
両親は、「子どもの前では喧嘩しない」という誓いを立てて子育てしてくれた。と、大人になってから聞かされた。それ以降は、まぁ普通にもめることもままあった。
それから一世代の時を下った今、自分が子育てしている。「子どもの前では喧嘩しない」という誓いまでは立てていないが、なるべく喧嘩しないように、ツマと話し合ってきた。
結婚が当たり前の時代に見えた景色
両親の時代は、結婚することが当たり前の時代であり、それが未来永劫続くだろうと思っていたため、ボクら子どもたちに対して、結婚や家庭というものにポジティブなイメージを抱かせたかったのだろう。
それを何となく受け継いだボクは、やはり子どもたちに対して、ポジティブなイメージを抱かせようとする自分がいることに気付いた。両親からの影響以外にも、フリーランサーとして働くことの影響や、HSP(Highly Sensitive Person)であることの影響もあると思う。
「夫婦喧嘩をしない」ためには、我ながらかなりのガマンが必要であり、それは夫婦や家族を「演じる」ようなものだし、今の時代には馴染まないガマンかな、とも思う。
でも、ガマンにガマンを重ねた結果、子どもが3人とも就学した今、見えている風景は、長子が生まれる前の夫婦としての風景とは、全然違うような気がする。そこまでたどり着けたのは、たまたま運が良かっただけでしかないんだけど、就学まで耐え抜けば、何か違う景色が見えてくるだろうという確信めいた予感みたいなものはあったので、その景色を見たいがために耐え抜いた結果、やっぱり見えた。どんな景色かは、ボクの文才では書き表せないので、省略 ('ω')。
「運」から「予定調和」の時代へ
結婚・挙児を経てここまで来たのは、どう考えてもやっぱり「運」でしかないのだが、予定調和に陥り過ぎることなく、「運」に乗っかってみようという気持ちはあった。結婚したのが10年以上も前なので、そういう時代の空気がまだ残っていたのかもしれない。
ただ、今の恋愛や結婚・婚活の動向を自分なりに眺めていて、果たしてこの時代に、「運に乗っかってみよう」という気持ちだけで結婚・挙児にたどり着けるかどうかを考えてみると、かなり自信がない。いや、たぶん無理だ。
いろんなことが、予定調和に支配され過ぎてしまっているように思える。まず結果を考え、そこから逆算して望ましい「結果」にたどり着けるなら一歩を踏み出そう、という風潮は、安全・安心を徹底的に希求する現代のリスクゼロ社会の中で、完全に定着してしまっている。「予定調和」が出しゃばりすぎて、「運」の活躍できる場面がほとんどない。「その先にどんな景色が見えるか?」という賭けよりも、見えている景色にしか興味を持てない。誰が悪いわけでもなく、そういう時代になった、というだけのこと。
結婚もそうだし、同じく数十年のスパンでしか結果が見えない「貧富の差」についても同じようなことが言える。
貧富の差なんて、「自己責任」と言えるほど努力の有無が影響するものではなく、たまたま良い遺伝子に恵まれ、たまたま良い環境に恵まれ、たまたま努力できる才能を有し、たまたま努力が結果に結び付き、たまたま結果がお金に結び付いた人がめでたく「お金持ち」になっているだけのことなのに、なぜかそこに「予定調和」が入り込んできて、その偶発的な結果を自己努力の賜物のように勘違いしてしまう「お金持ち」の多いこと。そういう方々は鼻息が荒いので、ネット上でもよく目立つ!
結婚や家庭に抱く無駄な「幻想」
・・・ちょっと鼻息が荒くなってしまったので、話を戻して・・・
いずれにしろ、幸運であれ悪運であれ、「運」は用なしの時代になったというわけだ。
こうなると、子どもたちに対して、結婚や家庭というものにポジティブなイメージを抱かせようと奮闘する自分のやり方は、完全に時代と合っていないことになる。誓いを立てるレベルではなく、自分が気持ち良く安寧を得られるのでそうしている面もあるのだが、一世代前とは状況が全く異なるため、前時代と同じやり方ではまずい気がする。
具体的に何かと言うと、子どもたちに対して、結婚や家庭というものに無駄な幻想を抱かせるのは良くないんじゃないか、ということ。
結婚は愛情によって成就するものでもないし、家庭は情愛によって運営されるものでもなく、予定調和の囲いの中に入れた男女だけが結婚する資格を持ち、厳格な契約を結んで結婚して家庭を運営し、相手に貢献できるものがなくなったら(≒ どちらか一方の生産性が低下したりゼロになったりしたら)契約を解消する、そういう世の中になりつつあるよね?
予定調和の囲いは高い壁なので、誰もが簡単に越えられるものではない。そう思って、ムスメにしろムスコにしろ、囲いの中に入れなくても1人で強く生きていけるように、勉強だけは疎かにしないように諭している(勉強しておけば、囲いの中に入る資格を手にできるんじゃないかというセコイ考えがジワジワしてこなくも、ない)。
劣悪な夫婦・家庭環境を「演じる」
子どもたちには、予定調和の中ではなく、よい意味で「運命」や「宿命」に翻弄されながら生きて欲しいと願っているので、予定調和の囲いの中にしか結婚や家族というものが存在し得なくなってしまうのなら、無理して予定調和に合わせる必要などないとも思う。
とは言え、テレビや映画などからは、いまだに結婚や家族に対する甘い幻想が流れてくるので、そういったものとのバランスを取る意味でも、両親の誓いとは真逆に、ブラックな夫婦関係や家庭環境をあえて演じて見せることもまた、親の務めなのかな、などと考えてしまう。
自分1人で完結することなら、「運命」や「宿命」に翻弄されながら生きていけるけれど、残念ながら結婚という制度は、1人の意思でどうこうできるものでもない。かと言って、予定調和のレースに参加するのもどうなんだろう?と思ってしまうから、それならば、結婚や家族というものに対して、最初からヘンな幻想を植え付けない方が良いのかもしれない。だから、あえてブラック化してみるか、って話。
でもでも
やっぱりできないんだよね。例の景色を見てしまったからかな? あとは、一周回って、子どもたちが大人になるころには再び、「予定調和」よりも「運」が愛される時代になっていることを願うしかない。と思う今日この頃だ。