敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「こだわり」の服を脱いで「信念」の鎧を着たいのだ|仕事&家事・育児

 

 

子育ての区切りとして思うままに記事を書いたら、思わぬ反響をいただいて恐縮です。

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結婚生活や子育てというのは、結婚までに重ね着してきた「こだわり」という服をひたすら脱いでいく作業だと思っています。

などと、記事の中でエラそうなことをのたまう我が身をただ恥ずかしく思う今日この頃ですが、一方で、記事の中でも少し触れているように、「こだわり」をすべて取っ払って終わりで良いかと言えば、決してそんなことはありません。

 

その辺の自分の考えを軽くまとめておきたいと思います。

 

「こだわり」には理由がある

まずは、小1のムスコNの最近の動向から。

 

石ころ + 新幹線

男の子って「石ころ好き」というイメージがあるのですが、ムスコも漏れなくその1人です。

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友だちと遊んでいた公園から、写真の石を持ち帰り、自宅で「飼って」います。理由を聞いてみたら、「新幹線に似てたから!」・・・たっ、確かに。

 

最初は気に入って毎日眺めていましたが、このごろは景色の一部と化してきていますので、そろそろお別れの時期かなぁと思っています。

 

「なぞなぞ」本の制作

姉の誕生日を祝うべく、姉が好きな「なぞなぞ」の本を自主制作(ちなみに、コピー用紙を裁断して 150 枚を用意する作業を仰せつかったのは、このボク)。

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「見るな!」と言われると、見たくなるのが人の性。

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ばかはつ(爆発)好きなムスコは、ノーベルから何かを学んだようです(字も爆発していて汚いので、もう少し練習しましょう!)。

そして、10 問目あたりで挫折した結果・・・

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・・・ 芸術が「ばかはつ」して、なぞなぞはどこかへ吹き飛んでしまいました。理由を聞いてみましたが、「・・・・・」。

 

バッタは永遠に跳ね続ける!

閲覧注意!昆虫(しかも死骸!)が苦手な方は、一気にスクロールしてください! かなり危険です(写真は小さめに載せます)。

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バッタの死骸を見つけたムスコは、何の迷いもなく、自転車のハンドル部分にテープで固定していました。そのあとには当然、ツマMの悲鳴が (≧∇≦)。

 

理由を聞いてみたところ、「これでバッタは生き返る!」・・・自転車に貼り付けられたバッタ君は、確かに永遠に、動き続けることができますね。

 

大人には分からない子どもの「こだわり」

 

こちらの有名な絵本に描かれているような日常を地で行くムスコですが、大人には分からない(忘れてしまった)それぞれの「こだわり」の中にも、必ず子どもなりの理由があるのです。これは、男女問わず、すべての子どもに言えることだと思います。

 

絵本の中では、それぞれの行動に理由がくっついていますが、極端に言えば、大人が理解できるような理由がなくても、それはそれで良いもんだと思いますし、ボクなんかは、そちらの方が奥深くて面白く感じます。

 

でも、成長とともに効率や理屈が求められる結果、社会的に通用しない「こだわり」は少しずつ剥ぎ取られ、角が取れて丸みを帯びた人間になっていきます。それはある意味、人間(動物)としての「自由」を奪われていくことなんでしょうが、社会に「適合」するには誰もが通らざるを得ない道筋なのかもしれませんね。

 

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やがて「こだわり」を脱ぐ

とは言え、自分の好きに拘泥してこだわって生きるのがやっぱり気持ちいいため、大人になろうとも何歳になろうとも、人間は自分のこだわりを捨てきれませんし、それが普通ですよね。

 

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ただ、パートナーと暮らし始めたり、子どもを持つようになったりすると、この「こだわり」ってやつが、結構しつこく生活の邪魔をしてきます。

 

どうしてなのか考えてみると、「こだわり」ってものは、全くもって自分勝手な都合でしかないからなんですよね。ムスコのように、石ころや昆虫の死骸を集めてくる「こだわり」なんてものは、母親ですらもはや理解できない自分勝手な都合なわけです(ボクは、そういう人間の理解不能な部分が好きなんですけどね)。

 

そうやって自分自身の中の「こだわり」に没頭していては、いくら大好きな家族であっても、次第に個人間の壁が高くなっていきます。この壁が結構な厄介モノで、わずか十数年しか結婚生活を送っていませんが、あらゆる家族不和の元凶になるものだと確信しています。その厄介度は、ベルリンの壁に優るとも劣りません。

 

でも、決してなくならないと言われていた「ベルリンの壁」があっさりと崩壊してから早数十年。壊せない壁はないのです!(汗)

 

というわけで、結婚を機に、少しずつ「こだわり」という服を脱ぐことに決めたのです。

 

どうして「こだわり」を脱げたのか?

「こだわり」という服はとっても気持ちが良いので、脱ぎたくありません。ヒッキー北風さんのように潔く脱ぐことなんて、なかなかできません。



でも、(ツマには「まだまだ」と言われるかもしれませんが)結果的に脱いでこられたのは、幼少期や少年時代に好きなだけ「こだわり」の世界に没頭できたからだと思うのです。

 

比較的こだわりの少ないボクですが、ムスコと同じく昆虫好きだった幼少期には、近所でトンボを百匹ほど捕まえて家の中で放し飼いにしてみたり、ホタルを大量に捕まえて寝室に放し、その光の中で就寝してみたり、ということを好き放題やって両親を困らせていました。

 

でも、両親は一切「ダメ」と言いませんでしたね。

 

「こだわりを脱ぐ方法」みたいなものを期待された読者の方には申し訳ないのですが、そんな便利な方法はなかなか思い付かなくて、「こだわり」を着るべき時期にどれだけ自由に「こだわり」を着られたか、にかかっているんじゃないかと個人的には思っています。

 

満足いくまで能動的に「こだわり」を着ることを親に見守ってもらったから、次は自分が親になって、子どもが満足いくまで「こだわり」を着られるように見守ってやりたい、と自然に思うようになりました。

 

だから、ツマの悲鳴を聞きながらも、子どもの「こだわり」を守りたいと思うわけです。この場合にも、ツマとの間の壁をなるべく取っ払っておけば、ツマの理解が得やすくなるため、こだわりを脱いでおいて正解だったと思えます。

 

こだわる対象がテレビやネット、ゲームの場合はどうなの? という議論もありそうですが、これは分かりません。ただ、これら自体を否定するわけではありませんが、こういったプッシュ的なものに対して「受動的」にこだわるのは、真の「こだわり」とは言えないような気がします。

 

やわらかく生きるのは簡単

冒頭の過去記事『【父育児】子育てのゴールが見えてきた立場から思う家事とイクメンと私』に対して、「やわらかくていいね」というようなコメントもいただきました。

 

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こだわりの少なさが「やわらかさ」を想起させるのかなと思いますし、「やわらかいね」と言われて、ただただ嬉しい限りです。

 

でも、これはボク自身の性格から思うことなんですが、こだわり少な目に柔らかく生きるのって、どちらかと言えば簡単なことなんですよね。

 

一方で、仕事の場面などでは、「こだわりのようなもの」が絶対に必要です。

 

人間に「こだわりのようなもの」がなければ、いまだにガラケーが主流かもしれませんし、ポケベルかもしれませんし、固定電話かもしれませんし、糸電話かもしれませんし、狼煙かもしれませんし、そもそもテレコミュニケーションは不可能だったかもしれません。

 

ここまで極端な話ではなくても、仕事で何かを成し遂げたり、大成とまでは言わずとも幾許かの成功を収めたり、つまり何者かになろうと思うなら、何かに没頭できることが最低限の条件でしょう。

 

だから、「こだわり」の服を脱ぐ代わりに、「こだわりのようなもの = 信念」という鎧を着たくなるのです。

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「こだわり」は自分のため、「信念」は人のため

しん‐ねん【信念】

  1. 正しいと信じる自分の考え。「信念を貫き通す」「固い信念」
  2. 宗教を信じる気持ち。信仰心。
―「デジタル大辞泉」より

 

「こだわり」が自分の「好き」に拘泥することであるのに対して、「信念」は、「正しいと信じる考え」です。この考えが社会一般の通念と整合する時、それは「正しい信念」と言えるでしょうし、整合しなければ「正しくない信念」と言えるでしょう。

 

ボクなりに解釈を拡げるなら、こんな感じです。

「こだわり」は自分のため、「信念」は人のため

 

仕事であれば、「会社を良くしたい」「お客さんに喜んでもらいたい」「同僚の力になってやりたい」と思うこと。家庭生活であれば、「家族に喜んでもらいたい」「パートナーに安心・安寧を与えたい」「安住の地を提供したい」と思うこと。

 

そういう「信念」があればこそ勇気やエネルギーが湧いてきますし、逆に「信念」がなく、自分のことばかりにこだわっていては、勇気もエネルギーもなかなか出てきません。

 

結局のところ、

結婚生活や子育てというのは、結婚までに重ね着してきた「こだわり」という服をひたすら脱いでいく作業だと思っています。

の先には、「信念」という鎧を少しずつ着ていく作業が待っているんだと思います。

 

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仕事も同じですが、人を貶めたり人を蔑んだり人を騙したりするのではなく、ただ「人のために」という信念を持ち、その「人のため」が本当に人のためになっているのかどうか、たまに自分自身を遠くから見つめ直す作業が必要なんでしょうね。そうしないことには、そもそも前向きな勇気やエネルギーなんて湧いてこないでしょう。

 

「信念」を確認する本

と、エラそうなことを書きながらも、凡人が「信念」という鎧を着ていくのは果てしなく困難な作業ですから、松下幸之助 翁の『道をひらく』を枕元に置いて、正しい信念とは何なのかを勉強する日々です。

 

見開き2ページに1項目ずつ、全部で 118 項目の珠玉の言霊が並んでおり、1日に1項目ずつ読んでいくのに丁度よい文字数となっています。スイスイと頭に入ってきますし、何度読んでも新鮮に感じます。

 

第1項「道」を引用しておきます。

自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。

 

 

 

さいごに

ムスコは今日も、ランドセルを放り投げ、バッタが貼り付けられた自転車にまたがって、バッタが跳ねるように颯爽と家を飛び出していきました。次はどんな「こだわり」を持ち帰るのか、いつも楽しみに待っています。

 

そして、その「こだわり」をいつか「信念」へと昇華できるように、ボクなりの関わり方で背中を押してあげたいと思う今日この頃です。おっ、5千文字超えた! 終わり!

 

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