敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

体罰で加速するブルース&ロック|愛叫ぶ子供とのコントラスト

 

 

昨日、ムスコNの幼稚園で、園生活の1年の締めくくりとなる「発表会」があり、仕事を抜け出して見に行った。

 

ミュージカルあり合奏あり合唱あり、盛りだくさんの2時間だった。合唱では、「できると信じること」「愛さえあれば」などのフレーズがたくさん出てきて、少し「押しつけがましいな」と感じつつも、練習の成果や子どもたちの成長ぶりを目の当たりにして、不覚にも目頭が熱くなってしまった。

 

その数時間前、国際 NGO である公益社団法人「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」から発表された「体罰」の意識・実態調査に関する記事を読んでいたこともあり、「愛」を大声で歌い叫ぶ子どもの姿がやけに眩しく、「体罰」と「愛」という言葉が織りなすコントラスト(対比)の中で、少し自分を見失いそうになった。

 

prtimes.jp

 

「セーブ・ザ・チルドレン」によれば、全国2万人の大人を対象とした体罰等に関する意識調査の結果、「しつけのため、子どもに対して積極的に体罰すべき」という回答が1.2%、「必要に応じてすべき」が 16.3%、「他に手段がないと思った時のみすべき」が39.3%で、全体として6割近くが体罰を容認しているらしい。

 

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また、1030人を抽出した実態調査の結果、70.1%の親が「しつけとして子どもをたたいたこと」があり、「子どもの言動に対してイライラする」「孤独を感じる」「育児、家事、仕事の両立が難しいと感じる」といった悩みが大きい親ほど、たたく傾向が強かったらしい。

 

さらに、体罰の連鎖(体罰を受けた経験と自身の子どもへの体罰との関係)に関する調査では、やはり体罰を受けた経験がある親ほど、自身の子どもにも体罰を加える傾向にあり、体罰を受けた経験が「全くない」人でさえ、約6割もが、自身の子どもには1回以上体罰を加えたことがあるらしい。

 

子育ての中で、この種の様々な情報に触れてきたこともあり、体罰が「しつけ」の一環として残っている現実は知っていたものの、思った以上に容認派の割合が高く、少し驚いた。自分自身も、子どもを厳しく叱ったり、感情があふれてしまったり、ということが全くないわけではないため、子どもに対するイライラや家事・育児と仕事の両立が難しいことは分かっているつもりである。それでも、決して一線を越えたくないという強い気持ちはある。自分が子どもなら、叩かれて嬉しいことなどない。

 

* * *

 

以前、雑誌か何かで「子どもは無視されるよりも怒られる方が『かまってもらっている』感を持てるため嬉しく、怒られ慣れている子どもは、わざと怒られるようなことを繰り返す傾向にある」というような内容の記事を読んだ記憶がある。

 

確かに、怒られ慣れている子どもは、家庭や学校でいくら怒られようが、全く気にしない素振りを見せることが多いように感じるし、小学校時代を思い出しても、怒られる児童は、ひたすら先生に怒られ続けていた。

 

近頃、社会という「開かれた」空間の中では、「体罰」「虐待」というものに対する意識がかなり高まってきており、さまざまな対策や措置が講じられてきている。一方、「セーブ・ザ・チルドレン」の調査によれば、家庭という「閉じた」空間の中では、依然として「体罰」容認派が過半数を占めており、そのギャップにかなり不安を覚える。

 

家庭で叱られたり怒られたり叩かれたりしている子どもは、もしそれに慣れてしまっているなら、学校でも大人の関心を引こうとして、敢えて怒られるような行動に出ることはないだろうか。一方、その学校では、体罰が厳しく禁じられているのである。「学校で体罰を容認せよ」と言うつもりなど1ミリも1ミクロンも1ナノメートルもないが、家庭と学校との「体罰」に関するギャップが大きすぎては、どこかに歪みが生じるのも当然のように思える。

 

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人間は、成功や出世、名誉や報酬などの「栄光」に向かって走る生き物かもしれない。自分にそのつもりがなくても、「栄光」に向かって走る者たちがいる限り、社会というのはその方向に引っ張られる。

 

栄光に向かって走っている間は良いが、その競争から落ちこぼれてしまう者もいる。あるいは、栄光に向かって走るために、走りたくない者まで巻き込もうとする者もいる。競争に勝つ強者がいる一方で、競争に負ける弱者も必ずいる。社会というのは、放っておけば強者から弱者へと否応なく刃の連鎖が向かってしまう空間だろう。

 

夕暮れ時。弱い者たちがさらに弱い者をたたけば、ブルースは加速していき、そのブルースからロックなどが生まれて、「自由がないから自由を求める」という一つの文化が形成されてゆく面もあるのだろうが、それはある意味ネガティブな文化かもしれないし、こと「子育て」に関しては、体罰からブルースやロックが生まれてくることにどれだけの意味があるのだろう、と考えてしまう。

 

「愛」を大声で歌い叫ぶ子どもたちは、すでに大きな自由を獲得しているのだろうか。それとも、自由を獲得するために、今後はブルースやロックを歌うことになるのだろうか。親としては、最初から自由を与えることと、自由を獲得しようとする闘いの機会を与えることと、どちらに正解があるのか迷うことが多々ある。

 

何とも不思議な気持ちになった「発表会」だった。

 

 

 

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