敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

[旅立つムスメよ]子育ての唯一の答え「らしきもの」を感じた出発の時

 

 

中学生のムスメAが、米国ユタ州でのホームステイに向けて、昨日旅立った。

 

1年近く、所属先の支援を受けつつ、同じようにこの夏を海外で過ごす仲間とともに切磋琢磨しながら心の準備を整え、ようやく迎えた出発の日。

 

夏休みまるっと日本を離れることになるため、部活の顧問や仲間たちに、夏季大会にほとんど貢献できないことを説明しなければならない。また、荷造りの都合もあって、学校の各教科の先生に、夏休みの宿題を1日でも2日でも早くもらえるように交渉しなければならない。親に背中を押してもらいながらも、色んな困難を乗り越え、ようやく迎えた出発の日。

 

学校の先生、部活の関係者、友人、所属先の人たち、習い事の先生たち、近所のおっちゃん・おばちゃん、祖父母、いとこなど、たくさんの人々に「楽しんでね」「頑張ってね」と声を掛けてもらって、ようやく迎えた出発の日。

 

心の中に少なからず不安もあるだろうに、長子だからか、それをおくびにも見せず、いつも前向きにニコニコしながら、勉強や部活で忙しい日々の生活の合間に着々と荷物の準備を進めて、ようやく迎えた出発の日。

 

新幹線がホームに滑り込む。

 

見送りに来てくれた人が半泣きの表情になっても、ニコニコしている。でも、十数年連れ添った身だから、何となく分かるよ。ニコニコしていないと、自分の中にある不安に押しつぶされちゃうんだよな。

 

新幹線のドアが開いた。

 

乗り込もうとして荷物を抱え直したムスメAの表情が一瞬、曇った。抑え切れなくなった不安が見えたように感じた。でも、次の瞬間には、クルッと向き直って「じゃ、行ってくるね~」と軽い口調で新幹線に乗り込んでいった。

 

本当は、「出川哲子になった気分でね」「ホストを本当の家族と思えばいいよ」「Thank you と Excuse me を忘れるな」「言いたいことは日本語でも良いから何でも言いなよ」などと声を掛けてやるつもりだったけど、緩んだ涙腺のせいで声が喉に引っ掛かり、結局何も言えなかった。

 

代わりに、大きく手を振った。窓の向こうのムスメAは、小さく手を振っている。

 

走り出した新幹線を、妹や弟が追いかける。それを見ながら、さらに大きく手を振った。妹から受け取ったサプライズの手紙を車内で読むムスメAの表情を想像しながら、手を振った。1カ月後、向かい側のホームに滑り込む新幹線を待ちわびる自分の姿を想像しながら、大きく手を振った。

 

成田で1泊して、今日の夕刻のフライトで日本を発つ。

 

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夜は一転して、地元の夏祭り。

 

妹のムスメSや弟のムスコNは、数時間前に姉を送り出したことなど忘れてしまったかのように、楽しそうに友達と出掛けていった。

 

そして、花火が終わった 21時ごろ、たくさんの景品やお菓子を抱えて、嬉々とした表情で帰宅し、大満足の表情で夢の中へと旅立っていった。

 

このように、片や旅立ち、片や夏祭り、という異色のコントラストのせいもあってか、自分はなかなか寝付けなかった。

 

旅立ったムスメAに対しては、今日が「子育て」の1つの区切りになったと思うんだけど、自分は、彼女に対して何かを与えることができただろうか? 何か父親らしいことをしてやれただろうか? という不安が襲ってくる。

 

ただ、よくよく考えてみると、今回の旅立ちに際して、「無事に現地までたどり着けるかな?」とか、「英語なんてまともに喋れないのに大丈夫かな?」とか、「ホームシックにならないかな?」とか、「心配」の感情はたくさんあるんだけど、「旅立ってしまった・・・」というような喪失感や寂寥感のようなものは、自分の中にほとんどないことに気付いた。

 

生まれてから十数年。愛情を最大限に注ぎ込んで、その時々にやれることは全部やってあげられた、という自負の思いが、後悔を凌駕しているからだろうと何となく想像してみる。と言うか、事実はどうあれ、そういうことにしておけば、それが自分にとっての子育ての唯一の「答え」になるのかな、と思える。

 

「愛情」を言語化するのは難しいけれど、世間一般によく言われるように、「自分を犠牲にしてでも与える悦び」ってことで、特に間違いないように今は身を持って感じる。

 

「子育て」なんて、特に深く考え込むほどのことでもなく、とにかく「与えて、与えて、与えて、与えて、与えて、・・・・、与える × 無限大」でいいんじゃないのかな。親子がベッタリくっつくことなく適度な距離感で、先回りして無闇に手助けすることなく、「与える」代償として何かを「期待」することなく、ね。

 

そうやって愛情を「与える」ことにしか、「親」の存在価値なんて無いんじゃないだろうか、とすら思える。そう考えないと、「親」をやる着地点が見えない。

 

今回のホームステイも、10 年以上積み立ててやっと実現できたことだし、物理的に与えられるモノなんてほとんど持ち合わせていないけど、愛なら無尽蔵で、枯渇することもないだろう。たぶん。

 

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