敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

男女差別・不平等・格差の問題をレベル別にまとめて見えた結論

 

 

「男女格差ランキング」で依然として 100位以下を迷走するこの日本だが、世界の潮流に乗って、男女の格差・不平等・差別を議論する機会が増えてきているように感じる。ネットや新聞などのメディアでも、男女の問題が取り上げられることが多くなってきた。

 

ただ、いろんな情報に日々接する中、男女間のあらゆる問題がごちゃ混ぜに議論されているような違和感を覚える。極端に言えば、痴漢などの犯罪と、小学校の運動会で男女が一緒に徒競走することとが同レベル・同列に扱われているような違和感である。

 

そこで、男女の格差・不平等・差別に関する問題をレベル別にまとめて整理してみることにした。果たして、何らかの有用な結論が導き出せるだろうか。

 

 

 

男女差別・不平等・格差のレベル

男女間の問題には、犯罪や犯罪に近い問題から、「男性が女性に食事をおごる」、「男は積極的、女は受け身」といった考え方まで、実にさまざまなレベルがある。これらを簡単な階層に分けられないものかと考え、独断と偏見で「意識」「商売」「犯罪」という3つのレベルに分類してみた。

 

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階層が下がるに従って、 それに関わる(男性の)人数は少なくなり、同時に、同性(男性)からの嫌悪感も増大すると考えられる、というイメージだ。

 

それぞれ、上の階層から順番に見ていく。

 

■「意識」レベルの問題

動物として元々備わっていたり、意識にすり込まれていたりする「男女の在り方」のようなものである。具体的には、「男は積極的、女は受け身」という潜在的な役割意識や、「男が泣くな!」「男性は力強く、女性は上品に!」という前時代的な基準のようなものであって、下位の「商売」「犯罪」レベルに多少なりとも影響すると考えられる。

 

■「商売」レベルの問題

「商売」と称しているが、広義には「お金」が絡む問題のことだ。具体的には、若い女性が登場するCM・広告や、上に書いた「男性が女性に食事をおごる(何らかの見返りを期待する)」のように、何らかの「利益」がもたらされたり、男性が女性に何らかの「利益」を期待したりすることで生じる問題である。

 

ただし、それを良しとして自ら望んで参入する女性がいることも事実だから、一概に「問題」とは言えないレベルでもあるが、下位の「犯罪」レベルに何らかの影響はあるかもしれない。

 

■「犯罪」レベルの問題

痴漢などの犯罪や、犯罪の域に入る深刻なセクハラなど、明らかに「問題」となるレベルである。セクハラ被害を告発する「#MeToo」運動も、このレベルに属すると考えられる。犯罪の理由はさまざまであろうが、社会におけるストレスや「男性」性の地位の低下による影響、幼少期の影響などが言われている。

 

ところで、最近よく話題になる「女性専用車両」は、このような犯罪レベルの問題に対処するための1つの方策に過ぎないから、これを「男女平等」という大きな枠組みで議論し始めると、話が発散してしまうのではないかと心配になる。

 

 

 

男女平等に向けて

筆者の独断と偏見によれば、男女の不平等・格差の問題には、上のような「意識」「商売」「犯罪」という3つのレベルの問題がごちゃ混ぜになって存在している。

 

意識レベルの「男尊女卑」は、依然として多くの男性の頭にこびり付いていると思うが、それが犯罪レベルへと向かうのはごく稀なケースなので、たとえば犯罪レベルに属する「女性専用車両の是非」の問題を「男女平等」の意識レベルで論じるには、少々無理があるのではないだろうか。まずは、3つの各レベルごとに対処法を検討するのが最善と考えられる。

 

ただし、3つの階層は独立したものではなく、より上の階層がより下の階層に幾ばくかの影響を及ぼしているとも考えられるので、たとえば、商売レベルに属する「若い女性が登場するCM・広告」の内容を過激なものにしない、などの階層間の「壁」も重要となってくる。

 

そして、「完全な男女平等」を実現するには、男女問題の根本とも言える「意識レベル」において、男女差を完全に無くす必要があると考えられる。そのような考えにより「意識レベル」を捉え直してみて、このレベルには、2つの側面があるのではないかと思うに至った。

 

「意識レベル」の2つの側面

■ 「弱肉強食」の側面

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人間とて動物だから、「弱肉強食」であることは否定しようもない側面だ。動物社会というのは、放っておけば強者から弱者へと否応なく刃の連鎖が向かってしまう空間だろう。体罰や虐待というのは、社会の中の連鎖が末端にまで及んでしまった結果とも考えられる。そして、このような「弱肉強食」の意識が、多かれ少なかれ男女間の問題にもつながっているのではないだろうか(推測に過ぎないが、女性を下に見る男性は、男性同士の関係も「強弱」を基準にしている傾向があるように思う)。

 

ただし、人類は長い年月をかけて、この「弱肉強食」という動物的な在り方に陥り過ぎないように、制度や考え方を整えてきた歴史がある。それが動物との違いであり、人間にしかできないことでもある。

 

これからも、強者から弱者へと否応なく向かう刃は、そう易々とはいかないかもしれないが、少しずつでも削ぎ落されていくべきものだろう。

 

■ それでもやっぱり「男女」という側面

人間とて動物だから、男女が魅かれ合って初めて子孫が繁栄する(ただし、特に最近、結婚や出産には多様な可能性がある)。「魅かれ合う」というのは、自分との違いを異性に意識することではないだろうか。男女間に限らない。第3の性、第4の性、・・・とにかく異なる「性」には異なる魅力があり、それを意識せず生きていくのは難しい。つまり、動物たる人間は、自分と異性との「違い」を意識するのが常であり、意識するからこそ不平等や格差も生まれ、だからこそ「平等」を追い求める。

 

「男女は違う」ということをしっかりと明確に意識することこそ、「平等」に向けた出発点になるのではないだろうか。それを放っておいて、形ばかり「男女平等」を求めても、「形」に満足しちゃって中身が伴わない、というお決まりの結果になってしまう。

 

 

 

結論

男女の不平等・格差の問題は、まずは「意識」「商売」「犯罪」という3つのレベルごとに解決策を検討するとともに、レベル間の影響を抑える方策を考えるようにしないと、議論が発散しかねない。

 

そして、結局のところ、「男女差を無くす」というのは、「男女(異性)差をしっかりと意識した上で弱肉強食を(適度に)排除する」プロセスにかかっているのではないか、というのが結論である(「適度」というのは、弱肉強食が社会を成り立たせている面も否定できないからである)。

 

男女差別の問題は、ただ闇雲に男女間の溝を埋めて男女を近づければ良い、というものでもないだろう。「男女は違う」ということが意識の根底になければ、どんな議論も明後日の方向に向かってしまうような気がする。

 

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