
フェミニストでもありませんし、ウーマンリブに心酔しているわけでもありませんが、特に日本の場合、「男女平等」への到達には、かなり高いハードルがあるように思えます。
ボク自身は、人間には(LGBT を含めた)性別に応じた得意/不得意があるので、男女の完全な平等が必ずしも望ましいわけではないし、同じ性別の中でも性格や気質にはグラデーションがあるため、「男女」という括りではなく、各人が自分に合う生き方を選べるのが一番だと思っています。
ただし、男女を比較すると、体力面では男性が女性に勝るのが一般的ですから(もちろん、体格差等による逆転はあり得ますが)、そのような体力差(=弱肉強食)に由来する不平等については、それを解消する仕組みなり制度なりがあって当然でしょう。
でも、そのような体力面での不平等も含めて、日本ではどちらかというと「男女平等」が遠ざかっていくような気がするんですよね。ちょっと考えてみます。
「男女不平等」という意識/無意識

古い施設などを利用すると、女子トイレを「赤」、男子トイレを「青」とする表示が残っていたりします。別に、色分けそのものに差別があるとは思いませんし、「駆け込む」可能性もある場所ですから、一瞬で判断するための要素として、色分けはすごく効果的なデザインです。ただし、ランドセルの色分けなんかも含めて、ステレオタイプに女性を「赤」、男性を「青」と決めつけてしまうは、性別に「色」という役割が固定されてしまい、意識面での影響はあると思います。
とは言え、男女ともに「黒」にしたところで、今度は「女性がスカートというのは差別では?」という意見が出てきますので、それを解消しようとすれば男女の区別がほとんどつかないマークとなってしまいます。では、浴場のように「男」「女」と文字で区別してはどうか、という意見が出てきそうですが、小さい子には読めません。ならば「おとこ」「おんな」という平仮名表記も考えられますが、これはこれで見分けが付きにくいですね。では、視覚ではなく聴覚で判断できるように、「男性は右側へ、女性は左側へお進みください」という放送案内ならどうかと言えば、緊急時には間に合わなさそうです。そのうち、カメラやセンサで男女を判断して、ゲートなどで男女をそれぞれのトイレに誘導する仕組みなんかが出てくるかもしれませんね。その他、嗅覚・味覚・触覚など、まだまだ使える感覚は残っています。
話を戻しまして・・・
近所の神社のお祭りでは、毎年10月初旬に神輿をかついで町内を練り歩くのですが、特に決まりがあるわけではないものの、これに大人の女性が参加することはありません(まぁ、「神輿を担ぎたい!」と思う大人女性がそんなにたくさんいるとも思えませんがね)。
大相撲の土俵に女性が上がるかどうかでも揉めているように、神事=男性の役割という固定観念が出来上がっており、こんなちょっとしたことでも、男女の役割意識が固定化されていく原因になるんでしょう。
このような慣習というのは、家庭の中の役割にも大きく影響しており、男女平等がある程度進んできたとはいえ、男性が表面的にはカジメン・イクメンとなって家事・育児に参加する機会が増えてきているとはいえ、「家事・育児は女性の役割」というモヤっとした感覚というのは、今も多くの家庭で夫婦間の底流にあるんじゃないかと思います。
昭和時代をがっつりと生きたボクの父親など、共働き世帯でもあったため同世代の中ではかなり家事・育児に精を出していた方だと思いますが、それでも要所要所では「昭和的オヤジ」気質が出てしまい、結局は母親が面倒と苦労を引き受けざるを得ない場面が多かったことを子ども目線で眺めていました。
それを見て育ったボクは、アンテナを常に高く保って、誰にも負けないカジメン・イクメンになろうと頑張ってきたつもりではあるのですが、前世代の夫婦間の役割分担を見て育った影響なのか、ちょっと疲れただけなのにツマに頼ってしまうこともあります。ひたすら自分を戒める毎日です。こういう「甘え」は、もはや「意識」というよりは、育った環境で身に付けてしまった「無意識」ですね。近所や知人の家庭では、昭和風の亭主関白な環境が意外にたくさん残っているように感じます。
そもそも、「男女平等」や「男女差別」という言葉自体が、「男が先、女は後」という固定観念の権化のように見えてきます。言葉狩りに興味はありませんし、ただの慣用的表現と言ってしまえばそれまでなのですが、この「男・女」という語順が「女・男」という語順へと変化する時代がやがてくるのだろうか、などと考えることがあります。
一方、子どもが通う小学校の持久走大会を見ていて、「これは、男女平等が間違った方向に進んだ結果じゃないの?」と思えることがあります。男女が一緒に走ると、体力的に勝る男子が上位を独占し、そのあとに女子が続くという光景が生じるのは、当たり前と言えば当たり前です。体力や筋力に差があるものを一緒にしてしまっては意味がありません。オリンピックでも世界選手権でも、男女が一緒に競う競技なんてないですよね。男女平等を意識し過ぎた結果、皮肉にも「男女不平等」が強調されてしまい、「女子は体力で男子に敵わない」という意識を逆に植え付けていないか心配です。
以上のように、「男女不平等」を意識せざるを得ない場面というのは、まだまだたくさん残っているのが現実です。
「男女不平等」という諦念
世界経済フォーラム(WEF)は毎年、男女格差の度合いを示す「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」というのを発表していますが、日本は相変わらず「超」低空飛行を続けています。調査対象となった 149カ国のうち 110位で、G7 では最下位です。女性の政治参加が極端に少ないことと、男女の大きな給与格差が主な原因のようです。
政治にしろ経済(仕事)にしろ、過去何十年(あるいは、何百年~何千年)にもわたる男社会の中で男性が利用しやすいように構築されてきた巨大なシステムですから、そう簡単に翻るものではありません。男女問わず、そのような男性優位なシステムに対して投げ掛けた疑問符が歴史とともに積み重なっていく事実はありますが、それ以上に「あきらめ」となって現状を渋々受け入れてしまうケースの方が圧倒的に多いんじゃないでしょうか。
以前、ある中小企業の事務所を訪れた際、女性社員がお茶くみをしていました。それが業務上の命令なのか、女性自身の好意なのか、昔からの慣習なのかは知りませんが、昭和時代にタイムスリップしたような感覚を覚えました。自分の目の前に置かれた湯呑には、何となく手を付ける気になれませんでした。
家庭においても、オットの「甘え」をツマが尻ぬぐいするのは、そのような前世代の光景を夫婦ともに眺めて育ってきた結果としてのツマ側の「諦念」のような気もします。
巨大なシステムや抗いがたい慣習を目の前にした時、多くの人の頭に去来するのは「諦念」でしょう。それは、男女問わず言えることです。
日本の「男女平等」が難しくなる理由
ただ、上に書いたような「意識/無意識」や「諦念」は、それほど問題ではないと思います。というのも、それらは「男女平等」が社会の中で進めば進むほど、自己解決していくものと考えられるからです。
卵が先か鶏が先かの側面はありますが、ゆっくりとは言え男女平等は進んでいますので、そのような概念が社会に浸透して多数派となってくれば、男女差別する側が少数派となって、自然淘汰される可能性が高いからです。昔は、職場でも電車内でも普通にタバコを吸える環境だったのが、今では想像もできないほどに「タバコ NO!」社会となっていることからも、そのような可能性は十分に考えられます。
では、「意識/無意識」や「諦念」以外に何が大きな問題かといえば、それは「日本の経済が下向きであること」です。経済停滞と男女平等に何の関係があるのか、以下で考えてみます。
下向きの日本経済で現れる2つの不都合
女性には、程度の差こそあれ出産・育児願望があります。その願望を叶えようと思うなら、今の日本では基本的に結婚することが前提となります。
一方、日本の未婚率は、ほぼ増加の一途をたどっています。
引用:内閣府
もちろん、男性の草食化や出会いの少なさなど、原因はたくさんあるでしょうが、ボクは個人的に、経済の停滞や格差の拡大で、女性の望む結婚条件にマッチする男性の絶対数が減っていることも大きな原因ではないかと思うのです(条件を下げてまで結婚する意味がなくなってきているとも言えそうです)。それを読み取った男性側でも結婚に二の足を踏むようになり、結果的に男女が一緒になる割合も減っています。
こうなると、特に結婚願望が強い女性の間では、男性の気を引くための「忖度」が始まります。日本はもともと、「空気を読む」「察する」という言葉が示すように、口ではっきりモノを言う文化ではなく、相手の気持ちや感情に「共感」で訴えかける文化です(いわゆる「ハイテクスト文化」です)。そのような文化ですから、結婚願望があっても女性側からそれを申し出るのは比較的稀なケースであり、男性への「忖度」によって共感を得ようとするのが一般的と考えられます。
この場合、その「忖度」の真意を男性側でも理解できていればよいのですが、そういうことは少なく、男性にとっては女性が「下」の立場に見えることになります。このような意味での「男尊女卑」は、未婚率が高止まりする限り、なくなることがなさそうです(未婚率が限りなく上昇すれば、別の「諦念」が生じて、この種の「男尊女卑」は解消される可能性も十分に考えられます)。
簡単に言ってしまうと、「追う立場は弱い」ということになります。ですので、男女平等を実現しようと思うなら、強い立場が弱い立場を追いかけるような構図が良いはずです。男性から女性にプロポーズする風習も、男女平等の観点から理に適っていると言えますね(それで女性が強くなりすぎても大変ですが・・・)。
そのためには、ジェンダーギャップ指数が低く判定されている原因の1つでもある男女間の給与格差を解消する必要があります。また、男性同士の経済的格差もなるべく小さく抑えて、女性が望む結婚条件にマッチする男性の数を相対的に増やすことも必要でしょう。結局、格差というのはジェンダーギャップを示す単なる指数に留まらず、その原因にもなっているわけで、男女平等の観点からも百害あって一利なしです。
経済的格差を解消すれば婚姻率ひいては少子化の問題が解決され、その結果として男女不平等も解消されていく可能性はあると思いますね。
もう1つは、縮まっていくパイの分捕り合戦の問題です。
少子高齢化や国際競争力の低下で日本の経済(パイ)が縮んでいくことはほぼ確実な未来となっていますが、そうなると、減りゆくパイの奪い合いが発生します。というか、もう実際に起こっています。このような状況では、性別に関係なく男女入り乱れた生存競争が激化すると考えられます。
これは、政治・経済の両面で男女平等が実現された後ならまだ良かったのですが、ジェンダーギャップ指数が示すように両面で不平等が残ったままであり、男女不平等な状態でパイの分捕り合戦が始まろうとしているわけです。つまり、男性側が既得権益を握った状態での奪い合いです。男女入り乱れた状態で、男性側が易々と権益を手放すとは考えられません。特に政治が男女不平等なので、女性側の意思で制度を改正することも難しく、手詰まり感・手遅れ感があります。
本当は、高度成長期のパイが拡大する時期に、女性がもっと多くの権益を獲得し、政治・経済の両面でもっと多くの地位を獲得しておくべきだったのですが、獲得できたのはジュリアナ東京のお立ち台ぐらいでした。それも、日本固有の男女不平等が原因として根っこにあったのかもしれませんけどね。
さいごに
男社会の成立に関して、面白い考察を読みました。
こちらによれば、文明が成立するまでは基本的に女尊男卑の社会が普通であったのが、(1)たまたま気候が安定し(暴れる自然を鎮める必要性がなくなり)、(2)世界的な宗教と思想の革命によって女性原理から男性原理への転換が進み、(3)知識と技術の蓄積によって人間が自然(母なる大地)を支配できるようになったことが、男社会(男権社会)の成立につながったと書かれています。
もしそうなら、宗教や科学技術の進歩は基本的に不可逆的なベクトルなので、もはや後戻りできるものでもなく、今後、地球温暖化などの形で大きな気候変動が再来しても、そこに「暴れる自然」という母性原理的な見方は現れず、科学技術の力で解決しようとするでしょうから、女性優位が自然に取り戻されることは未来永劫なさそうです。
であれば、男尊女卑は人為的に解決していくしかないのですが、日本の経済状況と照らし合わせてみると、なかなか難しいことなのかな、と思う今日この頃です。
それにしても、「男女平等」って難しい定義ですよね。ボクは、上にも書いたように、「何が何でも男女平等!」とまでは思わないのですが、体力や法律制度や意識や心理面で弱い立場にある人が存在するなら、それは男女問わず解決されるべきだと思っています。