敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

子育て中の「世界から置いてきぼり」恐怖はほぼ克服できたと思う父育児

 

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結婚する前までは、ブラック企業の社長でも「そろそろ休みましょうか」と心配してくれそうなぐらい、とにかく働きまくった。幸い、ブラック企業じゃなかったけれど。

 

その後、縁あって結婚し、縁あって1人目の子どもを授かったけれど、まだまだ若かった自分は、とにかく世界の先っぽの少しでも近いところにしがみ付いておきたい気持ちが強く、かと言って家事・育児をパートナーに押し付けておくのも気が引けるため、見出した答えが「超早起き」となった。今も続いている。

 

そのうち、さらに縁あって2人目、3人目の子どもを授かり、家の中の人口密度がマカオかシンガポール並みに増した分、自分の心休まる空間はトイレぐらいしかなくなってしまったけれど、寂しがりの自分としては、気が置けない他人が同じ空間に存在してくれることを、ただそのことを嬉しく思った。今も強く感じている。

 

自分だけ「世界から置いてきぼり」

嬉しい気持ちの反面、たまに襲い掛かってくる得体の知れない恐怖感とは、常に闘いを余儀なくされた。子育て中の多くの人が感じるであろう、あの恐怖感だ。

「自分だけ、世界に置いていかれる!」

 

それは、仕事においても感じることだし、資格や研修などの将来を意識した勉強についても感じることだし、友人・知人との付き合いについても感じることだ。

 

この恐怖感が厄介なのは、「家族のため、パートナーのため、子どものため」と思って自ら自分を犠牲にしようと思えば思うほど、家事・育児に費やされる時間が増えることで自分を追い込んでしまい、気が付いたら「家族のため」という 90%の気持ちと、「家族のせいで」という 10%の気持ちが心の中に同居してしまうこと。

 

時に「家族のせいで」という気持ちが過半数に達してしまうと、自分でも知らず知らずのうちに、家族に冷たく当たってしまうこともあったんじゃないかと、今から振り返ってみて思う。それぐらい、子どもの誕生から就学までの数年間というのは、何かの呪いか魔術か催眠術にでも掛かったような感覚だった。

 

自分自身を客観的に見つめることや感情・行動をコントロールすることがとてつもなく難しく感じられ、常に睡眠不足の状態も手伝ってか、その当時の記憶があまりない。子ども全員が就学して落ち着いた今では信じられないような精神状態であり、それほど子育てというのは、人間を極限状態へと追い込み得る行為であると身をもって感じた。

 

じゃぁ、家族のことはパートナーや子ども自身の自律性に任せて、自分は仕事やそれ以外のことに没頭すればいいじゃないか、という割り切りを夢見たこともあったけれど、どうしても出来ない。そういう性分としか言いようがないのだが、自分が縁を持った人たちだから、少しでも貢献したいという気持ちがせせり出てくる。

 

世界に置いていかれぬために

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でも、やっぱり世界に置いていかれたくないから、必死になって抵抗する。

 

気になる本があれば、ネットや書店や図書館でつい求めてしまうため、「積読」が身長を超えてしまう。気になる講座や研修があれば、申し込みをするだけして、実際には子どもの都合や行事などで行けずに終わることも数知れず。

 

飲み会や会食の約束をしても、パートナーや子どもの体調不良で断らざるを得ないことも数知れず。そもそも、自分だけ楽しい思いをしても、心から喜べない。ならば、自宅に知人・友人を招いてパーティでも・・・と思うのだが、それはそれで気疲れもするし、家族の意向もある。マカオかシンガポール並みの人口密度をさらに高くしてどうする? とも思う。

 

子どもを持たず、パートナーと自由に世界や日本を旅したり、思う存分仕事に打ち込んだり、やりたいことに好きなだけ没頭したりしている夢を見ることもままある。でも、目が覚めて、そのような無い物ねだりに何か意味があるんだろうか? と自分に言い聞かせる。

 

どこからやって来たか分からないけれど、とにかくやって来た3人には、ボクたちの下へやってきた「それなり」の意味を与えてやりたいと思う。親子の関わりなんてものは、その程度の「意味付け」ぐらいにしか意味がないんじゃないかとすら思う。

 

「世界を置いてきぼりにする!」

だからもう、「世界から置いてきぼりを食う」じゃなくて「世界を置いてきぼりにしてやろう!」と思うようにした。つまり、世界や世間をキャッチアップするのではなく、自分の中の世界観を究める方向。そこは何というか、割りと短絡的でやけっぱちな性格が幸いした。

 

家族に対して後ろめたい気持ちを持ちながら仕事や趣味に没頭しても、それは何も面白くないし、どうせそうはできない性分なんだから、ならば諦めるしかない!

 

仕事に必要最低限の知識や技術の勉強はするとして、それ以外のことは、今アメリカで話題の「こんまり」こと「近藤麻理恵」さんではないけれど、「ありがとう」と感謝しつつ、すべて断捨離しようとある日思い立った。

 

そのためには、物理的な環境を整えるのが一番なので、積読していた本はすべて売却・返却し、気になる講座や研修も「どうせ、大したことないし」と割り切って無視。飲み会や会食も「まぁ、いいです」と断り、SNS もほぼやらない。

 

やってみると不思議なもので、これまで自分が大事だと思っていたことに、実は大して意味がなかったことが分かる。いろんなものを断捨離したところで、生活はほとんど何も変わらない。知人・友人とも必要に応じて関わり合えれば、それで十分かなと思うようになった。変わったことといえば、無駄がなくなって持て余すほどに時間がたっぷりとできたこと。

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その空いた時間に何をするかと言えば、特に何をするでもなく、とにかく家族・子どもと向き合うことにした。時には一緒に勉強したり、ゲームしたり、旅行へ出かけたり、買い物したり、図書館へ通ったりする一方、特に関わりが必要ないと感じるときは、遠巻きに観察することにした。

 

子どもと関わったり観察したりするからと言って、特に何か(勉強など)を子どもに押し付けたり、将来の希望を託してみたり、何かを強要してみたり、ということがないように、自然体でとにかく「ただ一緒にいる」ということを心掛けている。

 

そうする中で、子どもが絵本を気に入ってそうだから、「ただ一緒に」読み続けた結果、5,000冊を超えるストーリーに出会えることとなった。5千を超えるストーリーを子どもとシェアできたことは、それが人生に役立つかどうかということよりも、ただその事実が自分の人生の宝物になるし、少しは「世界を置いてきぼり」にできたかな、なんて思う。インストールしたストーリーが子どもの人生に役立つことがあれば、それはそれでラッキーだね。継続は力なり。今も絵本から様々な養分を吸収してる。

 

休日を平常心で過ごす

子どもが就学しても、休日は当然、家にいる。スポーツクラブや習い事に入っていれば別だけど、うちはその予定も特にないため、末っ子小1男児などは、やはり「父上!」と言いながらまとわりついてくる。

 

以前は、仕事も含めて休日にもやりたいことがたくさんあり、一方では、家族のために時間を割けない自分を後ろめたく感じ、休日を平常心で過ごすことができなかった。

 

でも今は、ほとんどのことを断捨離してしまったし、土日は仕事もなるべく放り出すことにしているため、必要な時は目いっぱい相手してやる。「世界から置いてきぼり」という恐怖感もほぼ無くなってしまったし、かなり吹っ切れてきた。テレビやスマホの画面をのぞき込んでいても、大して面白いと思える情報なんて無いし、そこへ逃げ込む理由も特にない。じゃぁ、目の前の生き物の相手をしてやろう!

 

目の前に「ストーリーを共作・共有したい」と言ってる人間がいるのに、それを放っておいてまで、どこか遠方や別空間でストーリーを作る意味が、ボクにはなくなってしまった。だから、目の前の人間と一緒にストーリーを作る。繰り返しになるが、相手に何を期待するでもなく、ただ一緒にストーリーを作るだけだ。

 

夕闇に浮かぶ3つの影

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日曜日。

テスト勉強を終えた中2の長女、友達と遊んで帰ってきた小5の次女、ボクと遊んでいた小1の長男の波長が珍しく合って、もう薄暗くなりかけの夕方5時ごろに、3人で外へ飛び出して行った。

 

少々疲れ気味のボクは、自宅前の夕闇に浮かぶ3つの影を、やはり遠巻きに観察することにした。長女と次女が弟を上手くコントロールして、3人でバスケット、縄跳び、キャッチボールなどをワイワイと楽しそうにやっている。本当に楽しそうにやっている。ボクも元気を出して参加しようかとも思ったが、やっぱり観察することにした。

 

6時。

もうほとんど真っ暗だ。

それでもキャッキャッと遊んでいる。

 

何かの呪いか魔術か催眠術にでも掛かったような感覚に囚われることもあったこの十数年だけど、やっと・・・やっと、ここまで来たんだなぁ、と少し心が和らいだ。「世界から置いてきぼりを食らっても何とかなる」というこの結果論を、十数年前の自分に教えてやることができたなら、もう少し心も楽だったんだろうね。

 

 

 

さいごに

ボク自身が感じることに過ぎないが、人間は 30歳を超えると、垂直方向(深さ方向)の成長は乏しくなり、せいぜい水平方向(拡がり方向)にしか成長しなくなる。それならば、そのエネルギーを自分に向けるだけではなく、他者や次世代に向けるのもありかな、と思う。

 

上に書いたことは精神論寄りの考えだけど、行動が精神により規定されるか、システムや仕組みによって規定されるかは人それぞれだから、それぞれに合った行動のきっかけを見つけるしかないんだろう。

 

いずれにしろ、的を絞れずに二兎を追うよりも、決断なり割り切りなり諦念なり、家族とも相談した上で方向性を整えていく方が、自分にとっても家族にとってもハッピーな結果になるんじゃないかと思っている。それぐらい、子どもや育児の魔力は、人間を極限状態に追い詰める可能性があるからね。

 

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