
「人間」という言葉は、社会の中の1つの人格として、人と人の間に存在することを前提とする意味から、「人の間」と書いて「人間」を定義することになったらしい。つまり、人間が人間たり得るのは、人と人の間に存在し、自己と他人が相互につながり合い、社会の中に「人の鎖」を張り巡らせることに一役買っているからに他ならない。
「人間(human)」とは何か
「人間」の定義が「人と人の間に存在すること」を前提とした理由はよく分からないが、鎖の一員として人を社会に「つなぎ留めておく」ことが、社会秩序のための必要条件と考えられたのかもしれない。
「人間」に対応する英語としては、「man」や「human」がある(前者については、男女平等の観点から忌避される傾向にあるようだ)。「man」は、「mind(心)」や「mental(精神)」と同じラテン語が語源で、「知能を持った存在」ということになるらしい。
「human」の「hu」は、「humidity(湿度)」や「humiliate(恥をかかせる=顔に泥を塗る)」の「hu」とも共通して、大地や地面に関係していることから、「human」は「知能を持った地上の存在」ということになるらしい。
「地上」を意味する「hu」が付いているのは、その上に存在する神(God)との対比と考えられるから、欧米の「人間」の定義は、あくまでも「神 vs. 人」であり、決して「人と人の間に存在するもの」ではない。
欧米では、「絶対神 vs. 人」という構図のもと、人間は社会契約を結んで社会秩序に貢献するものであるが、日本(仏教)には絶対的な神が存在しないため、社会秩序を守るためには、人と人の間に人を置かざるを得なかった、ということなのかもしれない。
いずれにしろ日本では、人と人の間に存在しない人は「人間」ではない、ということになる。
自由主義や個人主義の追求
一方、近代というのは、自由で個人が尊重される社会の構築が大きな目標となり、その自由主義や個人主義の流れは、現代社会の大きなうねりとなって、もはや誰にも止めることなどできない。自由や個人の尊重が踏みにじられるような事態が発生したら、ネットや SNS を通じて、ものすごい勢いで炎が燃え広がることになる。自由や個人の尊重は、(少なくとも先進国では)誰もが手中に収めていることを疑わないものとなっている。
自己や他人も含めて、すべての人間の個性を尊重する本来の「自由・個人主義」ではなく、自分の好き勝手にする自己中心的な振る舞いを「自由・個人主義」と履き違える向きが支配的になりつつあるのは残念なことだけど、利他的であれ利己的であれ、自由や個人が尊重される風潮は留まることを知らない。
社会秩序のための「重し」
このように自由主義や個人主義が進んでも、欧米では(一応)「神」が重しとなって、社会秩序が保たれることになる。日本では、「人と人の間に存在すること」が重しとなって、社会秩序が保たれることになる。・・・はずだった。
でも、「神」という決して見ることのできない対象とは異なり、「人と人の間に存在すること」というあまりにも現実的すぎる重しは、科学技術の進歩やそれに伴う社会の変化によって、容易に軽量化してしまう。
人間が「人間」でなくなる日
格差の拡がりやフィルタ―バブルの影響で、異質な他人との多様な付き合いはますます幅が狭まっている。その上、地域社会や会社への帰属意識もますます薄れていくため、腰掛的かつ機械的に会社で働いて給料をもらい、ネットやコンビニで買い物していれば、「人と人の間に存在する」必要など無くなってしまう。
そうすると今度は、「人と人の間に入ること」がとてつもなく恐ろしいことに思えてくる。特に、相手を選べない場合は、魑魅魍魎の世界に放り込まれるようなものだ。
魑魅魍魎どもは、完全に手中に収めたと信じている「自由」や「個人」を脅かす存在だから、何としても排除しなければならない。その方法の1つは、魑魅魍魎どもと縁を切ること。魑魅魍魎どもが「客」の顔をして近づいてきても、「あなたたちに売るものは何もありません」と明示的あるいは暗示的に伝えて、お引き取り願う。
ただし、客を神様として招き入れてきた経緯を考えると、穏便にお引き取り願えるようになるには、まだまだたくさんのハードルが残っていそうだ。そこで考えられるもう1つが、人と人の間に人工知能(AI)を配すること。コールセンターの自動応答など、一部ではすでに、人と人の間を AI が十分に取り持っている。
人工知能(AI)が「人間」となる社会
相手を選べないタクシー業務も、AI を搭載した自動運転車が本格的に導入されれば、もう個人が困ることはなくなる。というか、個人を困らせる1つの職業が消失することになる。
相手を選べない小売店の店員も、Amazon Go のような無人店舗が広がれば、もう個人が困ることはなくなる。というかこれも、個人を困らせる1つの職業が消失することになる。
相手を選べない公務員の仕事も、窓口業務に AI が導入されれば、魑魅魍魎どもに悩まされることがグッと少なくなる。学校の先生だって、保護者との間を AI が取り持ってくれれば、限られたリソースを子どもに集中することができる。
そうやって、「人・AI・人・AI・人・AI・人・・・・・」という社会が構築されていけば、「神」という重しが存在せず、「人と人の間に存在すること」という重しも消えて無くなったこの日本でも、社会秩序は依然しっかりと保たれて、もはや「人間」とは呼べなくなったヒトビトの自由主義・個人主義が、思ってもみなかった形で完成することになるのかもしれない。
などと妄想してみる。
ヒト・AI・ヒト・AI・ヒト・AI・ヒト・・・・・
人と人とのコミュニケーションには、AI が必ず関わることになる。今や、AI の力によって、生まれたばかりの赤ん坊ともコミュニケーションできるようになっている。
人と人の間に AI が介在して、やり取りする内容を逐一チェックしてくれれば、勘違いや誤解がなくなって、友人関係の軋轢がなくなるかもしれない。言葉や無言の暴力が通り魔やテロに発展する可能性が低くなるかもしれない。女と男、女と女、男と男の間に AI が介在すれば、恋愛がスムーズに進展して、結婚に至る確率が高くなるかもしれない。夫婦喧嘩も少なくなり、セックスレスも解消され、平和な時間が流れることになるのかもしれない。
もう誰も、人間関係に悩まされることはなくなり、「個人主義」を通り越した「自分本位」が完成に近づいていく。それと同時に、「人間」という言葉が辞書から消え、「human」の日本語訳からも除外されることになる。
会話 → 電話 → FAX → メール(LINE etc.)と徐々に「薄く」なりつつも「直接的」であることだけは変わることのなかったコミュニケーションだが、AI が介在することで「間接的」という未知の領域に突入する。
それが幸福なのかどうかは知らないが、誰もが信じて疑うことのない究極の「個人主義」が完成することになる。
やがて
人と人の間の AI にとって代わろうとする「人間」が登場する、未来のある日。