敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

父親が育児に「参加」するのではなく「責任を持つ」時代へ|脱イクメン

 

子育て イクメン 育児 パパ 父親 責任 参加

 

 

「イクメン」という言葉が使われるようになって久しいですが、その響きの裏には、「子育てに参加はするけれど、責任までは持たない」というネガティブな意味も含まれるようになりました。「イクメンw」と自称して子育ての美味しいところだけを担当し、それを対外的に猛烈アピールするお調子者パパさんが一定数存在した(する)ことと無関係ではなさそうです。

 

そういうアピールも、ここ数年はどちらかといえば「恥ずかしいこと」に分類されるようになり、わざわざアピールするまでもなく、自然に育児参加するパパさんが増えてきているように感じる今日この頃です(・・・などと、少し高い目線で失礼いたします)。

 

もう一歩踏み込んで、「参加」だけではなく「責任を持つ」ようになれば、家族の困難から、社会の困難、国の困難に至るまで、さまざまな問題が解決されるのではないかとひそかに期待しています。江戸時代の武家でも、父親が積極的に育児に携わるのが当たり前だったと聞きますし、できないことではないんですよね。

 

弱者に責任を負わせる罪

戦後からバブル崩壊前後までの一般的な家庭の姿は、「亭主元気に外で働き、専業主婦が育児のすべてを担当する」というものです。家父長制の下、サラリーマンの人海戦術で高度成長を成し遂げようとするのには理想的な形態だったのかもしれません。

 

しかし、この構図が怖いのは、お金を稼いでくる夫が一番エラく、家計を切り盛りする妻が二番目にエラく、それに子どもが続く、という家庭内順位が容易に成立してしまうところです。

 

一番エラいわけではない妻が、一番エラい夫の評価や機嫌を損ねることのないように、「育児」というかなりハードなプロジェクトを遂行しようとすれば、その責任感の重さから、妻から子どもへの過剰なプレッシャーが発生するであろうことは、想像に難くないですね。川崎や練馬の事件の背景にも、中年の引きこもりが 61万人を超えている現実にも、このような日本の一時代の姿が関係しているような気がしてなりません(もちろん、それ単独ではなく、いろんな要素が絡み合った結果だとは思います)。

 

プロジェクトの責任を一番エラい人が放棄してしまっては、完遂するのが極めて困難になるのは当たり前ですし、組織としても成り立ちません。エラい人が責任を持つか、責任を持たないのなら「エラい人」をやめるか、そのどちらかしかありません。男女の立場が入れ替わっても、同じことが言えます。

 

弱肉強食サヨナラ

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自分自身の経験を振り返ってみると、最初に「子育てスイッチ」が入ったのは、生まれたばかりの長女を抱きかかえた時です。「こんなにも弱い人間が存在するんだ」と思うと同時に、生き物には強さや弱さの順番が明確に存在することを認識しました。そして、人間だからこそできることは、強い者が弱い者を「食べる」ことではなく、「守る」ことなんですよね。当たり前といえば当たり前です。

 

「子育てスイッチ」が入ってしまったことで、仕事は半ば強引にセーブし、ベビーの沐浴やオムツ交換、夜中の抱っこ、少し大きくなったら離乳食を作ったり、お散歩に出掛けたり、ツマとなるべく対等に、自分でも責任を負えるように、積極的に子育てに関わることになりました(ツマには鼻で笑われるかもしれませんが・・・('ω'))。

 

子どもという弱い存在に深く関われば関わるほど、「弱肉強食」という動物的で刹那的な考え方を虚しく感じるようになりましたし、「子どもって、そのことを教えるために生まれ出てくるんじゃないだろうか?」と、子どもの存在意義も強く意識するようになりました。弱い存在に接すれば接するほど、弱い者に優しくなれる可能性は高いと思います。

 

ただし、これには前提があって、自分の父親が割りと積極的に子育て(ボク)に関わってくれた影響が大きいと感じています。父が孫に接する姿を見て、「自分にもこうやって接してくれていたんだろう」と確信もしました。その前提がなければ、自分の「子育てスイッチ」が入っていたかどうかも分かりません。オヤジ、ありがとう。

 

弱肉強食にサヨナラするには、少なくとも2世代以上の経験の積み重ねが必要なのかもしれません。ボクはたまたま運が良かっただけですが、せめてその運を、何とか次の世代に受け渡したいと思っています。

 

生産性向上

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子どもと接する時間を増やすため、とにかく仕事の効率を上げることに腐心しました。サラリーマンとフリーランサーの両方を経験してきましたが、特にフリーランサーの時には、その気になれば自分次第でいくらでも生産性を高めることができるため、「生産性中毒かも?」と思えるぐらいに効率化を目指しました。

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働き方改革や労働人口の減少、国際競争力の低下などが影響して、「生産性向上」の大合唱が起きていますが、やがて生産性が向上して余った時間は、自分自身の勉強や遊びに費やすだけでなく、子育てにも振り向けられるようになると良いですね。

 

子育てに「参加」する程度の意識では、生産性向上のモチベーションにはなりませんが、子育ての「責任を持つ」ぐらいになれば、生産性向上の大きなモチベーションになり得ると思います。父親が育児の「責任を持つ」ことが当たり前になれば、次の世代には、育児のために生産性を向上させることが当たり前になるかもしれませんね。

 

少子化問題の緩和

国が発展するのと同時に少子化も進んでいくことは、世界共通の常識でもありますが、家父長制が色濃く残るアジア諸国で少子化問題が特に顕著であることから、家父長制が生殖・出生に何らかの影響を及ぼしていると考えるのは普通のことでしょう。

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少子化と男性の育児放棄(≒「参加」するだけ)についても、家父長制を同根として何らかの相関があるのなら、父親が責任を持って育児に積極的に関わることで、少子化にも歯止めがかかる可能性があると思います。

 

夫が育児に関われば、当然ながら妻の身体的負担は軽減されますが、「参加」しているだけでは、逆に妻側のイライラが募っていく、という話はよく聞きます。父親が責任も負うようにすれば、母親の精神的負担も軽減され、安心感とともに夫婦仲は良好に保たれます。悪循環になるか好循環になるかの見事な分かれ目です。父親が育児に積極的な姿を見て育った息子は、自分も育児に積極的になる可能性が高いでしょう。父親が育児に積極的な姿を見て育った娘は、その安心感の中で自分も子育てができると期待する可能性が高いでしょう。

 

少子化の要因として、以下のような議論がよく持ち出されますね。

  • 都市部への人口集中(都市部は、晩婚化・出生率の低下が顕著)
  • 生き方の多様化(男女ともに高学歴化して、選択肢が増えた)
  • 経済的問題(非正規雇用の増大、教育費の高騰)
  • 保育所などの託児施設の不足

 

ボクやツマも、ほぼすべてに当てはまるため、子どもは1人か2人で十分と当初は考えていたのですが、子育ての楽しさに目覚めてしまったボクがお願いして、3人を授かることになりました。お願いした以上、自分が責任を持って子育てに携わるようにしています。「責任を持って子育てしたい」という強い気持ちが少子化要因に勝った面は、自分でも感じています。

 

 

 

さいごに

多くの男性が自分事として育児を捉えるようになれば、この国や世界は、思っている以上に大きく変わるんじゃないかと期待しています。政策として少子化対策を進める場合は、長所・短所のトレードオフや価値観の違いが邪魔をしてなかなか進みませんが、男性が育児に積極的になること自体に特に弊害はないと思いますし、少なくとも、混雑する電車にベビーカーを乗せる/乗せないぐらいで議論になることはなくなるんじゃないでしょうかね。

 

「次世代に結果が出る」ということを担保するため、現役の父親世代として、子育てに「責任」を持ちつつ楽しむ姿勢を貫いていきたいところです。

 

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