敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

[幼児教育]子供に言葉や計算を早々と教えて「冒険」の自由を奪うこと

 

 

ムスコNの幼稚園生活が終わって、我が家から「乳幼児」はいなくなりました。

 

長女の誕生から十数年いた「乳幼児」がいなくなったわけですから、楽と言えば楽なんですが、やっぱり寂しいもんです。

 

たとえば、言葉。

 

幼児が使う言葉や表現は、本当に面白くて、奥が深い。

 

幼児が日本語を習得していく段階では、「カニに刺された」や「しむ」や「明日の明日の明日の・・・・・」など、意味不明の言葉を連発します。そして、その意味が分かった時には、大爆笑となります。

 

覚えた言葉を駆使しようとするその姿が本当に健気で微笑ましいのです。

 

そして最近、ムスコNが使ってきた言葉・表現を振り返ってみたくて、1冊の本を手に取りました。言語学の素人であるボクにもすごく分かり易い1冊です。

 

 

とにかく、幼児の言葉にまつわる色んなエピソードが盛りだくさんで、「ムスコNもそうだったなぁ」と思い出すことが多々あります。

 

たとえば、上にも書いた「カニに刺された」。

 

多くの幼児が、「蚊に刺された」を「カニに刺された」と言います。

 

「ちががでた」(血が出た)も同じ仲間なんですが、幼児にとっては1文字というのがどうもしっくりこないらしく、単語の境界を動かしたり、助詞を重ねたりした結果、このように面白い表現が出てくるわけです。

 

「とうも殺し」(トウモロコシ)も定番です。発音しやすいように置き換えが起こっているのですね。

 

また、「死ぬ」の幼児独特の活用形として、「死む」「死まない」「死めば」・・・というのもあります。

 

ナ行の5段活用が現代日本語には「死ぬ」しかなく(関西弁では「いぬ(去る)」もある)、幼児が馴染んでいないことから、マ行で活用させているわけです(マ行には、「飲む」「噛む」など、自分に身近な言葉がたくさんあります)。

 

これについては、ムスコNのようにゲームをやっている子には当てはまらないような気もします。ゲーム中に「死ぬ」「死なない」という言葉を使うため、ナ行の活用形に慣れているからでしょうか。

 

文字の数が合わないパターンも「あるある」です。

 

たとえば、「でんしゃ」という文字を発音しながら指で追うと、最後の「ゃ」が必ず余ってしまいます。発音する「しゃ」を1文字と認識しており、文字の「し」を「しゃ」だと思うからなんですね。


 

 

言葉とモノの結び付けも、幼児独特です。

 

犬を見て「ワンワンだよ」と教えてあげると、次から、猫や牛もワンワンと呼んだり、車もワンワンと呼んだり。

 

つまり、4足歩行のものを「ワンワン」と認識したり、動くものを「ワンワン」と認識したり、人によって認識の範囲がさまざまなんですね。そして、学習を繰り返していくことで犬の特徴を完全に把握し、やがて犬(類)を見た時にだけ「ワンワン」というようになります。これは、人工知能(AI)にも通じる話です。

 

単語をどこで区切るかも、幼児にとっては(ある意味、大人にも)難問です。

 

 

この本は、そんな幼児の感性にぴったりとはまるので、読んであげると、ムスコNはゲラゲラ笑い転げます。

 

また、ムスコNは、「明後日」や「1週間後」という時間(未来)の概念はあるものの、その表現をよく知らないため、「明日の明日」や「明日の明日の明日の明日の・・・・」と言ってました。

 

以前、1ヶ月先の話をしようとしたときは、さすがに途中で制止しました・・・。

 

* * *

 

幼児は、遠回しの表現も苦手です。

 

ムスコNが「遊ぼー!」と言ってきたとき、「今日は忙しいなぁ」と返すと、「遊ぼー!」とまた言ってきます。その後はひたすら、「忙しい」「遊ぼー!」「忙しい」「遊ぼー!」・・・・・の応酬。

 

ふと気づいて、「今日は遊べない」と言うと、引き下がってくれました(ションボリしてましたが)。子どもには、直接的な言葉が必要なんだと実感しました。

 

やがて、言葉を客観的に捉えられるようになると、メタ言語意識というのが発達して、しりとりやダジャレなどの言葉遊びを楽しめるようになります(← 今は、この段階です。オヤジ顔負けのダジャレをマシンガンのように連発してます。こうやって、オヤジギャグの下地が作られていくわけですね・・・)。

 

負けず嫌いなムスコN。

 

しりとりで、自分が「ん」で終わる単語を言ってしまうと、泣いて悔しがります。そんな時は、チャドという国の首都を教えてあげます。

 

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ムスコNのエピソードも交えつつ本の一部を紹介してきましたが、これ以外にも、実にたくさんの「あるある」ネタが詰まっており、読んでいて飽きません。

 

エピソードだけでなく、何故そうなるのかを簡単に(時に専門用語を加えながら)解説してくれます。

 

本のタイトルにもなっている通り、子どもというのは、言語の世界で楽しくも苦しくもある、とてつもない冒険を繰り返しているんだな、ということが分かります。

 

自分も経験しているはずなんですが、大人になるとほぼ忘れてしまうことも、この冒険の特徴ですね。

 

多くの幼児に共通するエピソードが満載ですから、子どもたちが大きくなってからでも、この本を読めば、乳幼児だったころの子どもたちに出会えます。

 

そして、本の最後。

 

おやじギャク(ダジャレ)が止まらなくて困っているオヤジは、著者から温かい言葉をいただけます(汗)。

 

 

 

文字を習い始めると、この冒険も一旦ピリオドとなるのでしょう。文字を覚え始めるまでしかできない貴重な冒険です。

 

いろんな考え方があると思いますが、うちでは、就学前に親から進んで子どもたちに文字を教えることはしてきませんでした。計算もそうです(もちろん、聞かれれば普通に教えてきましたけどね)。

 

周囲の影響で、幼児教育の教室に通わせようか少し考えた時期もありましたが、結局、な~んにもしていません。

 

言葉の「音」や数の「概念」というジャングルの中を、ひたすら彷徨って欲しかったからです。文字や計算を早くから教えるのは、冒険の機会を奪ってしまうような気がします。

 

文字や計算というのは、合理性(屁理屈)や論理性(計算高さ)を駆使するための道具です。それで人類や社会が発展してきたのは事実ですが、だからと言って、そのような道具を乳幼児に早くから教え・与えることにどれほどの意味があるのでしょうか。

 

こちらの記事にも書きましたが、

www.overthesensitivity.com

 

文字や計算という「ツール」を身に付けるということは、合理性や論理性によって遊びや自由が制限された状態(大人の世界)へと進むことを意味します。これでは、子どもの自由な発想でもって「生きる意味」を探せる期間が短くなってしまいます。子どもの「自由」というのは、子どもの間にしか堪能できないものであり、大人になってから子どもの「遊び」や「自由」を取り戻そうとしても、それは困難なことです。

 

ですので、ひたすらジャングルを彷徨った後、小学校に入ってから、文字や計算をしっかりと覚えてくれればそれで十分だと思うのです。

 

その乾き切ったスポンジのような状態で小学校に上がって文字や計算を習い始めると、驚くような勢いでそれらを吸収していきます。元がカラカラに乾き切っているのですから、当たり前です。

 

小学校の先生の立場になってみても、カラカラに乾き切った状態で入学してくる子どもの方が、断然教えがいがあると思うんですよね。最初は、ひらがなの書き方や数のかぞえ方から始まります。文字や計算をたくさん吸い込んだ状態のスポンジでは、ひらがなや数字の後ろにある先生の情熱やほとばしる熱情までは吸い込めないでしょう。

 

ムスコNと同じように「カニに刺されて血がが出た」を連発していたムスメたちですが、小中学校では、国語も数学(算数)も得意教科になっています。

 

カラッカラのカラっぽの状態で入学しましたカラ。

 

 こ 

 

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