとしても、そのような結論に達するプロセス自体を親から押し付けるのではなく、子ども自ら見つけ出して欲しいと思います。
そのためにも、人生のコースを早くから収束的に決めつけるのではなく、一度はとことんまで発散させた上で、子ども自身の主体的選択に任せてみたいと思う今日この頃です。20年後、30年後の未来がどうなっているかなんて、誰にも分からないわけですからね。
社会の分断や価値観の硬直化が危惧される昨今、人生のコースをあえて発散させて多様な価値観に触れることもまた、ちょっとした「冒険」かなと思います。
さて、その答え合わせは、何年後になるんでしょう。