
企業の時価総額で日本のトップを走る(といっても、世界では 50 位前後・・・)トヨタ自動車の社長が「終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と述べたことで、本格的な「リストラ&転職社会」の到来を予想する人材支援会社や転職アフィリエイトの鼻息が荒くなる今日この頃です。
ずっと以前からその予兆はありましたが、日本のトップ企業の社長がパンドラの箱に手を掛けたことで、終身雇用(+年功序列)の終焉を見る日が一気に近づいたように感じています。とはいえ、いきなり米国のような解雇自由社会になるとも思えず、解雇を金銭で解決する「欧州型」に向けて、解雇法制などが少しずつ整備されていくのでしょう。
その後は、経営層まで昇りつめて億単位の報酬を得る人と、事業撤退とともに数年単位でリストラされる人の格差が拡がり、その流れで(積極的にしろ消極的にしろ)フリーランサーになることを選択する人も徐々に増えていくと予想されます。業界再編で中小企業は徐々に少なくなり、大企業かフリーか、という二者択一的な構図が顕著になってくるんじゃないでしょうかね。また、フリーの中でも、有名税を支払えるぐらいになる人と、それなりで落ち着く人に分かれていくんじゃないでしょうかね。
格差上位の面々は、これまで以上に資本主義ゲーム(成長&マネー)を楽しむことで「生きる意味」を見出しやすくなりますが、下位に属する大多数の人々は、ベーシックインカム(BI)を含む社会保障の助けを得て、上位から与えられるモノやサービスを消費することで辛うじて「生きる意味」をつなぎ留める社会になっているかもしれません。
そうなったら、社会保障の恩恵にあずかってお金も時間も割りと自由になった格差下位の中では、子どもを生み育てることに意味を見出し始める人が増えてきて、結果的に少子化が徐々に解消されていくかも、などと少し明るい未来も想像したりしています。
それはさておき・・・
- 「意味中毒社会」の到来
- 「意味中毒社会」の予兆
- 子供も意味中毒(=意味依存)
- 「中毒」とは、人生の旅を終えること
- 子どもに「意味」を与え過ぎない
- ネオ・アニマリズム(Neo Animalism)
- さてさて
「意味中毒社会」の到来

上に書いたような未来社会は、人口の大多数を占めると予想される格差下位の一般庶民にとって、「生きる意味」を探すのがものすごく難しい社会です。個人としての成長の機会が奪われる一方、モノやサービスをひたすら消費する役割だけを担わされており、貪欲に何かを求める意欲すら発揮することができないからです。
つまり、手にするのが難しい「生きる意味」を自ら探し求めることを諦め、モノやサービスという形で降ってくる「仮想意味」をただ闇雲に消費する「意味中毒社会」です。
「意味中毒社会」の予兆
でも、それは未来の話ではなく、過去から徐々に予兆が膨らんできているものです。夏目漱石の『それから』に出てくる高等遊民は、モノやサービスなどで人生の隙間が埋め尽くされ、そのサイクルに自分も取り込まれる将来の姿を予見し、意味中毒になることをモラトリアム的に拒絶する代表例のようなものです。
その「生きる意味」は、高度成長期を経て一旦保留となりましたが、バブル崩壊後の「失われた 30 年」を経過した現在、どこに成長の種があり、どこにお金のなる木があるのかさっぱり分からなくなって、再び「生きる意味」を考えざるを得ない状況です。幸か不幸か、ネットやスマホ、ゲームなどが発達し、百均やファストファッションが充実したことで、それらをひたすら受動的に消費していれば、ひとまず「生きる意味」を考える恐怖からは逃れられます。
子供も意味中毒(=意味依存)
大人が意味中毒に罹りつつある中、その影響は当然、子どもにも及びます。スマホやゲームで時間を埋め合わせることは、本来手にするのが難しい「生きる意味」を至って簡単に入手できたように錯覚してしまうことです。
受験も同じですね。子ども自ら選び取ったものであれば良いのですが、親や大人が将来のことを漠然と不安に感じる中で子どもに強要したものであるなら、それに没頭している間は「生きる意味」を考える必要がなくて良いかもしれませんが、その後も引き続き、能動的に「生きる意味」を求めることなどできず、降ってくる「仮想意味」を消費するしかなくなります。
そもそも、子ども時代の自由な時間を「仮想意味(=スマホやゲーム、習い事や塾などの仮想的な「やるべきこと」)」で埋めすぎると、「意味のない状態」を体感できないことになるため、常に「意味」のシャワーを浴びていないと怖くなり、結果的にモノやサービスの恰好の餌食になってしまいます。
でも今は、生殖・出産ですら、「仮想意味」がなくては進まないことが多く、子どもは生まれた時点である程度「意味中毒」が進んでしまっている、とも言えます。
生まれたら生まれたで、「意味を理解しなければ人工知能(AI)にやられてしまう」という言説が曲解され、幼少期からたくさんの「仮想意味」を詰め込まれますし、就学後にもたくさんの意味付けが待っています。この上さらに、2020年からは英語やプログラミングや道徳も加わり、先生も子供も「仮想意味」で頭がいっぱいになって時間にひたすら追われることにならないか、とっても心配です。個人的には、英語もプログラミングも、小学生から全員が履修すべき科目なんだろうかと、ずーっと疑問に思っています。
「中毒」とは、人生の旅を終えること
たとえば、ネット中毒(依存症)になるかどうかは、人によって異なります。 同じ時間だけ関わっていても、ネット中毒になる人もならない人もいます。ネット中毒になるってことは、ネットが、その人にとっての「生きる意味」を探す旅の終着点なんだろうと思えます。ゲーム中毒なら、ゲームが終着点になろうとしています。アルコール中毒なら、アルコールが終着点になろうとしています。
そこで旅を終えるのも1つの人生ですが、それが 60歳以上などの人生の終着点間近ならいざ知らず、子どもの時点で旅を終えようとしているなら、それを全力で阻止してあげるのが大人の務めではないかと思っています。
「意味中毒」というのは、幼少期から「仮想意味」のシャワーを執拗に浴びせられた結果として、「無意味」なことに意味を見出せなくなり、目先の「仮想意味」のためにしか生きられなくなってしまうこと、と勝手に定義しています。資本主義ゲームにおける成長や金儲けも「仮想意味」の一種であり、その姿を変えたものが「コスパ」や「生産性」という化け物です。コスパや生産性なんかも、十分に中毒性があると思いますね。
子どもに「意味」を与え過ぎない
そんな中で、息子さんを3人ともスタンフォード大学に合格させたアグネス・チャンさんのインタビュー記事に出会いました。
「これからの教育に王道はないんですよ。他人のものさし、固定概念に縛られていてはダメ。教育の主導権を親が持って、勝負師になる勇気を持たなくてはならないんです」
アグネスさんは、子育て中、毎日食事をとる場所を変えたり、夜に星を見に出かけたり、平日でも突然「温泉に行こう!」と言って学校を休ませて家族旅行に出かけるなどしてきた。毎日通る駅から家までの帰り道でさえ、「○色のレンガしか踏んじゃいけない」というゲームをしたり、車のナンバープレートで8と5と3がついているものを探すなど、退屈させない工夫をしてきた。
「ルールを守って、いつも通りの生活しかしたくない子を育ててしまったら、大人になって苦労しますよ。だってものすごいスピードで新しいものが出てくる時代ですから。そのたびにストレスになったら、毎日楽しくないじゃないですか。新しいものを求める子にしましょう。新しいものをつくれる子にしましょう。そのためには、親が新しいものを怖がらないで、刺激的な楽しい環境をつくることです」
アグネスさんの家庭では、計算や書き取りなどを繰り返し練習するドリルは一切していないという。その代わり、学校で足し算を習ってきたら、料理や買い物をさせ、その学びを生活に活かすようにしているという。材料を量ったり、時間を計算したり、温度を測ったりすることで、体験として身に付き、次の学びにも繋がる。
こうした考え方は入試対策でも同じだ。アグネスさんの息子たちは、米国において日本のセンター試験のようなテストを、塾に通わず、3ヶ月ほどの入試対策で乗り切っている。結果は前述の通り、3人の息子全員がスタンフォード大学に合格している。
その理由の一端こそ、学びを生活に活かすという考え方と繋がる。詰め込み型の学習ではなく、常日頃から刺激的で楽しい環境を作り、基本的な知識や学力を育てることが、進学や就職、そして人生において大切な糧になるという。
「地頭」ってものがあるので、アグネスさん家のやり方をすべて参考にできるわけではありませんが、自分の子どもが小学校に入った頃から、「親が子どもの教育にどう関わるかで将来が大きく変わりそうだ」と感じていますので、共感できる部分がとても多いです。
いろいろ書いてありますが、「子どもに仮想意味(=仮想的なやるべきこと)を与え過ぎないこと」と理解しています。自分の子どもに不要と思うなら、計算や書き取りなどの「やるべきこと」をなるべく削ぎ落してやり、取ってつけたような勉強ではなく、生活の中に勉強が溶け込んで、子どもが能動的に学んでいける環境です。以前から「引き算の子育て」を考えていたので、より共感できるのかもしれません。
アグネス流の対極にあるのが佐藤ママ流かなと思うのですが、「受験」や「東大合格」という「仮想意味」の色合いが濃すぎて、あまり心が萌えません。

3男1女 東大理?合格百発百中 絶対やるべき勉強法 (幻冬舎単行本)
- 作者: 佐藤亮子
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2017/10/11
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
今、宿題も定期テストもない「麹町中学校」が話題になっていることですし、学校は、社会性と慣習を学ぶ場、と割り切れば良いと思っています。宿題やテストの丸つけがなくなれば、先生の負担も少なくなり、その分だけ先生が子どもと向き合ったり子どものことを考えたりする時間が増えますよね。
ネオ・アニマリズム(Neo Animalism)
上にも書いたように、「仮想意味」というのは、スマホやゲーム、習い事、塾、学校の不要な宿題・テストなどの仮想的な「やるべきこと」なのですが、これらはつまり、大人が子どもを「コントロール」するための手段でもあるわけです。そういう「仮想意味」という名の「コントロール」が、子どもにも大人にもどんどん降りかかってくる今の世の中です。
大人も子どもも、人間というのはコントロールされるのが結構ラクなため、放っておけば、コントロールされる方につい流されてしまいます。子どもに「仮想意味」を与え過ぎるのは、そういうコントロールに弱い人間を作ることだと感じています。AI が大好きな「コントロール」です。
そうならないように、子どもに与える「仮想意味」を上手く取捨選択し、制限することで、子どもを「コントロール」から解放してやり、受動的な人生から解放してやるのが大切なんじゃないかと思います。
言うなれば、「ネオ・アニマリズム(Neo Animalism)」といったところです。ただの「アニマリズム」は、「刹那的な生命の充足感を求めて、人間の欲望・本能を積極的に肯定すること」なのですが、そうではなくて、「人間が作ったシステムから飛び出し、動物的感覚で人工システムを上手く利活用する立場」が1つの解になっていくんじゃないかと予想しています。
さてさて
今後、AI が猛烈に進化して、人類一人ひとりの属性や環境に応じた「生きる意味」を提示してくれるようになるなら、人間はもはや、生きる意味や理由も考えなくて済むようになるのでしょうかね。それは、ハッピーなことなんでしょうかね。