敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「頭いいね」と褒めるのヤメれば、仕事も勉強も恋愛も幸せになるかもね

 

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他者に優しくない国、日本だ。

 

電車にベビーカーで乗り込んだり、赤ん坊が少し騒いだりするだけで、冷たい目線の舌打ちが返ってくることがある。赤ん坊は、大人になる「プロセス」を歩んでいるだけだ。

 

外国人技能実習生が自殺や失踪に追い込まれるニュースが散見される。難民認定率(認定÷申請)が1%にも満たないこの国の印象を、これ以上悪くしてどうしようというのか? 実習生は、技能を身に付ける「プロセス」を歩みに来たはずだ。

 

ネットや SNS でつながるのは、フィルターバブルを共有する心地のよい相手だけで、バブルの外側の人間には敬意を示さないばかりか、関わることも、想像することすら忌避されるようになってきている。「嫌悪」や「親密」の前の「知る」という「プロセス」が蔑ろにされるようになって久しい。

 

他者に優しくないのは、失敗を怖れるから

どうして他者に優しくなれないのか? それは、ボクら日本人が「失敗」を極端に怖れるようになってしまったからじゃないか? わけの分からない他者に一切関わらず、ゴーイング・マイ・ウェイさえ貫けば、少なくとも自分は「失敗」することがない、というマインドの塊じゃなかろうか、と思う。

 

つい先日の9月11日、台風15号による大規模な停電が起きている千葉県市原市で、多くの中学校が休校となっているのに、県大会の予選となる陸上競技会が実施され、熱中症で生徒2人が搬送される、というニュースがあった。選手に優しくない。

 

一方、大学入試センター試験の後継として2020年度から運用がスタートする「大学入学共通テスト」の英語民間試験について、居住地域や親の経済力による不公平さが指摘され続け、高校生らによるデモまで起こっているのに、見直される気配なし。受験生に優しくない。

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両者に共通するのは、一度走り始めてしまったものを止めることが「失敗」と見なされる風潮の中、問題が見つかっても決して後戻りしようとしない(しようとしても出来ない)空気感がとめどなく漂っている点だ。今は、大日本帝国か?

 

卑近な例で恐縮だが、子どもが通う中学校の吹奏楽部の顧問にも、同じような空気感が漂っているので紹介したい(ちなみに、我が子は吹奏楽部ではない)。何にしろ、横暴なパワハラっぷりが時代錯誤すぎて、思わず笑いたくなる。生徒を罵倒し、できる生徒だけを明らかに贔屓し、生徒の心を平気で踏みにじる。3年生は進路希望を出す時期なのに、秋の大会が終わるまでは高校の説明会への参加すら認めない。吹奏楽で推薦をもらうわけでもない子は、どうやって進路を決めるの?

 

地区大会で優勝や準優勝の実績だけは残せているため、そういう結果を残せなくなる「失敗」をしたくない気持ちから、顧問自身が自分のルーチンに長年しばりつけられてしまっているパターンだろう。

 

当然、生徒やその保護者から、非難の声が漏れ伝わってくる。LINE などでつながりたい放題なわけだから、ボイコットでも署名でも一揆でもデモでも、何でもやれば良いと思うのだが、その手の闘争を仕掛けて、もし失敗してしまったら、顧問からのひどい仕打ちが待っていることは容易に想像できるし、生徒や保護者の「手のひら返し」の可能性も大いにある。そんなリスクを追ってまで、闘争を仕掛ける勇気なんて、普通はない。仲間ですら、「失敗」した者からは、潮が引くように一気に離れていくからね。

 

失敗を回避するために他者との関わりが薄くなっていく上、失敗を恐れてビクビクしているうちに、他人の失敗には異常に厳しくなっていく。客がモンスター化し、ペアレントがモンスター化する背景には、失敗に対する異常なまでの不寛容さがあるような気がする。

 

そんなこんなで、失敗しないように忖度しまくる社会が出来上がる。

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失敗を怖れるのは、結果しか見ないから

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どうして失敗を怖れるのか? それは、ボクら日本人が「結果」だけを重んじる傾向が強すぎるからじゃないか? 「結果」は当然ながら、「プロセス」の帰結でしかなく、たとえば受験勉強であれば、プロセス(勉強そのもの)は本人の努力である一方、結果(合否)というのは、ライバルの出来/不出来、入試当日の体調、問題の相性など、運の要素がかなり大きい。というか、ほぼ運だったりする。合格に至るプロセスを踏む努力ができること自体、運だ。

 

そんな運でしかない「結果」を重んじるのは、そもそもおかしいし、運でしかない「結果」をもってエライだの偉くないだのと論じることには、何も意味がない。

 

なのに、この国では、結果が妙に尊重される。というか、結果を尊重するのは、欧米であれアジアであれ、少なからず共通する流れだとは思うが、日本では特に、結果に対してプロセスがあまりにも軽んじられているような気がする。

 

元々、島国で均質性が高い上、特に明治以降は、欧米から持ち帰った自由や平等の精神も相まって、機会やプロセスには大差がないという社会の共通認識のようなものが出来上がり、そのために「結果」ばかりが重視されるようになったのかもしれない。つまり、プロセスを論じたり加味したりする必要性がない、という思い込みがあるのかもしれない。

 

結果しか見ないのは、結果しか褒められないから

結果しか見えていなければ、自分の子どもに対しても当然、「結果」だけが褒める対象となりがちだ。そうやって、「結果しか褒めない」→「結果しか見なくなる」という連鎖が続いていくことになる。

 

たとえば、子どもの勉強で考えてみると、良い点数を持ち帰った時に「頭いいね!」と親が言えば、それは結果を褒めていることになり、「努力の結果だね!」と親が言えば、それはプロセスを褒めていることになる。その褒め方の違いが子どもにどのような影響を及ぼすかについては、20年以上も前に米国で研究報告されており、有名だ。

 

簡単に言ってしまうと、プロセスを褒め続けたグループはその後、難しい課題にも果敢に挑戦するようになる。一方、「頭いいね!」と褒め続けたグループは、努力をしなくなったり、「頭がいい」という体裁だけを守ろうとしたりする結果、難しい課題に挑戦する意欲を失ってしまう。つまり、失敗を怖れるようになってしまう。

 

こうなると、悪魔の無限ループが始まる。結果しか褒めない → 結果しか見ない → 失敗を怖れる → 結果を過度に重視する → 結果しか見ない →失敗を怖れる → 結果を重視する → 結果しか見ない ・・・あらら・・・。

 

たとえば仕事や研究などで、結果がすべてになってしまった場合、「結果欲しさ vs. 良心の呵責」の闘いで前者に軍配が上がると、データの捏造や改竄、無断コピーなどが横行し始める。失敗が怖くて挑戦できないのに、結果だけを強く求められる結果としての不幸だ。

 

たとえば恋愛や結婚などで、失敗を怖れるということは、挑戦的な恋愛や結婚が忌避されていくことであり、昨今の特に20代を中心とする結婚で、結婚相談所やマッチングアプリといった現代版「お見合い」の需要がジワリと伸びていることも納得がいく。このような状況で、良い結果に至らない可能性の方が高い自由な恋愛や結婚に挑戦しようとする者など、少しずつ変人扱いされていくようになるんじゃないかと思う。そういう社会が不幸なのかどうかは意見が分かれるところだけど、予定調和の中でしか結果を見出せなくなるというのは、古い人間にとってはかなり違和感があるかもしれない。

 

 

 

「頭いいね」とは褒めない

「頭いいね」と褒め続けると、結果しか見なくなる。結果しか見なくなると、失敗を過度に怖れるようになる。失敗を怖れるようになると、他者に優しくできなくなってしまう。他者に優しくできない社会は、長い目で見て、広い目で見て、損に決まっている。

 

また、「頭いいね」と、プロセスではなく結果を褒めるということは、「努力」ではなく「運」を褒めるということ。でも、「運」なんて、褒めるもんじゃないだろう。運を実力と勘違いする人間が増えても、ざんねんな社会にしかならない。

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「頭いいね!」のように結果(運)だけを褒めるのは、もうやめだ。それは、他者に優しくなれない社会を子どもたちに残す行為であり、子どもたちが損するだけだと思うからね。

 

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