敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「ドアを開けておくのか、閉めるのか」問題と、「いつ閉めるのか」問題

 

人生 選択肢 迷い ドア 扉

 

 

「部屋に入ったらドアを閉めましょう」というお行儀の話ではありません。「人生の選択肢」という名の「ドア」の話です。

 

昭和の高度成長期に、特にサラリーマンとして活躍した年配の方と話をしていると面白いですね。「入社した会社(メーカ)で、日本一・世界一のモノを作る!という考えしかなかった」というようなことを、これまでに何人もの人から聞きました。

 

人生は選択の連続

生きていると、目の前にはいつも「選択肢」という名のドアがたくさん並んでいます。進学、就職、結婚などの大きなドアから、昼に牛丼を食べるかラーメンを食べるかという小さなドアまで、無数のドアが存在します。

 

どのドアを選ぶかは、ほとんど個人の自由です。選ぶ喜びの反面、選択の責任がすべて自分に返ってくる苦しさもあります。その苦しみについては、何も今に始まったことではなく、夏目漱石もミヒャエル・エンデも当然のごとく取り上げています(牛丼やラーメンには触れていませんが・・・・)。

 

そして、1つのドアを選んで通り抜けると、目の前には、また新たなドアがズラーっと並んでいます。人生はこれの繰り返しですね。

 

ドアを開けておくのか、閉めるのか

物心ついてからから死ぬまでドアを選択し続けることこそ人生であり、それは紛れもない事実なわけですが、「通ったドアを開けておくのか、閉めるのか」という問題は残ります。これを意識するかどうかで、人生が大きく変わってくるような気がします。

 

「次のドアも開く」場合

冒頭の年配者の例では、進学も就職も結婚も、おそらくドア(選択肢)の数は多くなかったと思います。経済的な事情で中卒や高卒となった年配者の場合は、そもそも「大学進学」というドアがありませんし、就職先も限られます。また、結婚についても、ある程度の年齢になったら年貢を納めるのが世の常識であり、「しない」というドアはほぼありませんでした。

 

ただし、あるドアを通り抜けて次に並ぶドアも「必ず開く」という確信だけは持てる時代だったと思います。高度成長という「前進」しかありえない時代だったからです。

 

このような時代には、「通ったドアをすぐに閉める」のが割りと普通でしょう。「すぐに閉める」ということは、その時点までの人生を即座に「確定」として、次に進んでいくことになります。就職で考えると、その会社に入ったことを「確定」とするわけです。

 

「確定」にすると、もう後戻りはできません。なので、その制約の中で次にできる「面白いこと(=生きがい)」を一生懸命考えます。その結果が「日本一・世界一のモノを作る」という目標です。ある程度の制約が前進する力となり得ることを示す良い例です。

 

「次のドアも開くかどうか分からない」場合

今の時代は、進学も就職もドアがたくさんあります。結婚にしても、「する/しない/途中でやめる」というように、昔よりもドアが確実に増えています。

 

ただし、ドアは増えたんですが、次のドアが開くかどうかが不透明になりました。進学しても良い仕事に就ける保証はありませんし、就職してもその会社が将来どうなるかは分かりませんし、結婚してもギンコン・キンコンまでたどり着ける確率はかなり低い模様。

 

となると、いったん通過したドアを閉める勇気がなかなか持てません。なので、通ったドアを半開きの状態にしておきます。次に並んでいるドアが1つも「開かない」ことが分かった場合に、後戻りできるようにです。

 

就職で考えると、ドアを即座に閉めてしまっては、ブラックであっても後戻りできなくなります(前世代の「会社をやめるのは悪」という精神論がブラック化を助長している側面は大いにあると思います)。

 

結婚で考えると、ドアを即座に閉めてしまっては、DVやモラハラな環境であっても後戻りできなくなります。次のドアが開かないと分かっても、戻るドアすらないのです。

 

というわけで、ドアを半開きのまま人生を歩んでいくのが当たり前となりつつあります。

 

増えすぎた「自由」

夏目漱石やミヒャエル・エンデも、人生のドアの多さにさぞ悩んでいたことでしょうが、今はドアの数自体が当時よりも格段に増えている上、いつでも後戻りできるようにドアを半開きのまま人生を歩む傾向にあるため、その後戻り用のドアも合わせると、選択肢が膨大なものになってしまっており、なかなかのハードモードです。

 

転職も、転職先から元の会社に舞い戻ることも、元カレや元カノと再びつながることも、すべて自由自在ですからね。ネットや SNS のおかげとも言えます。

 

こういう自由の多さは、本来よろこぶべきことなのかもしれませんが、「自由が多い = 制約が少ない」ですから、上にも書いた通り、前進する力が削がれてしまいます。もちろん、自由がたくさんあっても、その中で自分が進むべき道をはっきりと見極められる人もおり、そのような人は前進する力も半端ないですが、そうでもなければ、自分でも知らない間に「前進力」が削がれてしまうと思うんですよね。そして今や、「前進する人」と「停滞・後退する人」という二極化が進んでいるように見えます。

 

みなさんは、どんなもんでしょうか?

 

 

 

ドアを閉めてみる

目の前のドア(選択肢)が多いのは仕方のないこととして、せめて通り抜けたドアについては、ブラックやDVやモラハラなどが無い(だろう)と確信できた時点で、思い切って閉めてしまうのも1つの手かな、と思います。

 

閉めてしまえば、もう後戻りはできません。後戻りはできないので、目の前に並んだドアに集中できます。それらのドアの中に、自分にとっての「正解」があるかどうかは分かりませんが、少なくとも「熱く」なれる確率は高まります。

 

もちろん、勇気があるなら、次のドアが開くかどうかも分からないうちに、1つ前のドアを閉めてしまう手もあります。そうすれば、さらに「熱く」なりますね。

 

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