敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「魑魅魍魎が住む公立」に子供を進学させない私立出身の魑魅魍魎な父親

 

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小学校であれ中学校であれ、私立には私立の、公立には公立の良さがあるってことは分かっているつもりなんだけど、「公立には魑魅魍魎が住んでいる」とまで言われてしまうと、幼稚園から大学まで公立で過ごしてきた身としては、「うん、住んでるよ。それがどうした?」と、ついツッコミを入れたくなってしまう。

 

大学生のころ、「魑魅魍魎(ち・み・もう・りょう)」という言葉をよく口にしていたので、このワードには一家言もっているつもりなんだけど、要はアレか? 子どもも保護者も先生も、得体の知れない化け物みたいなものが揃っていると思っているのだろうか。

 

まぁ、公立の事情を肌感覚で分からない人には、あえて「住んでるよー」と答えるようにしている。公立といっても、ピンからキリまで色々あるけどね。

 

小学生のころまでは、さすがに魑魅魍魎といっても、駄菓子屋でガムを万引きしたり、教室に入る先生の頭に黒板消しが襲い掛かるように仕掛けたり、プールでウ〇チしてみたり、といった程度の「カワイイ」化け物が住んでいるだけだった。

 

それが、中学生になると、入部希望で訪れた部室のドアを開けた瞬間、タバコの煙で真っ白な空間の向こうに、やたらギラギラした目付きの先輩が陣取っていたり、グラウンドの場所取りと称して、各部の部員が武器(バットやスティック)を持って睨み合ったり、卒業シーズンには、お礼参りをする生徒とそれを迎え撃つ先生の怒声が校内に響き渡ったり、少し「カワイクナイ」化け物が住んでいた。

 

高校生にもなれば、さすがに義務教育ではないし、いちおう進学を希望する生徒の集まる高校だったけど、(あとから考えてみると)おそらくは地域の事情で、進学を希望しないどころか進学の一縷の望みもない生徒が一定数存在し、気に入らない先生の車のドアハンドルに犬のウ〇チを詰め込んだり、挙句の果てには先生の車をひっくり返したり、そういうことを一生懸命やっていた。

 

一方で、塾や通信教育を一切利用せずに、1人で東大・京大・早慶・同志社あたりを平然と総なめにしてしまう「神童」も同居していた。今まで色んな人と付き合ってきたけど、たぶんこういう人間を「天才」と言うんだろうね。大きな山のふもとに住んでいて、雨の日も雪の日も、毎日 15km ほどの道のりを自転車で通っていたな。大雪の日は、父ちゃんが軽トラで迎えに来て、自転車を載せて帰っていたのを覚えている。

 

兄弟3人、こんな環境で大きくなったけど、旧帝大を含む国立大学に全員が進学できたのは、ひとえに「ブレない親」がいたからだと思っている。高卒(中卒 → 就職 → 定時制)の両親だけど、魑魅魍魎だらけの環境だけど、「勉学は身を助く」という教育方針だけはブレていなかったと思う。それを言葉で表さず、態度で示すこともブレていなかった。

 

高校までの振れ幅大の環境に比べて、大学は、同じ入試に受かった人間の寄せ集めだから、頭のレベルも考え方も何となく似ていて、そういう意味では人生の中で最も安定してツマラナイ時間だったかもしれない。そういう空間が苦手なので、キャンパス外を拠点とする部活動に明け暮れていた。

 

一気飲み、暴力、体罰、パワハラ、などなど、今となってはご法度すぎる風習が当時の運動部には普通に残っており、そんな世界に自分の青春をわざわざ捧げようとする部員たちは、どこからどう見ても「魑魅魍魎」にしか見えず、そんな魑魅魍魎どもの近くに居られることがささやかな楽しみの1つであり、誇りでもあった。

 

その後、就職して何とか結婚して何とか子育てして、気付いてみたら、子どもたちが公立の小中学校に通っている。人生の振り出しに戻った気分だけど、そんな小中学校には、やっぱり魑魅魍魎が存在する。

 

入学初日の1年生に対して、ツノとキバをむき出しにして怒鳴りつける先生、クラスメートがいなくなったタイミングで全員の筆箱をあさる同級生、大した意味もなく怒鳴り込んでくる保護者、それを忖度する校長、「死ね、消えろ」を隠語で連発する児童、自分の責任をすべて生徒に押し付ける先生、パワハラが社会問題になっているのにパワハラしていることを気付かない部活顧問、などなど。

 

そういったことに子どもが関係して落ち込んでいれば、話を聴き、励まし、背中を押してやり、関係者として学校に呼ばれることもある。そして、「今日はどんな保護者に会えるのだろう」と、少しばかり楽しみにしている自分自身に気付く。魑魅魍魎の一員として生きてきたからか、たまに魑魅魍魎に会いたくなるのだ。

 

一方で、偏差値 70 以上の中学校を総なめにしつつ、経済的な事情で地元の公立中学に進学する子もいたりする。数十年前にどこかで見たのと同じような光景だ。公立には、いろんな種類の魑魅魍魎が存在し、その捉え処のない振れ幅の大きさが、何とも面白い。そして、魑魅魍魎の烙印を押されてしまった個性ある一人ひとりの人間を、愛おしくも思うのだ。

 

学校も習い事も同じ友だちが、4年生から進学塾に通うことになった、と子どもに聞いた。その父親は、「公立には魑魅魍魎が住んでいる」と正しいことを言っている、私立出身者だ。塾に通うのは、専ら父親の方針らしい。その方針に従うなら、父親と同じように、中学校から大学まで、エスカレータで上がっていくことになるのだろう。

 

「公立には魑魅魍魎が住んでいる」が正しいなら、「この世には魑魅魍魎が住んでいる」も正しい。そのことを頭だけで理解して、魑魅魍魎を回避するためだけに子どもを私立に進ませようとしているのなら、それはちょっと残念だけど、だからと言って他人の方針に口を出す権利はないから、何も言えなかった。

 

「魑魅魍魎が住んでいる」ことを頭で理解するか、自分の目で確認するか、その二者択一はなかなか難しいことだけど、自分の半生や友人・知人の生き方を見てきて思うのは、子どもが(良くも悪くも)どんな恐ろしい魑魅魍魎の世界に進もうとも、親がブレさえしなければ、子どもは親が理解できる範囲の「魑魅魍魎」にしかならない、ということ。ただし、親がブレた瞬間に、子どもは理解不能な「魑魅魍魎」になる可能性があるから、「ブレなし」だけは死守する。逆に、死守すべきはそれぐらいだろう。

 

ただ、魑魅魍魎と上手く対峙できるかどうかは、運もあれば結果論的な要素もあるから、子どもたちが上手く対峙できない可能性も大いにあるわけで、その点は覚悟するしかない。もしも学校に行けなくなる日が来たら、日本でも世界でもいいから一緒に旅をして、「学校」という世界なんて豆粒ほどの大きさでしかないことを実感させてやりたい。

 

「勉強」という点では、構造的にも体質的にも私立の方が有利なのは明らかだけど、子ども時代の貴重な時間をたくさん費やした挙句に、大学ランキングで毎年、世界の有名大学の後塵を拝する程度の大学に行くぐらいなら、魑魅魍魎の世界を存分に堪能するのも1つの道ではないかと個人的には思っている。

 

所詮この世は魑魅魍魎だらけだから、なるべく魑魅魍魎だらけの世界を歩んでいきたい。その中で、我が子にどのレベルの「魑魅魍魎」になってもらうのか、その辺りが親業の醍醐味のような気もする。どんな人間も、他人にとっては多かれ少なかれ魑魅魍魎なわけだからさ。

 

そして、どのレベルの「魑魅魍魎」を受け入れられるかの指標が、今はやりの「多様性/ダイバーシティ」ってやつなんだろうけど、その魑魅魍魎の経験値(単純なところでは公立 vs. 私立)と結婚/離婚(あるいは幸福度)との間には、ひょっとして何らかの相関があるのかもしれないね。調べたわけじゃないけど。

 

というわけで、「魑魅魍魎」というワードを 28 回も使いつつ、公立出身の「魑魅魍魎」の視点で、私立出身の「魑魅魍魎」に言えなかったことを駄文化してみました。

 

ち・み・もー・りょー

 

 

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