
小学校卒業式の袴
最近、小学校の卒業式を見て、「ハカマ姿の子が増えたもんだ」と感じる。
少子化のため成人式の着物需要が減り、大学卒業式でのハカマ姿もある程度定着し、高校や中学はほとんどが制服のため、着物業界の次のターゲットとして小学校の卒業式が注目される中、「特別感を出したい」という小学生自身の純粋な欲求や「我が子を少しでも輝かせたい」という親の欲目も加わって、最近特にハカマが流行っている。
一方が輝けば、他方がよりくすんで見えるのは、何もハカマに限ったことではなく、世の常だろう。ハカマを着用する子がいる一方、ハカマを着用(したくても)出来ない子も、他方にはいる。
この世は資本主義の競争社会だから、このような差が生じることに何ら不思議はないし、それを咎めることだって誰にもできない。
ただ、ハカマを着用する子には、自分がたまたま恵まれた環境にいるだけのことであり、自分が感じる「特別感」は、おそらくハカマを着用できない子を「踏み台」にすることで感じられる「特別感」だ、ということを頭の片隅のさらに隅っこの方にでも置いておいてほしい。そう願うことしかできない。
仮想通貨

仮想通貨は、国境を越えた壮大なババ抜きだ。
互いに様子をうかがい、相手の心理を読み、ウソかホントかよく分からない情報を流しつつ、ババを相手に押し付ける。そして、最後にババを持っていた者が負けとなる(損をする)ゲームだ。
このようなゲームは、噂が噂を読んで広まっていくことが多く、その噂の拡散には「言葉」が重要な働きをするから、たとえば英語圏での流行と日本語圏での流行とには、時間のずれが生じる。なので基本的には、「他言語に強い者」→「情報強者」→「情報弱者」という順番に噂が広がり、ババの流れもこの順番となる。
このようにババ(損)が強い者から弱い者へと流れていくのは、何も仮想通貨に限ったことではなく、世の常だろう。誰かが得するためには、誰かが必ず損する必要があり、損を引き受けるのはだいたい弱者だ。
ただ、ババ抜きを咎めることに意味がないように、(規制の弱い)仮想通貨取引というゲームを咎めることにも意味はない。勝った者を「勝者」、負けた者を「敗者」と呼ぶしかない。
人工知能(AI:Artificial Intelligence)

人工知能(AI)が史上3度目のブームを迎えているが、過去2回とは異なり、マシンの処理能力やアルゴリズムの改良、ビッグデータの蓄積があるため、ブームがそのまま社会に浸透しようとしている(データなしでも AI が学習できるようになってきている)。
AI は、さまざまな分野で人間が提供してきたサービスなどに取って代わる可能性はあるものの、現状では身体を持たず、物事の意味も理解できないため、精度が 100%になることはない。ただ、精度が 100%でなくても、サービスが無償ならば許されやすい。
つまり、これまで膨大な人的コストを掛けて無償のサービスを開発・提供してきた企業にとっては、絶対になくてはならない技術である。だから、Google や Facebook などは、ものすごい勢いで AI ブームを牽引している。
AI を利用して低コストで実装した無償のサービス(自動翻訳等)を次々と提供し、それ目当てで集まってきた人々に広告をクリックしてもらえれば、莫大な利益を上げることができる。
もはや国境など関係なく、圧倒的な寡占状況が生じ、優れた AI 技術によって提供されるサービスに人々は集まり、その AI を提供する企業や団体ばかりにお金が集まる。
お金の流れの分断
こちらの本にも書かれているように、AI によって自律したシステム(社会システムを含む)が形成され、仮想通貨の基盤技術であるブロックチェーンによって分散したシステム(社会システムを含む)が形成されるようになると、現実と仮想の垣根を越えて、自律分散したシステムがあちこちで生まれるようになる。そして、各システムに集う人々の貧富の差やシステムそのものが持つ実力に応じて、システム間にも経済的な格差が生じると考えられる。
そうなると、すでに一部でそのような意識が芽生えているように、システム内の価値観が近い者同士だけでお金を融通し合う形が生まれる。

その方が効率的であり、そうやってシステムの規模を拡大させた後に、規模の力で他のシステムに影響(搾取)を及ぼすことができるためである。
これにより、階層間のお金の流れは自然に分断され、下の階層では、上の階層からのおこぼれにあずかるのが当たり前の状況が生まれるかもしれない。
ベーシックインカム
このような状況になれば、好むと好まざるとに関わらず、「ベーシックインカム(BI : Basic Income)」の必然性が否応なく高まる。ベーシックインカム(BI)とは、生活に必要な最低限の現金を政府が全国民に支給する仕組みである。
上に書いたような格差が少しずつ拡がっていくため、その格差を是正するには、政府が上位の階層から税金を徴収して下位の階層に配るしかない、という発想で大昔からある考え方であり、最近ではスイスで導入是非の国民投票が行われたり(結果は否決)、フィンランドで数千人規模の実証実験が行われたりしている。
たとえ働かなくても最低限の生活は送れるし、お金の心配なく自分の好きなことで活動したり起業したりできることが魅力的なため、今後、導入を望む声が徐々に大きくなっていくんじゃないかと思う。
ゲームの結末
ただ、どうしても引っ掛かることがある。

卒業式のハカマも、仮想通貨取引も、人工知能(AI)を介した主導権争いも、すべてゲームのようなものだ。ある意味、人を踏み台にするゲームだ。
そして、そのゲームは、気持ちやお金の面で相手を上回れば「勝ち」である。
敗者としては、気持ちはまだ我慢すれば何とかなるかもしれないが、お金に関しては、無くなれば生活が成り立たない。仕方がないから、政府から支給されるベーシックインカム(BI)を有り難く受け取る。そして、その受け取ったお金もまた、ゲームの「ポイント」として、上位階層の何者かに吸い上げられていく。
結局、上位数%以外の人間は、「金儲け」というゲームを成り立たせるだけ、お金を循環させて経済を成り立たせるだけの存在にしかならない。ベーシックインカム(BI)だって、人を踏み台にするゲームの一構成要素と化してしまう。
そんなベーシックインカム(BI)を、オレは有り難く受け取れるかどうか分からない。
このような未来に、上位数%の人たちには、税金という強制的な手段ではなく、寄付などの自主的な手段でお金を還元するところまでを「ゲーム」と考えてもらいたい。
上位数%に入れたのは、持って生まれた能力や努力できる資質も含めて、たまたま恵まれた環境にいた結果に過ぎないと思うからさ。