
乳幼児が微動だにせずスマホの動画やテレビに釘付けになっているのを見掛けた時、「この子は、まだ生まれていないんじゃないか?」という錯覚に陥る。
ほぼ固定された位置で光と音を感じているだけなので、母親のおなかの中にいる状況とさほど変わらない。胎児といえども、ある時期になったら五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を備えるわけだから、光と音しか感じるものがないのなら、まだ胎児の初期段階とも言える。
そんな子を見掛けたら、「早く生まれておいでよ」と思わず声を掛けたくなる。
ただ、また生まれたとしても、待っているのはスマホやテレビの画面だから、人間はもはや永遠に生まれることがないのかもしれない。母親のおなかから出てきても、そこはまだ胎内であって、その胎内から「仮想空間」という胎外を眺めている。そんな状況。
この「仮想」に対応する英語「virtual(バーチャル)」には、「事実上の」「実質的な」という、「仮想」と相反する意味もあるため、「仮想空間」が「真の現実」であり、「現実空間」が「仮の現実」と考えられなくもない。
「仮の現実」に生まれ落ちた子は、画面の向こうにある仮想空間に「真の現実」を見出そうとしているだけなのかもしれない。
そんな「仮の現実」に「生まれる」ことは、「暇つぶし」のスタートとも言える。生まれた子は、暇つぶしのネタを探しながら、部屋を汚し、壁を壊し、家を破壊する。親は、そんな恐ろしい探索を少しでも抑えるため、玩具を与えたり、外に連れ出したりする。
そして、子がスマホやテレビの世界に出会った時、この親子のバトルは一旦ストップして、平和が訪れる。誰も平和を乱したくないから、スクリーンタイムは必然的に長くなる。
子が小学生にもなれば、「夢は何ですか?」という恐ろしい質問が飛び交う。来るべき未来に「パッション」というスパイスがかかれば、その未来は「夢」になり、かからなければ「暇つぶし」になる。
どちらが正解でもなく、スパイスを持ち合わせているか否か、そのスパイスが「未来」に合っているか否か、の違いだけで、実質的には「将来はどうやって暇をつぶしますか?」という質問である。
何歳であれ、暇つぶしの課題が見つかれば、そこで探索は終了となる。見つからなければ、いつまでも課題を探すことになり、死ぬまで旅することもままあるだろう。
その暇つぶしがお金になったら、それが「仕事」であり、お金にならなければ「趣味」ということになる。また、暇つぶしの過程では、何者かになる場合もあるけど、多くは何者にもなれず、只者としてその生を全うすることになる。
暇つぶしには、ゲームやギャンブル、将棋や囲碁、資格の勉強・取得、スポーツ、宗教などなど、何でもある。基本的には、人間が編み出したルールの中で競ったり闘ったりするものだから、これらを総称して「ゲーム」と呼ぶことにする。
人類の一番のゲームは、等しく労働を提供して等しく果実を分け合うことに飽き足らず、そこに競争の原理を持ち込んだ「資本主義」というゲームかもしれない。
その「資本主義」というゲームの中では、高度成長期が一番の佳境だろう。ゼロ付近からスタートして、些細な失敗や後退などはすべて飲み込みながら、ひたすら前へ前へと進んでいく。何をやっても大抵は上手くいくから、こんなに楽で面白いゲームはない。
やがて、先進国になったり金持ちになったりすれば、そこでゲームは一旦終了となる。ゲームは終了となるのだが、残されたプレーヤはそれでも生きて「暇つぶし」をしていかなければならないから、ゲームの中でゲームに興じるしかなくなる。そのために、さまざまなゲームを編み出していく。「ゲーム化社会」の始まりだ。
今や、「仮想空間」という「真の現実」がオープンになり、人工知能(AI)やブロックチェーン、VR・AR といった技術プラットフォームが整って、さまざまなサービスや遊びを享受できるようになっている。仮想通貨もその1つだ。
そんなプラットフォーム上では、有名人やインフルエンサーと呼ばれる人々も躍動する。インフルエンサーは、人や社会に影響を与えてこそインフルエンサーたるわけだから、当たり前のことを発信するわけにもいかない。だから、言動が必然的に先鋭化していく。
マンネリやバランスを否定して、他人との差別化に躍起になる。そして、執着心・没頭力を奨励し、炎上したり出る杭になったりすることを勧める。時には、ワークライフバランスの破壊を是とする。
インフルエンサーの影響を受けるインフルエンシーは、影響を受けやすいからこそインフルエンシーなわけで、その性質を大いに発揮して、インフルエンサーの影響をまともに受けることになり、やがてインフルエンシーも言動が先鋭化していく。
ただ、一部のインフルエンサーの様子を伺っていると、最初は「金儲け」からスタートしていたとしても、お金に困らなくなった時から、趣向が変わっていく傾向も見られる。たとえば、より深い自分探しへと移行したり、教育者へと移行したり。もちろん、「金儲け」を深化させるインフルエンサーもいる。
このような変遷を見ていると、インフルエンサーの多くも「暇つぶし」の課題探しの途上にあり、途上でたどり着いた1つ1つの「暇つぶし」の正当性なり妥当性を確認したいがために、先鋭化して発信し、それに対する応答で自身の存在を確認しているように思えてくる。
一方のインフルエンシーは、言動が先鋭化する者もいるとは言え、多くは、依然としてバランスを保ちながら生きていこうとするのだろう。先鋭化するには、ある種の創造性が必要になる。創造性を「主体的に暇つぶしの課題を探すこと」と言い換えるなら、多くはこれに憧れがあっても、そればかりでは苦痛に感じるはずである。
暇つぶしの課題を自分自身で延々と探し続けるのは苦しく、時には誰かに与えられ、あるいは常に誰かに与えられる方が楽と感じるのが、普通の感覚ではないだろうか。
ゲーム化社会の中でさまざまなゲームに没頭する私たちは、そうやって誰かが与えてくれる「暇つぶし」の恩恵に浴しながら、その「誰か」が人工知能(AI)であるかどうかにも気付かず、いつしか「仕事」という暇つぶしまで奪われてしまうのかもしれない。
暇つぶしを与えてくれる「誰か」は、暇つぶしを与えることこそが「ゲーム」なわけだから、そのゲームを続行する(暇を消化してもらう)ために、暇になった私たちに何らかの施しを与えようとする。それは、寄付なのかもしれないし、ベーシックインカム(BI)なのかもしれないし、もっと違う別の形なのかもしれない。
微動だにせずスマホの画面を見続ける乳幼児は、運良くか運悪くかは分からないが、生まれて間もなく、強力な「暇つぶし」に出会ったことになる。その乳幼児たちは今後、主体的に暇つぶしの課題を探す子もいれば、誰かが与えてくれる暇つぶしに浸り続ける子もいるのだろう。
ただ、それがどんな暇つぶしであれ、自分の意志では身動きが取れなくなるほどのドハマりだけはしてほしくない。そう思う、今日この頃である。
などと考えながら、今日も暇つぶしに勤しみ、明日以降の暇つぶしの課題を探し続ける。